埴谷雄高が死んで文芸雑誌が一斉に追悼を特集した。目につく限りのそれらを読みながら、私は不満というよりも言い知れぬ憤懣を抑えることができなかった。そこで語られ追悼されているのは例外なく「文学者」埴谷雄高であり、その文学者とはとりもなおさず「小説家」のことなのであった。埴谷雄高が戦後も、その死に至るまでかつての『農民闘争』時代の同志と親密な関係をもち、深くこころをかよわせていたことは、ほんの一例として渋谷定輔、守屋典郎と三人で編集した『高く たかく 遠くの方へ』と題された伊東三郎の遺稿・追憶集一冊を見ればあきらかだ。彼はそこで「運動の全史をつくろう」という提案までもしているのである。運動、革命運動は彼にとってけっして過去のものではなかった。懐旧の対象でもなかった。また、彼のまわりには若い新しい世代の活動家たちが集まり、彼はそれをこころから喜んだだけでなく党派を超えて彼らを受け入れた。私自身そのような者として四十年来、埴谷雄高とつきあってきたのだったが、その月日をふまえて埴谷雄高の全人生を一言で表現すれば、それは「革命」という言葉以外にないのである。埴谷雄高の全著作、全作品の底から湧きあがってくるこの「革命」という基調低音に耳をとざしては、どのようにその文学者としての特異性や異端性を述べたてたところで、それは実際の埴谷雄高とはなんの関係もない。
しかしこのことは、埴谷雄高には文学的な顔と政治的な顔の二面があって、ほとんどの追悼文がその一方だけ、つまり文学的な側面だけを書いているから不満だ、という意味ではない。もちろんそうではない。そんなありふれた「政治と文学」という枠に埴谷雄高をおしこめてはならない。政治と文学の分裂と言うような立場からは、埴谷雄高の文学そのものを捉えることはできないのだ。
埴谷雄高は間違いなく小説家である。彼の残した仕事のなかでかけがえのないものといえば、それが小説『死霊』であると誰もが言うだろう。しかしそれ以外に彼が自分の作品のなかで小説と認めたものは、戦争中の「洞窟」と戦後の「意識」「虚空」「標的者」「深淵」、連作『闇のなかの黒い馬』などけっして多くない。そのほかの膨大な随筆・回想のなかには、この国の伝統的な観念からすれば小説と呼ぶのがふさわしいような作品もすくなくないにもかかわらず、彼はそれを小説に数えない。埴谷雄高の小説というジャンルにたいするハードルはたいへん高いと同時に独特なのである。
埴谷雄高は文学を人間精神のかたちをもっともよく表現する器と考えていたが、そのことは彼が小説至上主義者であったという意味ではない。彼は般若豊あるいは「無帽の長谷川」から埴谷雄高に転生する決定的な契機となった豊多摩刑務所でのカントとの出会いを語りながら、つぎのように書いている。
私は、現在でも、小説をひとつの手段としか考えていない。もし混沌たるなかでよろめく私の思考を十全にいれ得る容器が他にあれば、私はその他の方法へいさぎよく飛びつくだろう。そんな私にとっては、私達の生と存在のかたちを写すものとしての小説の機能は殆ど魅力的ではない。私達のあり得たかたちではなくして、あり得べき何か、謂わば未知のXをはらんでいないかぎりは私の気を牽かないのである。換言すれば、たとえ迷妄の仮象のなかによろめくにせよ、ひとつの怖ろしき創造が同時に認識となってしまうていの何ものかでなければ、私達を未来へ牽きゆく力をもたないというのが、私の小説論となってしまったのであった。 (「あまりに近代文学的な」)
このような埴谷雄高にとって、小説とは現実を「写す」ことでもなければ「再現」することでもないのは明らかだ。その小説は一種の「思考実験」にほかならないが、しかしそれは現実に閉じこめられることはなくても、同時に現実と無関係に荒唐無稽のお話であるわけでもない。だから埴谷雄高の文学・思想はつねに現実と非現実という両極に引き裂く力の磁場としてしか存在しない。それはフィクションを現実をよりよく見るための装置と考える従来の小説論とは決定的に異なる。彼にとってフィクションとは、宇宙に果てがあるとしてその果ての縁にたってその向こうを覗き込むための装置とでも言おうか。従来のフィクションが現実回帰的であるのにたいし、埴谷雄高のフィクションはあくまでも現実離脱的なのである。
とは言っても、埴谷雄高の小説は幻想小説ではない。なぜなら彼は「驚異」とか「不思議」に自足することがないからである。たしかに『死霊』の入口で私たちは、広い柱廊風の玄関、十二支の獣の絵模様が文字盤に描かれた永久運動をする時計台、水掻きの掌を噴水孔にした青銅の水魔が濡れた上半身を水面から表わしている噴水をもつ、広大なふるめかしい「瘋癲病院」に案内される。その道具建てから読者は小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』の館を連想したり、あるいはゴシックロマンスの舞台を想像するかも知れない。しかしそれは初版の「自序」で作者自身が言っているように、この小説を現実世界の引力から決定的に切り離すために「nowhere,
nobodyの場」へと読者を導くための仮構にすぎないのである。
中学二、三年の少年期に、真夜中の暗闇の部屋に蝋燭をともし、その焔を空気銃で撃つ遊びに熱中した《蝋燭の時期》の思い出を埴谷雄高は書いているが、それは同時に江戸川乱歩をはじめとする探偵小説への耽溺の時代でもあった。彼はそれについてつぎのように書いている。
敢えていえば、江戸川乱歩は私達の偏奇的な《蝋燭の時期》のいわば平均的な代表者なのであった。江戸川乱歩の出現は、当時、「新青年」の若い読者であった私には新鮮な喜びをもたらしたが、しかし、この『屋根裏の散歩者』や『赤い部屋』の作者も、蝋燭の焔がかき消えたあとの闇のなかの、怪奇的なもの、グロテスクなもの、幻想的なものへのより強い執着にさらにのめりこみこそすれ、黒い細い芯と小さな弾丸が如何なる力学的な構図のなかで詩的に飛び散るかという細密描写の方向にはむかわなかったのであって、換言すれば、自ら発光する明晰な数学的分析によって闇の原理を裏打ちするという困難な操作には、他の日本人と同じように、ついにのめりこまなかったのである。そして、その頃の年少の私もまた狭められた闇の原理の幼い使徒として、最初の時期、ポオを江戸川乱歩ふうに読んでいたのであった。(「ポオについて」)
これはエドガ・アラン・ポオについて語った文章の一節だが、いうまでもなくポオはドストエフスキーとともに、埴谷雄高のもっとも推賞する小説家である。そのなかで彼は自分の読書の変遷を、『アッシャー家の崩壊』や『ヴァルドマアル氏の病症』のような怪奇な味わいをもった作品にひかれた時期、つぎに『メエルシュトレエムに呑まれて』に代表される緻密な論理的明晰さこそがポオの真髄だと発見する時期、そして最後に『ユリイカ』にしめされるような「思想と想像力の緊密な融合こそ文学の基本的方向であることを強く確信」した時期の三つに分け、それをいわば自分の文学開眼の過程として語っている。
こうして、「思想と想像力の緊密な融合」あるいは「詩と論理の結婚」あるいは「仮象の論理学をはさんで背中合わせになったシャム兄弟としてのカントとドストエフスキー」と、さまざまに表現される埴谷雄高の文学的な理念がかたちをとることになる。
私はさきに、「nowhere, nobodyの場」に読者を導くために一見ゴシックロマンス風に語り出される『死霊』の導入部に言及したが、そこに構成される「非現実」こそ埴谷雄高のすべての小説を理解する鍵である。いやむしろ、埴谷雄高の全思想を解く鍵と言った方がいい。『死霊』の連載が始まった頃、つまりいまから五十年あまり前には、人びとはこの現実離脱の情熱をまったく理解できなかった。もちろん最年少の読者に属していた私も例外でない。自然主義やリアリズムに馴らされてきた目には、当時、いちはやく『近代文学』を批判し、とくに『死霊』に疑問を呈した伊藤整の、いったいこの小説のどこが「歴史も哲学もがそこに生命を汲むのでなければ遂に枯渇する外ないところの一切の源泉、一切の根柢、一切の基体であるところのかの実在」にふれているのか、という批判には同感するところが多かった。埴谷雄高のその後の歩みは、このような、存在するものこそが現実的なのだという「現実主義」にたいするたたかいだったのである。
眠りから醒める瞬間に、「さて、これからお前は外界のかたちにだまされるのだぞ」と一声高く叫んで森の奥に走りこむ「魔」について埴谷雄高は語っているが、彼にとって現実とはニセの姿であり、つねにわれわれの意識をからめとり誤った認識をあたえる罠なのである。そしてこの罠から逃れる一つの手段が夢だ。こう言うと、夢こそまこと、うつし世は夢、という乱歩の世界にまた還ってしまうようにおもわれるかもしれないが、そうではない。埴谷雄高にとって、夢とは世界認識の方法なのである。彼は現実と想像力についてつぎのように書く。
現実のなかに「事実」はあるけれども真実はなく、ただ緊密な構造をもった文学作品のなかにのみ真実がある。もし「目に見えぬものを見ようとする」想像力が私達の生の全体を支えつづけるならば」(「存在と想像力」)
これは文学至上主義でもまして小説至上主義でもない。文学は少数の特権者のものではなのである。すべての人が夢を見るということは、すべての人が可能性としての作家であるということだと埴谷雄高は言っている。つまり夢こそ想像力の原基的な形態なのだ。埴谷雄高は「夢について」「可能性の作家」「不可能性の作家」という夢についての三部からなるエッセイを書いたが、そこで彼は、われわれ誰もが夢を見ることによって作家となる可能性をあたえられながら、しかしその夢には果てしもない未知に向かって飛び立つ力と同時に、眼前の事物の肯定、疑いの喪失、偶然と偶然との無限の連鎖、自分自身の無反省的な登場、反省以前の「原始的感情」の支配というような、現実世界の否定的な反映におわるものが支配的であるが故に、可能性の作家が書く作品の多くは、「眼前に見られるすべてをつづった単純な記録、偶然と偶然によって組みたてられた読物、出世主義の記念碑として自己を押しだした伝記」でしかない、と指摘する。そして夢を出発点としながらさらにそれを想像力によって徹底化することこそ、真の可能性を生むのだと主張する。
客観的な対応物をもたない夢を、深夜、闇のなかに横たえられた頭蓋の暗い奥でみるごとく、私達にとって決して眺め知ることのできないその数千億年後の宇宙をおさめている時空の包容力のかたちをも、恐らくは暫くの裡にやがて私達は眺めてしまう筈である。そして、この種の《未知なものをすでに見てしまう》作業は、夢のよくなすところではなくして、もはや想像力の課題であるといわねばならない。/私は、私達がすべて可能性の作家であることを保証するのは夢であるとすでに述べたが、ここにいたってより厳密にいえば、夢は可能性の作家の出発をひたすら保証するというべきなのであって、もし可能性の作家がその第一歩をすでに踏みだし、さらにそれよりまた目測もしがたいほど幅広い数歩を空虚な空間に向って踏みだそうとするならば、夢はもはやその可能性の作家の働きを想像力にゆだねなければならないのである。(「不可能性の作家」)
現実のコピーのような夢ではなく、まったく未知の、思いがけない出来事や事物や感情の夢は、私たちが現実世界のなかで見れども見ることのできなかったもう一つの現実=非現実に至る入口にほかならないのである。しかしその入口をはいり、さらに歩をすすめるためにはもはや夢にだけたよるわけにはいかない。そこに想像力という意識的な営みが要求されることになる。ここでさらにつけくわえれば、埴谷雄高にとって想像力とは、空想でもなければ思いつきでもない。それはたえざる推論の飛躍的な積み重ねであり論理的な幻視とでも呼ぶべきものである。彼はそれを「想像的思惟」とか「思索的想像力」と呼んでいる。
さてそれでは、なぜ、このような推論的な想像力を使って、私たちにからみつき、私たちを捉えて離さない現実から離脱しなければならないのか。それはこの世界が物象化した世界であり、そのなかにいるかぎり私たちの意識もまた物象化した意識であることをまぬがれないからである。埴谷雄高はルカーチと違って、プロレタリアートの階級意識とかその最高形態としての党というような神話から、「無帽の長谷川」から埴谷雄高に転生する過程ではっきりと決別した。しかもそれはたんなる決別ではなかった。物象化しているのはこの世界だけではない、この世界を根本から変革する筈の、つまり物象化の克服者である筈の党もまた、この物象化からまぬがれ得ていないどころか、そのほとんど戯画的な体現者であったという経験的な事実をふまえて、彼はもういちどこの党をふくめた物象化した世界に挑戦をはじめたのである。そしてその出発点は、革命は社会の革命にとどまってはならない、革命は存在の革命にまで至らなければならない、というものであった。「二十世紀は事実と事物の世紀であって、そのなかに置かれた文学の特質は、一方では、《戦争と革命》に対する力学を掘りさげることと、さらにまた、他方では、暗黒のなかで微光をはなっているような《存在論》を掌のなかに握って、宇宙論的ヴィジョンのなかに私達の生を置くことにある」(「存在と非在とのっぺらぼう」)と彼は書いている。小説とは埴谷雄高にとって、そのような試みのための装置にほかならなかった。
埴谷雄高は埴谷雄高として出発するにあたっての宣言とも言うべき『不合理ゆえに吾信ず』に、「――私が 《自同律の不快》と呼んでいたもの、それをいまは語るべきか。」と書く。そして『死霊』のごく最初の回想の場面で、「三輪が論文を書きはじめていると、矢場がいっていた……」という黒川謙吉に、「書いている。『自同律の考究』という表題だ」と三輪与志は答える。「自同律の不快」は埴谷雄高を解く鍵であると同時に、埴谷雄高の革命論の鍵である。そこにはいかなる形而上学的な観念論も、いかなる神秘主義も、いかなる曖昧さもない。
とは言っても誤解がないわけではない。その最たるものがこれをただの疎外論的に理解して、人間回復への希求というありふれたヒューマニズムの水準にまで引き戻してしまうもっとも愚劣な読みである。埴谷雄高にとって、自同律の不快とは、私が私になり得ない不快だけでなく、私が私でしかあり得ないことへの不快でもあるのだ。しかも自同律は私にだけ関係するのではない。世界中の存在のすべてがその支配下にある。埴谷雄高はくり返し明快にそれを述べている。そのなかからいくつかのフレーズを煩をいとわず引用しておこう。まず、『死霊』第六章で三輪与志のよき理解者である黒川謙吉は津田夫人に、つぎのように語る。
――三輪は、自らが王になるため、考えに考えつづけて考えているのではありません。それどころか、三輪は、三輪自身をいまつくっているところの自分自身からも自身をきっぱりひきはなそうとしているのです。
――まあ、まあ、奇妙だこと。そりゃ与志さんはたしかに安寿子や私からあの自身に薄暗く閉じこもっている自身をひき離せるでしょうけど、与志さん自身をこの上なくはっきりつくっている――あのこの上なく陰気そうな顔からも、何時も黙りこくっているあの自分の薄暗く閉じた心からも、自身をひきはなすことなどできやしませんよ。
――そのできなことをこそ三輪は敢えてしなければならないのです。奥さんは、この青い空、明るい太陽、遠い海、深い森、孤独に光る星、などのすべてが、ここにこうしている私達のすべてをだましつづけているなどとは決して思われないでしょうけれど、あの三輪にとってはそれらはすべて三輪を三輪以外にしつづけてしまうものの総体にほかならないのです。そして、それらのなかで最も巧妙無比に三輪をだましおおせるものは、三輪与志と呼ばれるところのそのものなのです。
――なあんですって? それで、与志さんはどうしてでも――無理やりにでも、自分をいじめてでも、与志さん自身から自身をこの上もなく遠くひきはなしてしまおうとするのですって……? まあ、まあ、まあ、なんてややこしいこと。
――そうです。(中略)いわゆるこの世に許されぬ暗い背理です。三輪は、三輪自身からただただひたすら自身をひきはなすためにこそ自身に閉じこもっているのです。
さらに埴谷雄高自身の口から語るのを聞こう。
確かに、私達が何らかの試みを敢えてするとき、《私》から出発する以外に何らの手持ちはないでしょう。しかも、もちろん、私へ向って出発するときもまた同じ手持ちしかありません。そして、私達の精神の全歴史を、この唯一無二の、最初の、のっぴきならぬ観点からたいへん大ざっぱに括ってしまえば、《私であろうとする私》と《私でなくなろうとする私》の執拗で奇妙な変幻にとんだ葛藤の歴史にまで還元できなくもありません。(「論理と詩の婚姻について」)
………………
私達の肉体のなかに投げこまれた魂は、まず必然的に自同律に縛られます。と同時に、拡がりのある空間と時間のなかへ遠く投げだされた魂には自同律に縛られていることがたちまち桎梏と化すこともまた必然です。何故なら、何処かに「異なった思惟形式」が存し、「異なった私のかたち」が生れるのが、空間の果てもない広がりと時間の無限の変容のなかにある魂の必然だからです。(同)
そして最後に、矢場徹吾の三つの定言(テーゼ)はつぎのようなものである。
第一の定言――すべて出現したものは、その出現自体の理法に従って、それ自体と違ったところの或る何者かへ向って、必ず変革されねばならぬ。
第二の定言――これまでもたらされた全宇宙史は、すべて、誤謬の宇宙史にほかならぬ。
第三の定言――すべてを捨て去り得ても、「満たされざる魂」が求めに求めつづける標的たる自分でない自分に絶えずなろうとしつづけるところの無限大の自由だけはついについに捨て去り得ない。(『死霊』第七章)
「自同律の不快」は人間だけでなく、すべての存在の存在様式なのである。それは人間が、そして宇宙の全体が「変わっていく」ための原動力だ。そしてここが重要なところなのだが、埴谷雄高にとってこの変化はあくまでも内発的なものなのである。人間は誰かによって変えてもらうことはできないし、また誰かを変えることもできない。プロレタリアートの解放はプロレタリアート自身によってしか実現できない。人間だけでなくすべての存在の変化が内発的なものだ。石が変わるのは石自身が内包している不快感によってであって、雨や風が石を変えるのではないと埴谷雄高は考えている。
ここにシュティルナー的アナーキストとしての埴谷雄高の母斑を明確に見て取ることができる。そしてこの人間も、その他のすべての存在も、自己を不快と感じており変わることを熱望している、だからそれはかならず変わらねばならない、という彼の「革命論」は、一見、奇矯に見えながら、しかしきわめて根底的な含意をもっているのだ。私は埴谷雄高とのながいつきあいのなかで、彼の言説をマルクス主義の言語に翻訳してみせて、ときどき彼を辟易させることがあったが、そして彼の言説をマルクス主義的に解釈することに一般的には私は賛成しないが、しかしこの「存在の革命」についてだけは、あえて私流のマルクス主義的解釈をとりたい。つまり「人間と自然との関係」の変化にしたがって自然は変容していくという、マルクスの考えをここで参照してみると、存在の革命とはとりもなおさず人間と人間、自然と人間との関係の根本的な変革の、存在の側から見たかたちなのである。埴谷雄高はこれを「関係」の方から見るのでなくあくまでも主体の方から見ようとする。その意味で彼のアナーキズムは自我主義である。しかし同時に、彼にとって人間はミジンコによってその出現を弾劾される存在であるように、人間の出現も含めてこの宇宙史は過誤なのであり、われわれの世界史もまた過誤の世界史なのである。だからそれは近代的なエゴセントリズムとも人間中心主義ともまったくちがったものだ。埴谷雄高は晩年、コロンブス以後五百年の植民主義の歴史を弾劾してやまなかった。
最晩年の埴谷雄高は、ソ連崩壊についてどう思うかという私の執拗な問いに、毎回、判でおしたように「なにも変わらない」と答えるのだった。その通りなのである。自同律のもとで人間が不快であり、存在もまた不快に苦しんでいる限り、革命はもとめつづけられるのである。
しかしそれだけではない。われわれはかならず革命を実現して「あちら」に預けたままになっている死者をわれわれの方にとりもどさねばならないのだ。手をあげればすぐ届きそうなほど低く垂れたちぎれ雲が凄まじい勢いで頭上を走っている満月の夜に、スパイとして三輪高志たちに殺された「旋盤工」。そのとき三輪高志は言ったはずだ。「俺達はあの男をひとまず預けておかねばならない。」「彼が望んでいる『あちら』だ。そして……百年後にまた彼にこちらへ来てもらうのだ。革命は歴史だ。上部廃絶の成就した百年後に彼は革命の証人としてまた意味深くこちらへ登場してもらうことになる……。」(『死霊』五章)と。もちろん「あちら」にいるのは革命の死者だけではない。戦争の死者もまた「あちら」にとどまっているのである。こちら側を変えるまで、こちら側を根底から変えるまで、われわれはあの人たちをこちら側に取り戻すことができない。
死んでしまったものはもう何事も語らない。
ついにやってこないものはその充たされない苦痛を私達に訴えない。
ただなし得なかった悲痛な願望が、
私達に姿を見せることもない永劫の何物かが、
なにごとかに固執しつづけているひとりの精霊のように、
高い虚空の風の流れのなかで鳴っている。(「還元的リアリズム」)
埴谷さん、あなたもまた、いつか、あちら側から、帰還しなければならない一人です。
(『叛』創刊号、1997年6月刊)