これは1997年12月6日に開かれたフォーラム90sのシンポジウム〈「自由主義史観」と象徴天皇制の現在〉での私の報告を整理・加筆したものです。
(1)経過と現状
私の「自由主義史観の現在・レジュメ」というのがお手元に行っていると思いますが、正確に言うとこれはレジュメではありません、メモと抜き書きというようなものです。というのは、これから坂本多加雄の『象徴天皇制度と日本の来歴』という本を中心に、自由主義史観派の最近の言説を検討していこうとおもいますが、彼の本をお読みになった方があまりいらっしゃらないということを前提にしてこれを作ったものですから、本の中からできるだけ論点になるようなところを抜き書きしてあります。彼の文章を踏まえて討論できるような材料として扱って頂けたらいいと思います。
初めに経過です。小山君が今、「自由主義史観研究会」の創立から「新しい歴史教科書をつくる会」を経て現在どういうところに来ているかということを、出版労連の資料なんかを通じて、まとめて報告したわけですけれども、私は彼らの運動にある種の変化がおこっていると思うんです。おさらいになりますけれど、もう一度経過をざっとたどっておきますと、「自由主義史観研究会」が発足したのは、1995年7月、代表は藤岡信勝、このとき彼らの「お誘い」という文章があるんですけれども、そこで「自由主義史観」とは何か、ということを言っている。そこでは彼は一方に「大東亜戦争肯定論」を立て、それと対抗するものとして「東京裁判史観」とか「コミンテルン史観」と彼らがよぶものを立てているわけですね。で、自分達は、その両方に与さないということを言うわけです。そして、日本の近現代史についてもっと自由な立場から歴史を見直そうという目的を掲げて、この研究会を発足させた。
この段階では、結構、中学校、高校の現場の歴史教師たちには反響があった、これに参加する人もすくなくなかった、というように思います。と言うのは藤岡は、――最近みんな「氏」をつけるんだけれども、面倒くさいから呼び捨てにします。べつに他意はありません。――藤岡はご承知のように、教育実践について論評をずっとやってきた人で、そういう意味では現場の教師に対するある程度の影響力を持っていた人だと思います。それで、どういう授業をやったら良いのかという現場の人の疑問なり、あるいは悩みに割に応える、内容は別にしてですね、応えるという姿勢をずっともっていた人だったと思います。そういう意味では現場の教師に対する影響力は比較的強い人だと思います。日本の近現代史の授業について、現場の教師のあいだにいろいろな疑問や悩みがあるだろうことはわれわれにも十分に了解できることだし、そのある部分が、戦後の公式的な平和教育の弱点に起因していることも十分に了解できることです。そこに現場教師が「自由主義史観」に一定の期待感をもった理由があると思います。
ところが、これが発足してわずか半年あまり後に、97年の新しく採用される中学校の歴史教科書に従軍慰安婦の強制連行問題が取り上げられるということで、それに対する反対を主要な課題にした「新しい歴史教科書をつくる会」というのがつくられるわけですね。これが1996年12月です。これの発起人は、藤岡、西尾幹二、坂本多加雄、小林よしのり、会長は西尾です。ここで注目しなければいけないのは、西尾幹二はご承知の通り「大東亜戦争肯定論」者です。それと、藤岡たちの「自由主義史観」が手を結んだ。というところに一つ大きな転換点としての意味があります。
この西尾幹二たちの大東亜戦争肯定論に対しては、林健太郎というこれまた右派の歴史家から、これは大東亜戦争肯定論ではないか、そういうのは駄目なんだという批判が出てきて、これは『正論』誌上で若干の論争になったことです。
そういう形で「自由主義史観研究会」のそもそもの発足の時の建て前が急速に崩れて行って、従軍慰安婦問題をめぐって、言ってみれば右派、大衆運動のレベルでは右翼と結んで行った。それで、それが現在、教科書からの従軍慰安婦の記述削除を要求する決議を全国的に地方議会レベルでやっている。これは1995年の戦後五十年の時の「謝罪決議」反対の右派のキャンペーンとそっくりの構造を持った、大衆的動員のスタイルです。こういうところに今来ているわけです。
ところで「つくる会」は、設立記念シンポジウムというのを、97年3月31日にやっていますが、その全文は『正論』の6月号に載っています。
この時の司会は藤岡、基調報告は西尾幹二、総合司会というのはなんとなく人寄せみたいなものなんですけれども、大月隆寛、パネラーが小林よしのりなど、マスコミ受けのするような顔をずらっとそろえて、そして激烈な教科書批判をやったわけですね。この段階で、これを見て本当に歴史教育はこれでいいのかという疑問をもって参加していた現場教師の中に、自由主義史観研究会から離れていく人がだいぶ出てきたようです。
これが今年の上半期の状況だったわけですが、連続して、3月に続いて6月に「つくる会」の第2回シンポジウムがありました。これは司会が今度は西尾幹二で、基調報告が坂本多加雄になっていますね。この坂本多加雄は第1回のシンポジウムではパネラーになっていない。『正論』の10月号にこのシンポジウムの全文が載っています。つまり若干の間を置いて、これが載っているわけなんですけれども、このシンポジウムは非常に面白い。この時の坂本多加雄の基調報告では、従軍慰安婦問題について一言も触れられていません。そして議論百出になりまして、伊藤隆という「昭和史」の専門家ですが、彼は統一的な教科書なんかできっこないんだから、みんなが勝手に、自分がこれで行こうと思う教科書を一人一人が書けばいいじゃないか、というようなことまで言い出してしまって、また彼は坂本多加雄の基調報告に対して、「昭和期に関する考え方は私は坂本さんと全面的に違います」「しかしそれはこの場では申しません」というんだから、どこが違うのか私たちには全然わからない。そういう形で意見も対立したし、内部的にはこんな形では教科書はできない、つまり新しい教科書を「つくる」会なんですから、それがこれではできない、というような意見が出てきてしまうというような状態に来た、ということが非常に特徴的です。
藤岡たちは、彼らがタテマエとしてかかげた「自由主義史観」とは相容れないはずの西尾幹二たちと手を結んで、教科書における従軍慰安婦問題をきわめて扇情的に提起して、マスメディアにどっと登場していく、そういう戦術をとった。最初彼らは自虐史観批判というかたちで現場の教師たちの疑問に対するある種の応答をしていったけど、しかし実際にはきわめて短時日のうちに右翼と手をむすぶことになり、実際の運動では、教科書からの従軍慰安婦についての記述を削除する要求決議を地方議会で組織して行く。そういう中で、純粋に教育的な関心から「研究会」や「作る会」に近づいていた非政治的な現場教師が離れていくという状況が出てきたわけです。
これではまずい、と誰かが考えたんじゃないか。例えば藤岡の場合で言えば、歴史教科書を作るといいながら、日本の歴史を語るのに司馬遼太郎しか頭に浮かばないというような、なんともプアーな、学問的にいっても問題にならないようなダーティーな、しかしマスコミ受けだけはするような形でのセンセーショナルな問題の提起をする。そういうところから、一種の方向転換をやらざるをえない。そういうところに彼らの運動はさしかかってきたと言えるのではないでしょうか。そしてその次のステージに登場したのが坂本多加雄です。彼は日本の近代精神史を研究している学者です。アカデミックな意味でも通用するいくつかの業績があります。ではそのあたらしいステージとはどういうものかと言いますと、自虐史観批判といういわばネガティブなところから、もっとポジティブに近現代史を統一的に叙述できるような彼らの史観――自由主義史観というようなヌエ的な思いつきではなく、いちおう論理的な整合性をもって歴史を語れるような、そういう史観を作りはじめたといえると思います。それを一口で言うと、国民統合史観、あるいは象徴天皇制史観というようなものです。そこでは従軍慰安婦問題はむしろ後ろに引っ込んで来ている。
従軍慰安婦問題というのは非常に大きな問題で、ひとつは言うまでもなく戦後の日本をどう見るかという根本問題にかかわっていますし、同時にこれは歴史における事実とは何か、証拠と証言、あるいは文書と語り、というような歴史学の方法にまでかかわる問題に突き当たらざるを得ない、そういうひろがりをもっています。藤岡や西尾のように歴史とは物語であるというところで居直ってしまうような、雑ぱくな考えでは到底ものの役にたたない。そこに阪本多加雄という、アカデミシャンが登場して来る一つの条件があったと思います。
(2)キーワードとしての「来歴」
その坂本多加雄のこの問題に関する主著は、ここにあげました『象徴天皇制度と日本の来歴』というもので、発行は1995年10月です。自由主義史観研究会の発足とほぼ同時におそらくそれとはほとんど関係なく、書かれたものだと思います。これは、第6回読売論壇賞というのを受賞しています。坂本というのはどういうひとか、ここに彼の本の奥付けにある経歴を写しておきました。1950年生まれ、東大法学部、法学部政治学研究科の博士課程を終了している。法学博士。学習院大学法学部の助教授をへて、現在は学習院大学法学部教授です。ハーバード大学の客員研究員も務めている。著書に『山路愛山』だとか『市場/道徳/秩序』それから『日本は自らの来歴を語りうるか』、『近代日本精神史論』それから『福沢諭吉』というような本を書いている。一応日本の近代における精神史を主要な研究テーマにしてきた人です。
それで『象徴天皇制度と日本の来歴』という本ですが、「来歴」というのが彼のキーワードですね。
彼の歴史観を構成する基本的なカテゴリーが幾つかあります。それは、歴史、物語、来歴、筋、この四つです。まず、彼は個人の例を取り上げます。たとえば私なら私が、あなたはどういう人ですかと聞かれた時に、どういう風に答えうるだろうか。現在こういう職業をやっていますという風に、あるいは現在こういう考え方を持っていますという風に答えただけでは、その人の全部は解らない。その人が生まれて現在に至るまで、どういう生き方をしてきたのかということを物語らないと、他人にとって私なら私という人間が、解ったという風には受け取られない。一人の人間が、戦争中は軍国主義者であったとします。それが、現在は平和主義者になっている。しかし現在私は平和主義者ですと言ったんでは、自分を全面的に他人に解らせることにはならない。そもそも軍国主義者であった私が、どういう契機、どういう経過をたどって平和主義者になったのかという、そこまで話さないと、他人には解らない。ところが、一人の人間でさえも、ある人間が軍国主義者から平和主義者に変わる転機をきちんと、論理的には説明できない。そこである物語りが必要になってくる。ここでつまり、歴史と物語り、そして物語りとして来歴を語るという、そういう彼のスタンスがでてくるのです。
こういう言い方は解らないことはないんですけれど、驚くべきことに彼は、それを日本という国家にそのまま当てはめてしまいす。外国の人に、日本はどういう国かと聞かれた時に、この来歴を語らない限り、日本というものは理解してもらえないのだ、と彼は言います。それだけではなく、このような物語を自分のうちに持つことによって、人間の自己同一性、つまりアイデンティティというものがたもたれると言うわけです。ここでは歴史学的な正確さよりも物語としての一貫性こそが重要だと言うわけです。
そこで当然、歴史と物語とフィクションの関係が問題になるわけですね。坂本は歴史と物語りは違うんだ、とまず分けてしまう。その物語りとは何かというと、物語りにも二つある。このあたりいかにも学者らしいんですけれどね、一つは文学、フィクションとしての物語り。もう一つは来歴という物語だ、というんです。
つまり、フィクションとしての物語りは事実ではない。ところが来歴の中には事実が一杯ある。ただその事実が整合性をもって、一貫して他人に説明できない。そこで筋ということを言うんです。筋が通ってないと来歴は語れない。その無理に、無理にとは彼は言わないんですけれど、筋を通そうとすればそこに、事実だけではなくてある種のフィクションもはいりうる。あるいは事実のなかのある部分を特に強調して、ある部分は無視してしまうとか、そうした取捨選択を含めた、筋が必要になってくる。そうした筋を通すというのが、来歴を語る上での一番大きな問題なんだというのが彼の歴史方法論です。
ここを認めるとあとは一瀉千里に行くんです。彼の議論はじつは非常に単純です。物語り、あるいは来歴は科学じゃないんだ、あるいは科学的な歴史じゃないんだ、ということを言ってしまう以上は、それは科学的に証明されないんじゃないか、という批判は的外れだと逃げてしまえる条件を作ってしまうんですね。科学的な正確さよりも物語的な一貫性の方が重要なんです。
では、このような立場から彼は日本の来歴をどのように語ろうとするのか。お手許のレジュメからいくつかのパラグラフを読んでみます。
《戦後の来歴については、さしあたり、日本国憲法の理念とされた平和主義と民主主義を軸とする物語を思い浮かべればよいであろう。そこでは、戦前までの日本が、非民主的な政体のもとにあって、対外的には、軍国主義的な侵略戦争の道を歩み、その目論見が失敗した結果、「国民主権」の実現と非武装の確立という新しい理想に目覚めて再出発したという「回心」の物語が語られていた。湾岸戦争の際に、半世紀近くにわたる戦後の日本の「平和主義」の危機が叫ばれたり、ここ数年来の「戦争責任」・「戦後補償」をめぐる喧しい論議も、このような従来の来歴が改めて先鋭な意識の対象に上っていることのあらわれである。/先に、戦後の我々が前提としていた来歴が、あくまで物語であり、客観的な歴史そのものではないということを述べた。そのことの意味は、この来歴には、特定の語り手がおり、そこには、その語り手の実践的な関心が投影されているということである。このような物語は、誰によって語られたのであろうか。今さら言うまでもないが、日本に対して極東国際軍事裁判を挙行し、日本国憲法の実質的制作者となった連合国軍司令部であるということになるであろう。》(54〜55ページ)《戦後の日本に課せられた来歴を積極的に受け容れようとした人々は、連合軍の実践的関心の向こう側に、そうした特定の国家という語り手を捨象した「世界の進歩」の来歴を読み取り、まさしく「人類」の名において、それを自らのものとしようとしたのである。》(58ページ)《かくして、こうした来歴のもと、日本人は、かつて、偏狭な「国家」観念の悪夢から目覚め、新しく、「人類」的立場において、世界に臨まねばならないという考え方が広がることになった。すなわち、この新しい来歴においては、そこで相対的な意義しか持たない「国家」という観念が忌避され、「人間」とか、「市民」とか、「人民」とかいった「普遍的」な名において、日本のありうべき態度が語られることになった。》(61ページ)
戦前から戦中を体験した人にとって、日本の政体が非民主的なものであったこと、そして対外的には軍国主義的な侵略戦争の道を歩んだことは、けっして「物語」ではありません、「客観的な歴史」そのものです。それは坂本が言うように、占領軍によって語られたり日本人に「課せられた」というようなものでもありません。それは日本人の経験であり記憶なのです。坂本は、このような日本人の経験や記憶を、アメリカ占領軍によって押しつけられた「物語」、日本人の自己同一性を破壊するためにつくられたフィクションだと主張するわけです。なぜ彼はこのように日本人の経験に根ざした歴史意識を解体しようとするのか。なぜ彼はこのように「人間」とか「市民」とか「人民」という世界に向かって開かれた「普遍性」を目の敵にし、日本国家の特殊性を主張するのか。彼はこう書いています。
《このような戦後の来歴が日本に要請する行動が、かの非武装中立政策であった。》(p.63)
《その際、「人類」の来歴は、そこから「理想主義」的要素が排除されてしまうと、単なる物質的欲望と生理的な意味での快・不快という基底レベルの「普遍性」に着目する「人間」の立場に転換することで、戦後日本の経済活動への専念と平和主義的心情を側面から合理化することになったのである。》(p.64)
《しかしながら、ここですくなくとも明らかになったのは、「人間」としての普遍的な喜怒哀楽の感情をストレートに表明すれば、そのまま世界に受け容れられると考えるのは、日本人だけの思い込みだったのではないかということである。確かに「平和」は誰にとっても望ましい。しかし、「大いなる不正」のもとでの「平和」についても、そのようなことが無条件に言えるのか。おそらく、ここから、人間の基底レベルの感情や反応を越えた真の思考が始まるのであり、湾岸戦争は、そのことを改めて告知するものだったのである。》(p.66)
《ともあれ、冷戦の終了や湾岸戦争以降の情勢は、戦後の日本が自明としてきた来歴が、それほど当然のごとくに世界から理解されるものではないことをますます明らかにしつつある。》(p.77)
《このことの意味は、わが国が従来の形骸化した「人類」や「人間」としての来歴をそのまま維持しながら、国際社会に臨むことは困難になりつつあるということである。》(同)
いくつかのパラグラフを抜いてここに収録しましたけれども、ここに彼の現在の問題関心といいますか、モチーフが端的に示されていると思います。なんのことはない、湾岸戦争の当時、小沢一郎をとりまく保守派知識人たちがかしましく喋りたてた「一国平和主義批判」「普通の国論」「国際貢献論」と同じレベルの現実的関心が基礎になっています。湾岸戦争を「大いなる不正」にたいする「正義」の戦いと、いまもって単純に信じているのだとしたら、この人はあれからの六年間を何を見、何を考えて生きてきたのか。ほとんどここのところは藤岡信勝と同じですね。
保守派の主張の特徴は、「普通の国」「国際貢献」を主張しながら同時にナショナリズムの再構築を主張するところにあるとおもいますが、坂本多加雄もその点ではまったくおなじです。彼にとっての「普通の国」のイメージは、憲法9条とくに第2項を削除し、自衛隊を解散して国軍を作る。徴兵制は今すぐ採用する必要はないけれども、国家のために兵役に就くことが誇りになるような教育をしろ、というわけです。兵役に就くことは国民の誇りだと世界のどの国の国民も思っている。日本だけが例外だ。その点でも日本は世界並みの国にならなければならない、と主張しています。
(3)ナショナリズムの再構築
ここまでは単純な改憲論、日本普通の国論にすぎません。この普通の国論がナショナリズムの再構築とセットになっているところに保守派の主張の特徴があると申しましたが、このナショナリズムの再構築の内容が坂本の議論の大変大きな特徴になっています。彼のナショナリズム論の中心は、日本の「来歴」をいかに「再発見」し、国民統合の中心に据えるかというところにあります。そこに彼が特に歴史教育という問題にかかわる理由があるわけです。そして彼が主張するこの「来歴」とは、民衆の来歴でもそれぞれの時代の支配者の来歴でもなく、制度としての天皇の来歴なのです。ナショナリズムはかならず、他のネーションにたいする自分のネーションの独自性――ほとんどの場合、優越性――を主張するものですが、坂本にとって日本の独自性は、制度としての天皇の一貫した存在とその統治上の「比類無い」優越性にほかなりません。
しかしここで彼は、ひとつの大きな困難にぶつかります。それは、1945年8月15日の敗戦とそれにつづく戦後改革によって、坂本の言う「来歴」は断絶しているのではないかという問題です。戦前・戦中と戦後との断絶という問題です。これは法律的、社会経済的、また思想史的な現実です。この断絶を無化することなしには、坂本的な「来歴」を語ることはできません。そこで彼は、先ほども紹介したように、この断絶の物語は占領軍がつくって日本国民にあたえたものであって、それは国民的アイデンティティの解体をねらった戦略的なイデオロギー操作だと主張するわけです。しかしそれだけではとうてい戦後を生きてきた人びとを納得させることはできません。そこでこの主張に「学問的」な衣装を着せる必要があります。そこのところの展開が、彼の議論を藤岡や西尾などダーティーな連中と違う一見緻密な論理に見せる原因ともなっています。そこで彼はいくつかの困難を「学問的」に解決しなければなりません。
まず彼がぶつかる難問は、明治憲法と戦後の日本国憲法との「連続性」を証明しなければならないという問題です。
先ほども言いましたように、彼にとって日本の来歴を語る場合の筋とは何かといいますと、これは天皇制です。つまり一貫して日本を日本たらしめてきたものは天皇制である、と彼は主張している。自由主義史観の連中が天皇制についてはほとんど触れないのに比べ、彼は歴史の中心に天皇制を据えます。しかもこの天皇制は、日本の来歴として語る以上、明治維新で成立した天皇制ではなくて、古代から、律令制の中での天皇制を含めてのそれです。
そこで彼はどうしても、戦後憲法、つまり日本国憲法と、明治憲法との間の連続性を語らなければならない。と言うことは、敗戦までの天皇制と戦後の象徴天皇制との連続についても説得的に語らなければならない。そしてここが断絶していることが、日本人が自分の来歴を語り得なくなっている、つまり日本人としてのアイデンティティを喪失している最大の理由だと彼は考えるわけですね。
明治憲法と日本国憲法が、どう言う形で連続性をもっているのかというところを、彼はこの本の大きなスペースを割いて論じるわけですが、なかなか面白いところがありますね。たとえば、1970年代の半ばごろから、日本国憲法が押し付け憲法であるということを、たとえば江藤淳なんかが盛んに言い出すわけです。これは江藤淳から現在の『敗戦後論』における加藤典洋まで共通しています。護憲派は戦後憲法を平和憲法だ、平和憲法だといって金科玉条のようにしているけれども、あの平和憲法は占領軍の武力によって押し付けられたものではないか。平和憲法が武力によって押し付けられたというそもそもの出発点をうやむやにするな、と言うわけです。江藤淳の場合はそういう憲法は、だから改正しなければいけないということになり、加藤典洋の場合は、自分は平和憲法は良いと思っている、9条を含めて自分は支持している、だけどそういう汚れた出発を持ったこの憲法は一度、国民投票で選び直さなければいけない、と主張しているわけですね。
ところが坂本多加雄は全然違う。彼はこう言っています。《日本国憲法は、昭和天皇が、明治天皇によって発せられた「立国の憲法」である「五箇条の御誓文」に対して、敗戦の原因についての反省や戦後の劇的な情勢の変化を勘案して、新たな解釈を下したうえで、帝国憲法の「改正」を「裁可」し「公布」した結果、誕生したものに他ならない。》そしてさらにこうも言っています。《日本国憲法の制定が占領軍の意向によるものであったことは繰り返すまでもないが、改めて振り返ってみると、それが、帝国憲法の一定の改良としての面を有していることも見落とすべきではないであろう。》(147ページ)この戦後憲法は、経過はどうであれ、天皇が改正を裁可し公布したものだから、これは憲法として合法性を持っている。しかも、50年間この憲法で日本人はやってきたのだから、それはもう日本人の憲法になっているので、これが押し付けられたかどうかということに、もちろん押し付けられたのだけれども、そのことは大したことではないんだ、というふうに彼は言うんですね。ここは、今までの自主憲法制定論とは大きな違いがある。天皇がちゃんと手続きを踏んで改正したんだから文句を言うなということでしょうかね。
しかしその上で、さきほども言いましたように、彼は憲法前文の「しかるべき部分」と第9条とりわけ第2項が、《「平和と民主主義」に関わる「人類」の来歴に由来するもの》で日本の来歴にふさわしくないと根本的な改訂を呼びかけています。
(4)象徴天皇制の弁護論
ではなぜ彼は、戦後憲法の理念とされる平和と民主主義を日本の来歴にふさわしくないと言うのか? つぎのように言っています。
《護憲派にとって何よりも重要なのは、日本国憲法の文言そのものではなく、十八世紀末のフランスの政治変動を特徴づける「革命」の物語なのである。》(p.87)
《フランス革命の神話に拘束された言説が流布するなかで、日本は民主主義の意識の点で、世界に遅れているという、自己否定的な来歴が、戦後の日本人を拘束することになったのである。》(p.95)
《昭和二十年の八月十五日には、「革命」などは生じなかったのであり、それゆえ、日本国憲法成立までは、占領軍の権力のもとにおいてであれ、帝国憲法が有効に機能していたのである。そして、日本国憲法は、帝国憲法形成の結果として誕生したのである。》(p.100)
つまり護憲派の歴史認識は、フランス革命に由来する自由・平等・友愛の物語であり、その中心には君主制を打倒して共和制を国家の最高形態と考える「革命」の歴史観があるのであって、それは日本の来歴にふさわしくない、というわけです。ここでもまた、連続だけが強調されます。その連続の立場から憲法を見る場合に、さらに現れる困難は言うまでもなく敗戦までの明治憲法における天皇制の規定と戦後憲法における象徴天皇制とをいかに連続として説明するかという問題です。そこで彼が採用するのは、国体と政体を区別するというある種の明治憲法解釈学です。彼はこう言います。
《帝国憲法第一条による「統治」すなわち「しらす」の主体が天皇であり、しかも、それが、第四条の「統治権」の「総攬」の主体としての天皇よりも根元的な意味を持つとすれば、帝国憲法の改正としての日本国憲法の誕生は、この第四条の天皇の地位が変化したに留まるのであり、第一条の天皇の地位には、根源的な変化はないが故に、そうした改正は、「合憲」であると解することが可能ではなかろうか。》(p.112)
坂本他加雄の思考様式の特徴は、なんでも二つに分けて、そのそれぞれを都合のいいように使い分けるところにあります。たとえばここでも、彼は成文憲法と「実質的な意味の憲法」を分け、後者により根源的な意味を与えています。具体的には昭和天皇が人間宣言のなかで引き合いに出した明治天皇の「五箇条の御誓文」なるものがそれです。また彼は、国体と政体を区別して、明治憲法の第一条による天皇の「統治」は本来は「しらす」と言うべきもので、それは国体にかんする規定であり、第四条の天皇の「統治権」の「総攬」は政体についての規定であって、前者の方がより根源的な規定だと言います。そのうえで彼は《「国体」が、「実質的な意味の憲法」の根本的な規範の部分を示す観念であるとして、それをひとつの文章で示すとすれば、それは、「日本は、天皇がしろしめす国である」ということになるであろう。》(p.115)と言います。
このような論理展開のいわば必然的な帰結として、坂本は1946年1月1日の昭和天皇の「人間宣言」を全面的に否定します。「現人神」(アラヒトガミ)であったはずの天皇が自分からそれを否定されては、戦前・戦中からの連続性が疑われるというわけです。そこで彼は、天皇を神であると言う場合の神は、ヨーロッパやアラブの唯一神ではない。そういう外部にある絶対的な権威ではない、ということを言うんですね。それでは何かというと、畏怖すべき能力あるいは力を持ったものを指して日本人は古来から神といっていた。例えば自然も神、雷も神だった。そして現在でも例えば、川上を野球の神様というじゃないか。天皇が神だというのと、川上が野球の神様だというのは同じ意味なんだ、とこういう訳ですね。そういう畏怖すべき力を持った、人々に常ならぬ感銘と怖れを感じさせるものが神と称されてきた。それは、ゴッドとはまったく違うものなんだ、と言う訳です。ではなぜ人びとは天皇にそのような畏怖すべき力を、つまり神を見いだすのかというと、それは古代からつづいている実質的な意味での憲法があるからだ。天皇が日本国の象徴である、という風に憲法が規定した場合も、それはその実質的な憲法というものがあるから、皆が天皇をそのようなものとして受け容れるのだというわけです。
ではそのような天皇の連続性を保証する実質としての憲法とは何かというと、その中心にあるのが大嘗祭なんですね。古来から天皇が天皇である証拠としたものとして、大嘗祭がある。大嘗祭によって天皇が即位するという時に、その天皇、肉体を持った天皇個人はどんなやつでもいいんだ、と言う。高祖高宗の霊を大嘗祭によって受け継ぐということが重要なのであって、その受け継ぐ天皇個人、人間としての天皇がどんな愚かなものであっても、それはいいんだ。天皇にはいろんな人間がいるんだ。優れた天皇もいるし、馬鹿な天皇もいる。だけれどもこうやって高祖高宗の霊を受け継いで来たが故に、愚かな人間も天皇でありうるんだ、これが憲法に規定されない、つまり成文憲法に規定されない、実質的な意味での日本の憲法なんだと彼は主張するわけなんです。
(5)天皇主権と国民主権
そういう人間がどうして象徴で有り得るのか、彼はそこで、明治憲法と日本国憲法との整合性を語らなければならないわけですね。そこに断絶があっては彼の主張はなりたたない。そこで彼は当然のことながら「革命」が嫌いす。戦後の歴史学の最大の欠陥は、フランス革命を歴史上のひとつの規範にしたからだ、つまりフランス革命が、人間の進歩の典型だというような前提を持ったから日本の歴史学はだめだし、それによって戦後憲法を理解しようとするから、敗戦によって日本には革命が起こって、断絶が起こったのだという議論がでてくる。しかし、そうではないんだ、というんですね。で、この明治憲法と戦後憲法の関係での、彼にとってのネックは、天皇の主権と国民主権という規定がどう整合性を持つのか、ということであり、そしてもう一つは国民主権と象徴天皇制というものがどうして両立し得るのかということを、憲法学的にきちんと説明しなければならない、今までのフランス革命モデルで歴史を考える立場の人たちには、この連続性は説明がつかないと彼は言います。つまり戦後歴史学によっては日本人のアイデンティティは回復不可能だというわけです。
彼は憲法上の天皇の規定について、日本国の象徴であるという規定と、日本国民統合の象徴であるという規定とは、違うということを言っている。日本国の象徴というのは、これは大嘗祭によって受け継がれてきた天皇、つまり「しらす」天皇、「アラヒトガミ」の天皇についての規定であり、日本国民統合の象徴というのは、主権をもった国民が、天皇によって統合されているということの表現なんだ、というふうに彼は二つ分けるわけです。この天皇の二つの面は、一方を神話的、他方を世俗的と言えるかも知れません。日本国の象徴というのは大嘗祭によって代表されるような祭祀行為なんですね。彼はこれについて、こう言っています。《〔新嘗祭のような〕このような儀式は、日本国というものを、それが創設されて以来の時間的経過のなかで変わることのない存在として可視的に現前させることにその意義を有しており、こうした天皇を劇的な中心に据えた儀式が国民という観衆の前で公然と挙行されるまさにそのことが、「天皇は日本国の象徴である」といいうことの本来的な意味なのである。》(p.161)。正月に参賀に行く、そこに天皇一家が出てきて、皆が日の丸の旗を振って万歳と言う。とうていこの関係は大衆的ではありませんね。しかしそういう一種の権威的な出現をとおして、その時、日本国家はリプレゼント(表象、代表)されるのだ、というのが彼の主張です。そしてこのような「アラヒトガミ」的な天皇は、古来、直接の政治的な支配とは関係ないものだった、つまり戦後の象徴天皇制はけっして例外的なものではなく本来的な天皇のあり方なのだというわけです。
これにたいし、天皇のもう一つの面である「国民統合の象徴」としての天皇とは、もっとずっと日常的な、たとえば国民体育大会に行くとか、植樹祭に行くとか、いわば大衆天皇制的なビヘイビアを通じて国民と接し、そのことによって天皇中心に国民が統合されていく、その機能を呼ぶとしています。そしてこのような象徴天皇制と国民主権とはどのような整合性をもって共存できるかについて彼は、《日本国憲法は、「国政の権威」が自らに由来するという「国民主権」の原理を「国民」が宣言することそれ自体を、改めて、天皇が「裁可」し「公布」することで成立しているのである。この独特の論理構成をどのように説明するのか、これこそ、日本憲法学の課題でなければならない。》(p.101)と言います。加藤典洋は「戦後のねじれ」ということをさかんに言いますが、これこそがまさに最大の「ねじれ」であることは、あらためて言うまでもありません。坂本もこの「ねじれ」には気づいているようで、《新たな憲法制定の物語を構想しなければならない。もとより、ここで制定の物語といわれるものは、日本国憲法が制定される現実の政治的過程をリアリズム的に描写するものを意味しない。ここでは、あくまで、日本国憲法の正当性を弁証するような成立の物語が模索されねばならないのである。》(p.95)と、おもわず地金をさらけだしています。意外に坂本という人は正直なんでしょうか。しかしこれは学者の吐くセリフではない。三百代言を自認する人間だけが吐ける言葉です。
彼の本に即していろいろ話をしていきますと多岐に亘ってしまうんですけれども、象徴天皇制についての彼の理解、そして明治憲法と日本国憲法との連続性をいかに整合的に説明するかということについての彼の主張は、おおよそのところはおわかりいただけたかと思います。
これまでの話でもおわかりいただけたとおもいますが、坂本多加雄の主要な関心は、国民意識の統合装置としての「日本の来歴」をいかにつくりだすかというところにあります。そこで彼は《まとまった国家の来歴は、それなりに意識的な努力によって語られるものである。それでは、このような意識的努力は、どのようにしてなされていくのであろうか。それは、多くの場合、初等・中等の歴史教育においてであるし、……歴史的記念碑や、様々な公的な記憶を記念する祝日の制定とそれにまつわる各種の儀式によってである。》と主張します。これが彼が「あたらしい歴史教科書をつくる会」に参加した理由です。
(6)坂本批判の要点
さて、このような坂本の主張をどのように批判したらいいのか。そのごく根本のところだけにしぼって、わたくしの考えを述べてみたいと思います。
坂本多加雄の理論の特徴は、すべてを「幻想」という領域に転位してしまうところにあります。それがもっとも顕著にあらわれるのが、彼の「来歴」論の中心に位置する国家についてと天皇制についての理論においてです。彼は国家について、《そもそも、国家という存在は、実は、それ自身の眼に見える実体を持たないもの、すなわち、ある一定の地域に居住する特定の人々が何らかの統合された状態を指すに過ぎない。》(p.11)と言います。彼の理論の出発点がここにあって、これがひっくり返ると彼の議論はほとんど崩壊してしまう、それくらいの問題です。
もちろん、国家を国家たらしめるものは幻想的共同性だ、ということは正しい。しかしそれは、そういう幻想的な共同性が国家だ、というわけではないんですね。国家というのは具体的な機構です。軍隊とか警察とか裁判所と監獄とか、あるいはそれらを運営する官僚制度とか議会とか、《眼に見える実体を持たない》どころか、はっきりと眼に見えわれわれの日常を肉体的に管理し統制し支配している機構です。問題はしかし、このような機構がなぜ「公共性」をもつものと意識され、公共の利害の代表者として地域住民に受け容れられるのか、というところにあります。最近の金融機関の破綻に対する国家の対応を見ればだれでもがわかるように、これらの機構は特定の階層や集団の利害に忠実に動いているのであって、大蔵省が庶民の味方だなどということはない。ところがあたかもそれらが、公共の利害を代表しているかのような錯覚を人びとにあたえることができるのは、地域住民のあいだに幻想的な共同性が存在するからです。そしてその幻想的な共同性の最たるものが「国民」という幻想に他なりません。
ところが坂本によると、国家というのは全然実体がないということになるんですね。ある人々が統合された、――統合されたというのはつまりある共同性を持っているということですから、幻想的な共同性を持った人々の集まりが国家だ、という風になります。しかし国家のなかには分裂があり、階級対立があり、民族的・人種的・宗教的な対立や葛藤がある。そういう対立があることは、これはもう自明の理です。ところが坂本は統合ということしか言わない。統合がイコール国家だ、統合に反するものは国家を破壊するものだ、という風に論理的に展開していってしまう。なぜこのようなことになるかと言えば、これは彼の国家論が現実の国家、なまなましい葛藤をくりかえす現実の国家から出発せずに、幻想的な共同性から出発するという逆立ちした展開の道筋をたどっているからです。法学部出身でよくこういう国家理論を言うなと思いますけれども、彼の議論全体がすべて意識のレベルの話になっている。
天皇についても彼の理論的なアプローチは同じです。彼はこう言っています。《そもそも、歴代の天皇とは、いずれも、常に存在しながらも、それ自体は不可視であるところの「皇祖皇宗」の神霊が、その都度「再現前」されたものであり、「現人神」とは、まさにその謂いである。》(p.158)《「天皇」とは、〔……〕あくまで制度であるということを念頭におくことが肝要である。そのことの意味は、「天皇」という観念が、単に単独の個人の身体を指示するのではなく、「天皇」として行うことが定められた一連の行為を内包する観念であるということである。》(p.159)
ここでは共同幻想のかわりに「皇祖皇宗の神霊」が出てきます。つまり天皇を天皇たらしめるものはこの「神霊」にほかなりません。生身の天皇はこの神霊を再現前(リプリゼント)させるための「制度」にすぎない。したがって、個々の天皇の資質など問題にならないというわけです。ではどのようにしてこの「神霊」は再現前するのか。わたしもぜひそういうものに一度対面したいとおもいますが、坂本はその具体的な形には言及しないでとつぜんこんなことを言い出します。《たとえば、新年参賀の際に、天皇が観衆のなかに姿を現し、観衆がこれに歓呼をもって迎えるという劇的な場面そのものが、日本国を可視的に現前させていると考えればよいのである。》(p.159)
どうやら、日本国、天皇、皇祖皇宗の神霊――これらはひとつのもののことのようです。彼が再構成しようとしている「日本国の来歴」なるものも、これらの三位一体の来歴以外のなにものでもないようです。そしてこのような来歴を共有することによって、幻想的共同性としての「日本国民」がより統合された形で形成されるというわけです。もうすでにお気づきのように、この国民のなかには、沖縄やアイヌはもちろん日本国内に居住し、「国民」となっている異なった神話をもつ人たちの入る余地はありません。そしてこのような「来歴」は、外に対しては容易に「八紘一宇」となってあらわれるでしょう。
さらに、象徴天皇制それ自体について、戦後憲法制定をめぐる論争について、日本の近・現代史における戦争の評価について、等々、われわれの坂本批判は今後も各論的に深めていく必要があります。坂本多加雄の議論は、保守派のイデオローグにはめずらしくある種の体系性をそなえています。しかもそのなかには、ベネディクト・アンダーソンから「想像の共同体」を、カール・シュミットから「リプレゼンテーション」を、そして丸山真男の「政事の構造」からは「しらす」と「まつる」の用法を、そして明示的にではないが折口信夫の大嘗祭や現人神論を、そしておそらく決定的には和辻哲郎の天皇制論から、……というぐあいに、論の展開に都合のいいものを雑炊的になんでもぶち込んでいます。それは体系的雑炊とでも呼ぶべきものです。
そして彼はもっぱらそれをつかって国民統合のための「来歴」を語ろうとします。この「来歴」は学問としての歴史ではありません。彼は《来歴というものは、個人の場合においてもそうであるように、国家の場合においても、過去の事実や経験を今日的な観点から整理し意味づけるという点に意義を有するのである。》(p.234)と言います。と同時に《このような「事実」は、観念の成立について物語的に記述されたものであり、そうした観念が、個々の場合に、どの程度に現実に妥当してきたかは別の問題である。》(p.175)とも言います。こうして「国家の来歴」なるものは、学的な検討から完全に免除されたきわめて恣意的な、そして国家運用の政治的必要に全面的に従属したイデオロギーとしてわれわれの前に登場しているわけです。
イデオロギー批判の要諦は、それが虚偽だと批判するだけでなく、それが生まれる(あるいは社会的に受け容れられる)根拠にまで立ち入って批判することです。坂本の論がナショナリズムだ、天皇制の擁護だといくら言ってみても、それはあまり意味のあることではないでしょう。なぜなら彼は、天皇制の擁護のために、国民的アイデンティティの再構築のためにこれらの論を展開しているのですから。われわれももっと踏み込む必要があるとおもいます。