〔一〕
「六〇年代」について書かれた本や論文は枚挙にいとまのないほどの数に達している。それは今日もなお増えつづけている。そしてその中心をなすのがいぜんとして政治党派の歴史やその回想、政治思想の変遷についての論であることもかわりがない。しかしこのように政治的「新左翼」中心の文脈では、「六〇年代」の転換は一九七二年二月の連合赤軍事件でおわったということになりかねない。事実、多くの「六〇年代」論がこの連赤事件でおわっているのである。このような見方を私はとらない。これでは「六〇年代」の転換のもつ豊かな内容も、われわれの現在にたいしてもつその批判的な意義も、ともに見失われるからである。
「六〇年代」の転換の中心に政治があることは言うまでもない。「前衛党神話の崩壊」が「六〇年代」の幕を開き、「反帝国主義・反スターリン主義」が一政治党派のスローガンを超えて多くの活動家に共有された。たしかにあたかも政治運動や政治思想が「六〇年代」の転換を生み出した原動力のように見える。しかしそれは転倒した見方であるように思える。多くの「六〇年代」にかかわる論文を書いているウォーラステインはそのひとつで、「一つの事象としては、「一九六八年」ははるか以前に終わっている。にもかかわらず、これは近代世界システムの歴史形成に関わる重大な事象の一つであり、分水界的事象と呼ぶべき性格のものである。すなわち、世界システムの文化・イデオロギー的実体が、この事象によって明確に変化したことを意味する」(一九六八年―世界システムにおける革命・命題と設問の形式で」、『ポスト・アメリカ』所収、藤原書店刊)と言っているが、一九六八年つまりパリの「五月革命」に「六〇年代」の転換を特化してしまうのは論外としても、これは表層的な見方であるように思える。「この事象」が文化・イデオロギーの変化を生んだのではなく、その変化を顕在化させたのである。「この事象」が世界の構造的な変化を生み出したのではなく、世界の構造的な変化が「この事象」を生み出したのだと言うべきだろう。「転換」はひとつの過程であって、そこに「分水界」的な出来事があることは事実だとしても、それによって顕在化する変化はそれより以前から進行していたのであって、その変化に規定された社会的、文化的闘争もまた五〇年代の後半から世界の各地に、そしてさまざまな形態で現れていたのである。
〔二〕
世界の構造的な変化が人びとに意識されるのは、まず「風景」の変貌を通してではないだろうか。そして六〇年代の「風景」の変貌とそこにおける人間の内面をもっともよくとらえた文学作品は、意外におもわれるかもしれないが中野重治の『甲乙丙丁』(『群像』一九六五年一月号〜六九年九月号)だ。「街あるき」の作者にふさわしく、この作の主人公も街を歩く。目的地よりもそこに到る過程が、そしてかえりの道でのさまざまな発見が重要なのである。彼をとりまくのは、彼が今まで見たこともないような、戦後日本の分水嶺をなす東京オリンピックを目前にした異常な空間だ。
「とてもじゃないが……」というこのごろ流行〔ルビ→はや〕りの言葉が津田の頭に浮かぶ。
「とてもじゃないが……」
バスはつっかえつっかえして走って津田は左側のある地点をのぞいてみた。
「ないな……」
一週間も乗らなければたちまち変ってしまう。空襲の時期とは全くちがった調子で街が強制的に立ちのかされ、後片づけができぬままで新工事が始められ、きのうまであった店が影もなくなるというのが日常化されている。
この店そのものは元からあった。おばあさんが――今のおかみさんには何の関係もない。――一人で店をやっていた。おばあさんには息子夫婦がいたが、彼らは下谷の方で勤めてそっちに住んでいる。オリンピック騒ぎなしにも、それ以前から街衢〔ルビ→がいく〕改正問題はこの辺で一面に出ていた。しかしオリンピックが本ぎまりになるが早いか、矢のように速くいろんな思わくが走り出した。おばあさんも息子夫婦もどぎつく利にさといという方ではなかった。立退き反対運動などもいろいろに起き、全くもっともでおばあさんの賛成したものもあったが、それにしてもそれらは変質して行った。最後に、おばあさん一人で足もとを見られたのでもあったが、そのおでん屋は割りに安い引越し補償で伜夫婦のところへ移って行った。街の取壊しはまだここまでは及んでいなかった。家はおばあさんのものだったが土地は別に地主がいた。その地主にこのおかみさんの亭主が渡りをつけ、それからおばあさんのところへ出かけて行って伜夫婦と三人に交渉した。彼はここを買い取った。そしてこのおかみさんに形ばかり店をやらしている。「形ばかり」というところに意味がある……
アトランダムに抜き出したのは『甲乙丙丁』十四節の一部である。この節全体がバスに乗っての「街あるき」というおもむきをもっている。主人公の前に見知らぬあたらしい風景があらわれる。そのあたらしい風景のなかから見知った親しい風景がよみがえる。その見知った、しかしすでに失われた風景が、そのなかでかつて主人公が体験したさまざまな出来ごとの記憶をよみがえらせる。その回想がまた現在の変貌をきわだたせる。たんに風景だけではない。人もこの国の姿も世界も「党」も変貌しているのだ。すべてが未知なのである。古い共産主義者である主人公には、ソ連と中国が対立しおたがいに罵りあうような事態は理解をこえている。
江藤淳は、高度成長の入り口(東京オリンピック)の頃の風景の変貌を描いた卓抜した都市小説として『甲乙丙丁』を評価した。その指摘は正しいが、しかし中野重治が描いたのは風景だけではない。そこに描かれた風景の頽落は同時にいままで中野の自己同一性を保証していた世界の頽落にほかならず、その視線は言うまでもなく中野自身の主体的な危機と無縁ではない。『甲乙丙丁』は共産党の党内闘争を扱ってはいるが、党内闘争のための小説ではない。そのような読みをするかぎり、この小説はとうの昔にその生命をおわっている。そうではなく、未知の時代に直面したとき人はどのように振る舞うのか、そこでの記憶、「想起する」という仕事がどのような意味をもっているのか、それを深く考えさせるのがこの作品である。(拙稿「記憶の現在としての中野重治の小説」、『aala』一九九四年号、およびシンポジウム「『甲乙丙丁』を読む」での私の報告、『中野重治研究』第一輯、一九九七年、を参照)
〔三〕
もういちどウォーラステインにもどる。彼は前掲の論文の中で「反文化運動(カウンターカルチャー)は、革命の陶酔の一部であったけれども、政治的には一九六八年の中心部分にはならなかった」と言っている。これは賛同しがたい。文化という問題がこの時代の中心をなしていたことは、中国の文化大革命を想起するだけでも十分だ。文化批判の理論としてのフランクフルト学派の業績が再発見され、第二次世界大戦直後に書かれたルフェーブルの『日常生活批判序説』があらためて注目されるようになったのも、すべてこの文脈のなかでであった。
かつてアンドレ・ブルトンは、「「世界を変革すること」とマルクスは言いました。「人生を変えること」と、ランボーは言いました。これら二つのスローガンは、わたしたちにとっては、一つになるのです」(『アンドレ・ブルトン集成・5』人文書院刊、二一五頁)と言ったことがある。これは、一九三五年六月にパリで開かれたファシズムに反対する国際作家会議のための発言草稿の結びの一節だ。出席を妨害されたブルトンにかわってエリュアールが代読しようとしたが、それもスターリニストによって妨害された。「六〇年代」の生活と闘争のなかで、過去の、「正統派」によって隠蔽され抹殺されたいくつもの言葉や本が再発見され、それらが、いま現在を生きる糧となってよみがえったのだったが、この言葉もそのひとつだ。そしてこれは、「一九六〇年代の転換」をもっともよく象徴する言葉だと、私には思える。
「一九六〇年代の転換」は、その根底において、「革命とは一つの階級から他の階級への国家権力の移行である」というようなレーニン主義的革命観の否定のうえになりたっていた。
政治がすべての社会生活に優位するという政治観を根底からくつがえす契機となったのは、一九五六年のスターリン批判にほかならなかった。思想の「六〇年代」はこのときから始まる。賛成すると反対するとを問わず、第一次世界大戦以後の世界において、社会主義は歴史的必然性をもって不可避的に到達する目標と考えられていた。ソ連こそその歴史を先取りした希望の国だったのである。プロレタリア権力は社会のすべての矛盾・抑圧・差別を解消し人間的解放を実現すると信じられていた。第二次大戦後の冷戦時代に、その幻想は大きく揺らいだが、一九五六年にソ連の権力者自身の口からその暗部が暴露されたことによって、「ロシア革命の変質」は万人の目にさらされることになった。多くの人びとがその変質の原因究明にとりかかった。そこで一つの流れとしてあらわれたのが、生活の変革なしに国家権力によって人間の解放を実現することはできないという考えである。ここでいう生活とは、人と人との関係、さらに言えば文化ということだ。
そこで「文化」を定義しておく必要がある。かつて私は次のように書いた。いまのところまだ訂正する必要を認めないのでそのまま引用しておきたい。
私は文化を、そのもっとも広い意味においては、「生の生産および再生産」(つまり「食う」ことと「生む」こと)において、それぞれの人間集団が形成した型と方法〔4字傍点〕だ、と規定した。ここで重要なのは、この「生の生産および再生産」という人間の存在の継続性を保証しているものは何か、ということである。いうまでもなくそれは生産にほかならない。そして生産という行為は、けっして単独にではなく、「社会的分業」の一定の形態、すなわち生産関係においておこなわれる。つまり生産という人間が生きていくうえで不可欠の行為を同じように継続するには、その生産のための「人と人との関係」もまた、たえず同じように再生産されなければならないということになる。そしてこの「関係」の再生産を強制的に保証することこそ、国家の第一の役割なのである。したがって、生産手段の私的ないし国家的所有という制度のもとでは、国家は所有者階級の利益に奉仕するものとしてしか存在しえない。言い方を変えれば、このような条件のもとで国家が保証する「人と人との関係」の再生産とは、階級の再生産、つまり支配と被支配の構造の再生産にほかならないのである。
(「現代革命論への序説」、『歴史の道標から』一九八九年七月、れんが書房新社刊、所収)
つまり「文化」は、他の生物から区別された人間の生(life)の継続性を保証するものであると同時に、権力関係の継続性をも保証するものなのだ。だから一九三五年にアンドレ・ブルトンが主張し、一九六八年にJ・P・サルトルが主張したように、「文化は擁護されてはならない」ということは、たんに正しいだけでなく「六〇年代の転換」の核心にふれていたのである。なぜなら文化もまた社会的権力であり、「階級社会における支配的なイデオロギーは支配階級のイデオロギーである」という事実に照らせば、程度の差はあるにしても超階級的な文化などというものは存在しないのである。
しかし「生活を変える」ことは生活を破壊することではない。それは既成国家機構の粉砕をその中心課題としたレーニン主義的な政治革命とは異なった地平に属する。「生活を変える」という課題を政治的暴力によって遂行した中国やカンボジアのいわゆる「文化革命」が、民衆の大量殺戮という結果しか生まなかった原因のひとつは、この地平の混同にあったことは明らかだ。文化の革命はけっして弾圧・強制・検閲・禁止などによって可能になるのではなく、文化批判の創造的な作業を通じての新しい文化の実現によってしか達成できない。そのためには、いかなる権力のもとであれ表現の自由は必須の条件なのである。
〔四〕
日本に目を転じよう。三池闘争が象徴するように、一九六〇年は産業社会のエネルギー構造が決定的に転換した年であり、ポスト産業社会、高度情報社会の入り口となった年であった。情報化社会の中軸をしめる、大衆的情報伝達手段としてのテレヴィジョンの普及過程を簡単な年表として示すと次の通りである。
一九五三年二月 NHK東京テレビ局本放送を開始
八月 日本テレビ放送網(NTV)開局
五八年七月 東京タワー完成
五九年一月 教育テレビ放送開始
四月 皇太子結婚式、パレード中継
一九六〇年九月 カラーテレビ本放送を開始
六二年三月 テレビ受信契約数一〇〇〇万をこえる
六三年一一月 初の日米間テレビ衛星中継Tケネディ暗殺Uを速報
六四年一〇月 オリンピック東京大会を欧米へ衛星中継
六九年七月 アポロ一一号による人類初の月面第一歩を宇宙中継
一九七〇年三月 日本万国博覧会開幕(開会式実況)
七一年一〇月 総合テレビ全時間カラー化
七二年二月 浅間山荘事件を長時間中継
五月 沖縄、日本に復帰。沖縄・宮古・八重山放送局開局
五〇年代の後半から進行した大衆社会化は六〇年代にはいっていっきょに情報化社会として高度化した。テレビ・コマーシャル、ファッション、バラエティーというような映像を通して、人びとは象徴的表現に急速に順応していった。社会のリアリティーは高度情報社会の象徴体系によって厚く覆われた。これらの問題については、『メディアの牢獄』(一九八二年刊)から『情報資本主義批判』(一九八五年刊)にいたる粉川哲夫の諸著作をぜひ参照してもらいたい。彼の本のほぼすべてはウエッブ・サイト《粉川哲夫の本》(http://anarchy.k2.tku.ac.jp/japanese/books/)で無料で読むことができる。そこには「以下のすべてのテキストの複製・印刷は自由です。copyrightなんてもう古い」という注記がある。
このような社会ではすべての行為が多かれ少なかれ象徴的な意味をもつ。五〇年代の日共武装闘争では火炎瓶は特定の少数者(中核自衛隊など)だけがもち、実際に交番を焼き、警察の車両の前進を阻む実効性のある武器と考えられたのにたいし、六〇年代後半の火炎瓶はデモ隊の誰もがもつことのできる象徴的な「武器」になった。五〇年代の武装闘争では、ゲバ棒や党派別に色分けされたヘルメットのようなものは思いつきもしなかった。六〇年代の闘争ではゲバ棒も火炎瓶もバリケードも象徴的行為だったのである。そしてそれが象徴的行為であったがゆえに、多くの人のなかば野次馬的ではあれ共感を呼び起こしたのだった。全共闘スタイルは広く学生風俗にさえなった。それはこの時代にヒッピーがヒッピースタイルとして風俗化したのと同じだ。
江藤淳はこの時代の運動を「ごっこの世界」と呼んで揶揄したが、彼はこのような象徴的行為をうみだす社会を理解しなかった。彼にとってこのような行為はただ堕落としか見えなかったのである。しかし象徴的行為の主役であった新左翼党派も自分たちの行為の意味を正確に理解していたわけではない。だから彼らの一部は火炎瓶を爆弾に、ゲバ棒を銃に、バリケードを山岳ベースに、実効性を求めて転換したとき壊滅するのである。それは三島由紀夫がこの時期にたどった道と対応している。
つぎにこの問題に関連して興味深い対談の一節を引用しておこう。
三島 僕は団蔵が死んだときに、書いた文章があるのです。八世市川団蔵が入水しましたね。あの歌舞伎の世界というのは、名優は自分が死なないで、死の演技をやる。それで芸術の最高潮に達するわけですね。しかし武士社会で、なぜ河原乞食と卑しめられたかというと、あれはほんとうには死なないではないか、それだけですよ。そのひと言だけで芸術はペチャンコですよ。団蔵は悲しいかな、ほんとうに一流の歌舞伎俳優で死んだのなら、立派だけれども、演技力は二流だった。それで死によってはじめて彼はなにものかに達した。そうすると団蔵くらい河原乞食の悲哀を知っていたものはないような気がする。自分がほんとうに死んだのだから。しかし芸術というのは、全部そういうふうに河原乞食で、なんだおまえは大きなことを言ってたって死なないではないか、と言われると、ペチャンコですよ。
埴谷 そうですか。僕は暗示者は死ぬ必要はないと思う。
三島 いや、僕は死ぬ必要があると思う。
埴谷 二十一世紀の芸術家は死ぬのではなくて、死を示せばいい。
三島 それは歌舞伎俳優と同じだ。
埴谷 妄想的にいえば、白鳥座六十一番からでもいいが、なにかがやってきて、天に黙示があらわれたとか、あるいはなにか音を発したというようなことをやればいいわけですよ。そういう工夫をする。実質もしれぬ誰かが死の重みによって何かになったように、それとの同じ重さを文学のうえに工夫するのです。新しい芸術家はこれから必ずしも原稿用紙に書くかどうか分からないけれども。
三島 予言ですか。
埴谷 予言も含んでおり、すべてを含んでるわけですね。
三島 啓示ですね。
埴谷 一種の啓示でしょうね。これまではここに言葉の発信者がいて、受信者がいてそれで伝達が完了したわけですね。それが発信者蒹受信者といったぐあいに相互感応する世界になる。
(「デカダンス意識と生死観」、『批評』一九六八年夏期号)
転換期はひとつの過程であって終着点ではない。この対談の一節はその過程性をよくあらわしていると言えるだろう。三島由紀夫は言葉ではなく行為をえらんだ。しかしこの転換期の最大の問題は「言葉」なのである。
〔五〕
「六〇年代の転換」のなかで「言語論的転回」という言葉が使われたかどうか、私にはさだかな記憶がない。しかし明らかに六〇年代の思想的・文学的シーンの中心を占めたのが、この「言語論的転回」であったことはきわだった事実だ。しかもそれは、「六〇年代の転換」のほとんどがそうであるように、どこかに発信源があってそれが広がったというようなものではなく、世界的な規模での同時多発的な様相を呈した。この国でそれを独自に担ったのが吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』(『試行』一九六一年九月号〜六五年六月号、六五年五月・汪ェ、同一〇月・巻、勁草書房刊)であったことはあらためて指摘するまでもないだろう。
彼は文学者の戦争責任を理論的な根拠にまでさかのぼって追及する意図をもって、「前世代の詩人たち」(『詩学』一九五五年一一月号)から「『戦旗』派の動向」(『現代詩』一九五八年一月号)そして「芸術的抵抗と挫折」(勁草書房版『講座現代芸術・第五巻』一九五八年四月刊)にいたるプロレタリア文学理論の批判を展開した。その成果は画期的なものと評価しなければならないが、しかし彼は、このようなプロレタリア文学理論の批判をとおしては、とうてい新しい文学理論の創造は不可能だと考えるにいたる。そのためにはたんにプロレタリア文学理論にとどまらず、言語表現の本質を解明することによって日本文学に骨がらみになっている素朴なリアリズム信仰を打破する必要があると考えるのである。『言語にとって美とはなにか』は、同時進行した「擬制の終焉」(『民主主義の神話』一九六〇年一〇月、現代思潮社刊)にはじまる一連の政治批判、「戦後文学の転換」(『文芸』一九六二年四月号)にはじまる戦後文学批判と併行して、「六〇年代」への錆びついた扉をこじ開ける力業だった。
「六〇年代の転換」の中心に言語への関心があったのには、もちろん現実的な根拠があった。それはポスト産業社会の出現により人と物との関係がはるかに希薄になり、また高度の情報化のなかで人びとの生活が象徴体系の厚い層に覆われるにいたったことから生じた。この時期に、反映論的な唯物論(ロシア・マルクス主義)は決定的に影響力を失い、サルトルやメルロ=ポンティなどの現象学からのマルクス主義へのアプローチや、その逆にマルクス主義から現象学に接近したチャン・デュク・タオの『現象学と弁証法的唯物論』などが注目された。しかしこれらの傾向は、後の「ポストモダン」と称された潮流とは異なり、物の実在の否定ないし無視ではなく、小林秀雄が『本居宣長』のなかで言っている言葉を借りれば「物に直かに行く道」の探究だったのである。そして、「直かに触れて来る物の経験も、裏を返せば、「徴〔ルビ→シルシ〕」としての言葉の経験なのである。両者は離せない。どちらが先でも後でもない。「古事記傳」の初めにある、「抑意〔一字ルビ→ココロ〕と事〔ルビ→コト〕と言〔ルビ→コトバ〕とは、みな相稱〔ルビ→アヒカナ〕へる物にして」云々の文は、其処まで、考え詰められた言葉と見なければならないものだ」という一節が明示しているように、この本もまた「六〇年代」の言語論的転回を実現した代表的な著作となったのである。
〔六〕
六〇年代は主観的能動性の時代である。歴史的必然性という歴史観では世界の未来はとうてい見通すことができないという不透明感が人びとをとらえた。しかもさまざまなイデオロギー装置、とくにマス・メディアによる意識の支配・統合に抗して未来を切り開くためには、人びとの意識の覚醒・変革、一人ひとりの個人の自立が不可欠であった。階級闘争のフィールドは、意識をめぐる闘争へと大きくシフトした。
このような課題に直面して、ロシア・マルクス主義によって葬り去られた過去のさまざまな試みが再発見され、正当に復権された。ルカーチの『歴史と階級意識』、カール・コルシュの『マルクス主義と哲学』そしてヴァルター・ベンヤミンの諸著作が続々と翻訳され、不可逆的な影響をそれ以後の思想・哲学の分野にもたらした。また、芸術・文学の領域では、意識をめぐる闘争の先駆的な実践者であったロシア・フォルマリストたちの仕事やブレヒトの「異化」の理論やシュールレアリストたちの「驚異」の発見の試みが注目された。これらはいずれも「六〇年代」の時代的な雰囲気を形成する重要なファクターとなった。激動の時代には死者もまた甦るのである。
プロレタリア文学理論に代表される反映論的なリアリズムからの解放は、目先の「現実」に閉じこめられていた想像力を一気に解放することになった。しかもそれは、埴谷雄高の「架空凝視」あるいは「妄想」と呼んだ方法が、じつはもっとも深い現実批判であり得ることの一般的な承認へと道を開いたのである。想像力の解放という意識をめぐる闘争の中心的な課題は、さまざまな領域に浸透した。夢野久作や小栗虫太郎やその他おおくの戦前の幻想的な探偵小説がつぎつぎに復刊され、広く愛読された。そしてそれらは松本清張たちの社会派推理小説とは別の一潮流を生み出す原動力になった。六〇年代の文学シーンの大きな特徴は、このような探偵/推理小説の隆盛であり、それはこの時代の雰囲気と別のものではない。謎として知覚される転換期の諸相は、謎解きとしての探偵小説をクローズアップし、非日常性の幻想的表現を大衆化した。幻想小説・探偵小説は「この時代」の小説になった。そしてそれは、特定のジャンルを超えてこの時代の芸術全般に浸透したのである。このような変化は、六〇年代の初頭におこった「純文学論争」を、はるかな昔語りにしてしまった。もはや純文学と大衆文学という区別は無意味になった。
しかしそれは文芸批評や文学史の領域内の問題にとどまらない。その意味を考えながらこの杜撰な覚え書きを閉じることにしよう。
〔七〕
六〇年代の心情は全体性への志向であった。もちろんそれは無惨に崩壊した国家的教条としてのロシア・マルクス主義の全体性とはまったく異なる。それは資本制社会そのものに規定された人間の在り方への、また知の細分化・個別化という文化の現実にたいする異議申し立てだった。大学闘争の根本のモチーフが知の細分化を自明の前提とする講座制への批判であったことを想起しよう。
純文学と大衆文学との区別が無意味になった社会的な背景には、大衆社会の高度化によって知識人と大衆という区別がほとんどなくなったことがある。しかし問題はそこにとどまらない。ここで批判にさらされたのは、ひとつのジャンルの中に充足すること自体であり、本来的な作品はジャンルの自明性にたいする「反」のかたちでしか成立しないということなのだ。六〇年代の代表的な作品である中井英夫の『虚無への供物』が、作者の意識においては反推理小説として構想されたということは、深い意味をもっている。
表現におけるヒエラルヒーは、六〇年代に完全に崩壊した。小説がもっていた特権的な地位は無化された。漫画、劇画、ロック・ミュージック、街頭演劇、等々……。これらの大衆的表現が六〇年代のトレンドを形成した。そしてそれらは多かれ少なかれ既成のジャンルにたいする「反」であり「叛」であった。ジャンルの寄せ集めにすぎない「総合芸術」は乗り越えられ、反芸術への端緒がひらかれた。
個別化を批判して全体性へという志向は、当然のことながら個別領域での専門家を否定する。それはもちろん一方に専門家を措定することで成立する素人主義や労働者万能主義などとはまったくことなる。
一九六七年に出版され、六〇年代をもっともよく代表する著作のひとつとなったギー・ドゥボールの『スペクタクルの社会』(邦訳は一九九三年、平凡社刊)のなかで彼は、個別的領域としての芸術の克服について、「ダダイスムは芸術の実現なしに芸術を破棄しようとした。そして、シュルレアリスムは、芸術を破棄することなく芸術を実現しようとした。シチュアシオニストがそれ以降、入念に作りあげてきた批評的立場は、芸術の破棄も実現も、同じ芸術というものを乗り越えるための不可分な両面であることを明らかにした」と言っている。これだけではなんとなく「弁証法的レトリック」と受け取られかねないが、われわれの言う芸術の克服とはたんなる否定ではないのである。
生活を変えようという呼びかけから資本制社会の個別化に抗して生の全体性を回復しようという呼びかけにいたるその底を流れているのは、人間の全的発達=解放をもとめる一種のユートピアであった。マルクスとエンゲルスがめずらしく未来社会の人間について語ったつぎの一節を引用しておきたい。
労働が分業化され始めると、各人は自分に押し付けられる一定の排他的な活動領域をもつようになり、それから抜け出せなくなる。彼は、猟師、漁夫あるいは牧人あるいは批判的批判家のどれかであって、生活の手段を失いたくなければそれであり続けざるをえない。――これにひきかえ、共産主義社会では、各人は排他的な活動領域というものをもたず、任意の諸部門で自分を磨くことができる。共産主義社会においては社会が生産の全般を規制しており、まさしくそのゆえに可能になることなのだが、私は今日はこれを、明日はあれをし、朝は狩をし、午後は漁をし、夕方には家畜を追い、そして食後には批判をする――猟師、漁夫、牧人あるいは批判家になることなく、私の好きなようにそうすることができるようになるのである。
(『ドイツ・イデオロギー』廣松渉編訳、岩波文庫、六六〜七頁)
たしかにユートピアであろう。しかし想像力の解放はこのユートピアの、いま、ここでの実現を希求したのである。そしてそれを実現できる条件をすでに人類は獲得していると考えたのである。それが「六〇年代の転換」の根底を流れる心情であった。
あれから三十年という歳月が流れた。たしかにあそこにあったのは祝祭的な空間と時間だった。祭りの後の白けた場からは、それは熱に浮かされた若気の所業と見えるかもしれない。しかしあのとき私たちは、人類史の根源的な課題をかいま見たのだ。それは今現在からもたえず立ち返るべき経験なのである。
大転換期──「60年代」の光芒(はしがき)
わたしたちの「読みかえる」という作業が、きわめて「六〇年代」的な問題意識から発していたことを、この巻の編集をつうじてあらためて確認した。この時代の趨勢を、ひと口に社会、政治、文化の全領域にわたるパラダイム・チェンジと呼ぶとすれば、文学においてもそれはたんに一作品の「読み」の転換にとどまらず、文学そのものの在り方自体が問われたのである。
「戦後文学」を主導した「近代文学」派の批評理論が、かつての政治の優位性論を根幹とするプロレタリア文学理論の修正にとどまり、いぜんとして「政治と文学」という枠組みをはなれることができなかったのにたいし、文学の「六〇年代」はそれを自律論によって力ずくで乗り越えることから始まったということができよう。しかしそのとき、文学は全社会生活における激動のなかに投げこまれたのである。当然のことながら、自律論は非政治主義でも文学至上主義でもありえなかった。かつて「政治」は文学の外部にあると考えられていたが、このときはるかに広い社会的な「政治」が文学に内在化したのである。このことによって、あらゆるジャンルが一種の機能転換をおこした。たんに小説だけでなく、詩や短歌などの諸ジャンルにおいて、この変動がどのようにその内部に生まれたかを追究することは、この巻の主要なテーマであった。
文学のこのような変動は、もちろんそれをとりまく社会全般の変動と連動していた。情報化社会への大衆社会の高度化は、あらゆる表現の流通形態を変えただけでなく、文学読者の意識を激変させた。また、この国の戦後思想の盲点であったアジア・アフリカへの視線の欠落は、「アジア・アフリカの時代」と呼ばれた六〇年代のなかで反省の端緒をつかんだ。それは「六〇年代」文学に大きな痕跡を残している。この巻では、文学を取り巻くこのような諸問題についてもできるだけカヴァーしようと試みたが、主として紙数の制約から不十分との批判は甘受しなければならない。
編集後記
「過去を歴史的に関連づけることは、それを『もともとあったとおりに』認識することではない。危機の瞬間にひらめくような回想をとらえることである」というのは、わたしの好きな「歴史哲学テーゼ」のなかのベンヤミンの言葉だ。
「六〇年代」は完結した過去ではないし、まして夢よもう一度と浪漫的に回顧されるようなものでもない。たとえ「痕跡」としてであっても、それはいまに生きている。歴史とは、われわれの文学史もふくめて、この「痕跡」を発見し、それをいま・ここでの批評意識によって照らし出すことである。歴史とは批評である。批評とは歴史である。
あの時代に、わたしは社会生活のさまざまな分野で責任を負わねばならない年齢に達していた。しかし渦中の人間には、全体もそこでの自分のポジションも、なかなか見とおすことはできなかったのである。いまあの時代をかえりみるとき、そのなかでわたしたちの道標となったものは、新しいなにかではなく、古いもののよみがえりだったという感を強くする。思想には進化論はなじまないというおもいが、あのとき以来、わたしのなかに牢固として根づいた。
そのようなわたしにとって、「読みかえる」ことは同時に発掘の作業でもあった。忘れられたもの、隠蔽されたもの、未発に終わったもの──これらの試みが、それが現在に残したどのように小さな「痕跡」をも見逃さない細心の観察を通して、入念に発掘されなければならない。
堀田善衞は一九七〇年から翌年にかけて書かれた『方丈記私記』のなかで、「古京はすでに荒れて、新都はいまだ成らず。ありとしある人は皆浮雲の思いをなせり」という鴨長明の言葉をくりかえしくりかえし引用しているが、これは九〇年以後のいまにこそますますふさわしい。大転換期はいまにつづいているのだ。しかも「新都はいまだ成らず」の感はますます深い。こういうときにこそ、未来への洞察力が不可欠なのである。そしてそれは、過去への視線のなかからしかうまれてこない。
もういちど繰り返そう。歴史は批評である。批評は歴史である。批評意識を欠落させた歴史など犬に食われろ。そんなものは大学講座制の補完物になるのが関の山だ。そしてわれわれの「読みかえ」もまた、つねにその危険にさらされているのである。
(『文学史を読みかえる』6号、2002年12月刊)