人物事典・埴谷雄高
少年時代を台湾製糖社員の父とともに台湾で過ごす。亜熱帯の風物と植民地の現地人に対する差別の体験が、自然と社会への開眼の契機となる。1922(大正11)年東京に移り翌年目白中学2年に編入。ロシア文学を耽読する。28年日本大学予科に入学。スティルネリアンふうのアナキストとなり、学内の演劇活動に参加。「ソヴェート=コンミューン」という3部からなる戯曲と「革命と国家」という論文を執筆、レーニンの『国家と革命』を論破しようと試みたが果たさず、自身マルクス主義に転ずる。30年1月日大予科を出席不良で除籍され、プロレタリア科学研究所農業問題研究会をへて同年夏、農民闘争社に入り雑誌『農民闘争』の編集・発行にたずさわる。伊達信、松本三益、松本傑、伊東三郎、小崎正潔、守屋典郎、宮内勇、中川明徳、永原幸男、隅山四郎、遠坂良一、稲岡進、青木恵一郎、糸屋寿雄、渋谷定輔などを知る。31年春、日本共産党に入党、伊達、松本三益、松本傑と4人で農民闘争社フラクションを結成、党農民部の農業綱領の起草に参加、「農民運動の歴史その方向と形態」の項を担当するも、この綱領は結局日の目を見なかった。5月、逮捕を逃れて地下生活に入る。党名を長谷川と称す。『農民闘争』に毎号、地方報告、激文を執筆、また31年5・6月合併号に「農民委員会の組織について」を発表、大衆の直接参加による組織の運営を強調した。
32年3月、伊達信宅を訪ねたところを張り込み中の警官に逮捕され、50数日を宮坂警察署の留置場で過ごす。5月、不敬罪および治安維持法によって起訴され、豊多摩刑務所へ送られた。33年11月、転向を認められ懲役2年執行猶予4年の判決をうけて出所。以後40年まで、自称「ルンペン時代」を送る。この間、ドストエフスキーを再読し語学と悪魔学に耽溺する。39年10月、中学時代の同級生長谷川鉱平の紹介で同人誌『構想』の同人になり、平野謙、荒正人、佐々木基一、山室静らを知る。この雑誌に毎号「不合理ゆえに吾信ず」を連載、小説「洞窟」を発表。40年春、宮内、遠坂の勧誘で経済情報社に入社するが内紛により揃って退社しあたらしく経済誌『新経済』を創刊。以後、敗戦まで同社に勤務した。41年12月9日には予防拘禁法により拘引され暮れまで拘留される。敗戦までにエミール・レンギル『ダニューブ』、ウォルインスキイ『偉大なる憤怒の書』、宇田川嘉彦名で『フランドル画家論抄』を出版する。
敗戦と同時に新経済社をやめ、平野謙、本多秋五、荒正人、佐々木基一、山室静、小田切秀雄と『近代文学』を創刊、長篇小説『死霊』を連載する。56年初頭のスターリン批判以後、それを先取りした思想家として注目され、「永久革命者の悲哀」をはじめ多くの政治的エッセイを発表した。
埴谷雄高の思想の中心にはマルクス主義によって補強されたアナキズム、あるいはアナキズムによって修正されたマルクス主義が一つの柱をなしているが、同時に、変わるのは社会だけでなく、人間もすべての存在も変わらなければならないとする、宇宙論にまで達するような一種秘教的な存在論の柱がある。その政治思想は、彼のマルクス主義への転換の契機となった「国家の死滅」についてのレーニンの論述に、現実のソ連がまったく逆行していることへの告発と、無階級社会の原型であるべき党の組織が官僚制と階層制にがんじがらめにされていることへの憤激によって動機づけられている。現在もなお長篇『死霊』の執筆をつづけている。27巻におよぶ著作集・対談集が未来社から刊行されているほか、『埴谷雄高作品集』(15巻、別巻『埴谷雄高論』、河出書房新社)、『埴谷雄高評論選書』(3巻、講談社)などがある。
参考文献
埴谷雄高「雑録ふうな附記」(『罠と拍車』未来社刊所収)、同「影絵の世界」(『石棺と年輪』同刊所収)
(『社会運動人名辞典』)