“現代”の時代的徴表として「世界的同時性」をあげるのはいわば常識に属する。そして日本においてそのような意味での“現代”が、だいたい関東大震災前後に始まったと見るのも、大方の同意するところのようだ。しかしもう少し厳密に検討してみると、このとき成立した「同時性」は、ほとんど同時代の輸入品であって、たとえばこの時代を象徴する前衛芸術運動の先頭に立った「マヴォ」にしても、ベルリンでダダと構成主義の熱気を身をもって体験しそれに深く影響された村山知義という異才が、まことに絶妙なタイミングで帰国したことを抜きにしてはありえなかったのである。もちろんそこには、輸入品が熱狂的に受け入れられ、大衆的に支持されるだけの社会的な基盤がすでにこの国に存在しはじめたということを無視することはできないが、世界的同時性がじつはヨーロッパからの輸入による同時性でしかなかったという日本の「脱亞入欧」の歪みは、それからもなおつづくのである。そしてこの移植によって成立する「世界的同時性」ではなく、「世界」の名にふさわしい同時多発的な同時性が姿を現したほとんど唯一の例外は、おそらくこの国の左翼の一部をもその構成部分として登場させた一九六〇年代後半の世界的な異議申し立ての運動と、それにかかわる運動論と思想だけだったのではないだろうか。もちろんわれわれはアメリカ合衆国の公民権運動やSDSなどの学生運動、フランスの五月革命やドイツ、チェコの不服従運動そして中国の文化大革命に多大の関心を持ったが、それらの模倣によってわれわれの運動をつくろうなどとはまったく考えなかった。それどころか、蓋を開けてみたらわれわれの方が先行していたと感じる局面もすくなくなかった。今日から見れば、それらのあいだには多くの共通項を発見できるが、それこそが「世界的同時性」の内実なのであって、どこかに世界を統括するセンターがあるというような発想を根底からくつがえしたところに、はじめてこの同時性は成立したのであった。
一九六五年六月一九日のアルジェリア・クーデタから六七年七月のデトロイト暴動までを「出来事」として包含する時代を同時代として刊行された『アンテルナショナル・シチュアシオニスト』(以下、組織・機関誌ともにSIと略す)一〇号(一九六六年三月)と一一号(六七年一〇月)は、そのような意味で、極東の島国で同時代を同時代的に体験した私(たち)にとって、あの時代の自分を映す鏡ともなっている。
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ブーメディエンによるアルジェリアのクーデタは、アジア・アフリカの時代の開幕を画する出来事として世界の注目を浴びた一九五五年のバンドン会議の継続として、もし実現していればアルジェ会議として記録されることになったであろう第二回アジア・アフリカ会議を目前にしておこった。このホスト国における突然のクーデタは参加者を困惑させただけではない。第三世界の未来にたいする明るい期待を歌い上げたバンドン会議から十年の後の、AA諸国の実体と未来の厳しい現実を、一部の人びとの目に焼き付かせたのである。
この会議を取材するためにクーデタ直後にアルジェに入った堀田善衞は、その見聞をもとに「思痛記」と題する長文のルポルタージュを『朝日ジャーナル』(一九六五年七月二〇日号に掲載)に送った。この頃の、つまり一九六〇年代の堀田善衞の文学の特徴である「現場感覚」の横溢するこの作品には、混乱する現場のこんな描写がある。
「さまざまな情報あるいはデマがはいってくる。
……昨夜のデモで(いつの昨夜なのかよくわからぬ)警官が二人殺された……。殺されたかどうかはわからぬ。ということだ……ということだ。
……革命評議会は、すべての上に立っている。FLNも活動を停止している……。
……ブーメディエン氏はいっこうに姿をあらわさない。だれがいったいそれの議長なのか、それはわからん、集団指導だそうだ、集団指導とは何のことか……。同氏は表に立つことを避けている……。
……それを代表するものがいなければ、国家元首にあたるものがいなければ、困るではないか……。
……困るといったところで、困るのはだれか。もしアルジェリア人民の大多数がそれでも困らぬといったら、困るのは……。AA会議か……。
〔中略〕
……カイロで、周恩来氏、ナセル氏、スカルノ氏が会議をつづけている……。三者会談か。自民党みたいだな――こうなると、もう空気はすでに腐敗しかけてきているというべきであろう。
……ここアルジェでは、陳毅氏、スバンドリオ氏、それにパキスタンのブット氏が会談をつづけている。なるほど……。
ベンベラ氏は、ガーナのエンクルマ氏、ギニアのセク・トーレ氏、アラブ連合のナセル氏、キューバのフィデル・カストロ氏などと親しかった……。エンクルマ氏は怒っている……。
……なるほど、そういえば、アルジェの飛行場へ私がおり立ったとき、そこでばったりとアルジェリア駐在のキューバ大使に出会った。会議のオブザーバーとして出席するだれかを出迎えにでもきたのか、と思って挨拶すると、出迎えどころか、逆に本国へこれから帰るところだ、と言って私をおどろかせた……。ということは、どういうことだ……?
〔中略〕
しかもそうしているあいだに、しだいに緊張感と一種の危機感がたかまってくる。それはきわめて自然であり、当然でもある。AA会議それ自体を開催しうるかどうか、いや、それ以前に外相会議さえもが可能であるかどうか、さらに、主催国であるアルジェリアの、革命評議会自体がどうなっているのか、それの合法性いかんという問題がある。中国、インドネシアがいち早くこれを支持する、英国は承認をした、というニュースがあり、サイゴンのクーデター軍事政権と、ブラジルのこれもクーデター軍事政権が、早くもこれを承認したというニュースがはいったときには、さすがにつかれきっている記者諸氏も爆笑してしまったものだ。」
このような「現場」の混乱、ざわめきのなかから堀田善衞が日本にいる私たちに送ってきたメッセージはつぎのようなものだった。
「アジア・アフリカの、独立後の、こんにちにしだいに保守化して行く複数の政権相互の関係は、アラブ連盟は別として、英連邦所属AA諸国、あるいはアフリカ・マダガスカル共同機構等の旧宗主国をアタマとする組織が、いわゆるバルカン化を、ではなくて、むしろ、ラテン・アメリカ化をもたらす危険がないではないということに、あらかじめ気付いておいても損ではなかろうと思われます。バンドン会議以後一〇年にして、第二段階にはいったもの、とおそらくは言ってよいでしょう。それだけに、たとえばAA連帯委員会とか、AA作家会議などの民間組織が活発に活動していくこともまた、きわめてたいせつなことであろうと思われます。」(『堀田善衞全集』新版第14巻所収)
クーデタ直後の七月にアルジェリアで非合法に配布されたという「アルジェリアと万国の革命派へのアピール」(本書117頁)と一二月にやはりアルジェリアの主要な都市で非合法に配布された「アルジェリアにおける階級闘争」(本書37頁)というSIのふたつの文書を読みながら、私がまず思い浮かべたのが「思痛記」という聞き慣れない、しかしまことに象徴的なタイトルを持つ、この堀田善衞の長篇ルポルタージュであった。三十年の時をへだてて私はこれを再読した。堀田の戸惑い、右往左往、そして幻滅。そこで彼はかつてのように、「アジアは、生きたい、生きたい、と叫んでいるのだ。西欧は、死にたくない、死にたくない、と云っている」(『インドで考えたこと』)というような調子のいいキャッチコピーふうの認識が、もはや通用しない第三世界の現実に直面していた。三十年前には戸惑いのポーズが鼻についた記憶のつよいこの作品も、いま読むとそれほどの違和は感じなかった。むしろその戸惑いをつうじて堀田の「痛み」がよく伝わってきて、そしてその分だけ、SIの分析の冷徹さの方にむしろなにかこころにひっかかるものを感じた。そのひっかかり、ある種の違和感は、問題が中国の文化大革命、ベトナム解放民族戦線の評価へと進むにしたがって、大きくなっていった。SIの第三世界主義とくにフランスのそれにたいする批判は痛烈である。そしてその批判は大筋において正しい。しかしその正しい批判が生まれてくる誕生の仕方がどこか違う、という思いがついてまわる。その認識と批判はあまりに冷徹だ。そこには堀田が感じた「痛み」は影もない。あるいは私のなかの「第三世界主義」の夢の残闕がそうさせるのか。私はしばらくこの違和感にこだわってみたいと思った。
「疎外、全体主義的管理支配(その筆頭は、ここ〔西欧〕では社会学者であり、向こう〔アルジェリア〕では警察だ)、スペクタクル的消費(ここでは自動車とがらくた商品【ガジェット】、向こうでは崇められる首長の言葉)、これらのものでできた同じ社会が、イデオロギーや法によってさまざまな粉飾を施されながらも、いたるところで支配している。この社会の一貫性を理解するには、全体的な批判が不可欠である。その批判は、解放された創造性を備えた逆のプロジェクト、すべての人間が彼ら自身の歴史をあらゆるレヴェルで支配するプロジェクトによって照らし出された批判でなければならない。これは、すべてのプロレタリア革命がその実際の行動によって要求してきたものであり、この要求は、革命を引き受けつつそれを自分たちの私有財産にしてきた権力の専門家によってこれまで常に敗北させられてきたのである」(「アルジェリアと万国の革命派へのアピール」)と彼らは言う。まったく正しいとしか言いようがない。しかし世界は、とくに西欧の旧宗主国とその旧植民地は、疎外、全体主義的管理支配、スペクタクル的消費というような共通の言葉によって、こんなにのっぺらぼうな均質性としてイメージできるのだろうか。
たしかにAA会議は第三世界のきらびやかなスペクタクルにほかならなかった。AA会議のような国家によって構成されたプロジェクトにかぎらず、たとえばAA作家会議のような文学者の運動がつくりだすプロジェクトもまた、はなやかなスペクタクルでしかなかった。まえに引用したように堀田善衞は国家と国家の関係ではなく、作家という個人を基礎にした第三世界の連帯に夢を託しているが、それもまたしょせん夢でしかあり得なかったのである。中ソ対立とナショナリズムと平和共存という冷戦の世界で、SIが主張するような「革命」は、どこにその可能性があり、どこにそれをになう主体があったのだろうか。「虚偽意識は左翼の自然状態であり、スペクタクルは左翼の構成要素、諸体系間の見かけの対立は左翼の普遍的基準である」(「二つの地域戦争」)。おいおい、よく言うよ、と苦笑しながらその認識には同感せざるをえない。しかしそのうえで、はたしてスペクタクルの外で、何ができたろうかと自問する。認識ではなく行動の問題、行動の選択の問題としてだ。
SIのチュニジア人メンバーで、「低開発国での革命についての世論の誤りを修正するのに役立つ貢献」(本号、377頁以下)を書き、第三世界の革命運動内部の官僚主義を批判したムスターファ・ハヤティは、たんに言説に止まらず、アラブ・ナショナリズムを乗り越える〈評議会権力〉の樹立を意図してPFLP(パレスチナ解放民族戦線)に参加したが、その試みは「すぐに失敗した」(「訳者解題」、303頁)という。なぜそれほど簡単に彼の試みは失敗したのだろうか。そしてその失敗はどのようにSIのなかで総括されたのだろうか。その原因はPFLP指導部の官僚主義にだけあったのではあるまい。
この時期のSIの政治的言説は大枠で正しい。もしかしたらあまりにも正しすぎるというべきかもしれない。あまりに正しすぎるということは、それだけ抽象的なレヴェルにその言説がとどまっているということだ。だからそれはなんとなく荒野に叫ぶ予言者という感を免れない。いったい誰が聞いているのか。その予言が現実となったとして、いったい世界はどうなるのか? 誰がそこにいるのか? 「自主管理は現在の闘争の手段であるとともにその目的でもなければならない。」「自主管理の方こそが自らを権力に組織しなければならない。さもなくば消え去らなければならないのである。」「真の革命的自主管理は、既存の所有形態を武器によって廃絶することでしか手に入れることはできない。」「自主管理のあるところには、軍隊も警察も国家も存在しえないのである。」「自分たちが革命の専門家として支配するためではない……党の勝利は党としての自己の終焉でもなければならない」……。
スターリンでさえ国家の死滅だけでなく「党」の死滅までを語ったことがあることを思い起こせば、このような抽象的な「正論」が、現実の政治的プロセスのなかでどれほど無力なものでしかないか、われわれは身をもって経験してきたはずだ。SIは政治を、とくに第三世界の政治を語るとき、それにふさわしい新しい言葉と語り方をまだ手に入れていない。
しかし私の理解するところでは、SIこそが革命を総体的なプロセスとして捉え、日常生活全体の変革をつねにプログラム化する姿勢を一貫させていたはずである。そして生活の変革とはとりもなおさず文化を変えるということであり、その中心に「言葉」の問題があるというのが私の理解であった。その革命がどのような言葉と語り方を生み出しているかを見れば、その革命自体の内実が明らかになるというのが私の経験的な理解であった。SIはこの私の考えにもっとも近いところに位置していた運動だというのが私のSIにたいする関心の中心にあった。たとえば彼らは「あらゆる革命理論は、それに固有の言葉を創出し、他の言葉の支配的な意味を破壊し、支配的ながらくたの山から解放すべき、構想中の新しい現実に対応した新しい立場を『意味作用の世界』にもたらさなければならなかった」(133頁)と言う。それだけに彼らが革命について語るときのその言葉に、私は戸惑うのである。
もちろん私は大衆路線のようなものを念頭に置いているのではない。だが彼らが「革命的実践の条件が存在するところでは、いかなる理論も難解すぎることはない。パリ・コミューンの生き証人であるヴィリエ・ド・リラダンは次のように書き残している、『それまで哲学者だけが取り上げていた問題に関して、はじめて労働者が自分たちの意見を交換するのが聞かれた』。」(62頁)と言うとき、待てよと首をひねる。本当に理論と実践との関係はこんなに単純なものなのだろうか。ほぼ同時代の一九六三年五月の文章で毛沢東は「ひとの正しい思想はどこからくるか?」と問い、つぎのように答えている。
「正しい認識は、物質から精神へ、精神から物質へ、すなわち、実践から認識へ、認識から実践へといった何回もの反復をしばしば必要とし、これによってはじめて完成される。〔……〕われわれの同志のなかに、この認識論の道理をわかっていないものが、たくさんいる。きみの思想、意見、政策、方法、結論、滔々としておわることのない演説、長ったらしい文章をどこから仕入れてきたのだ、と聞いてやると、かれらは、ヘンな質問だとおもうだけで、答えられないのだ。物質が精神に変わり、精神が物質に変わるという日常生活のなかで、しょっちゅう目にしている飛躍の現象さえ、不可解なことと感じているのである。」(竹内実訳)
毛沢東を引き合いに出すのにべつに他意はない。同時代の雰囲気をちょっと再現してみたいだけだ。あるいはアルチュセールでもかまわないが、いずれにせよマルクス主義における理論と実践という問題は、もうすこしダイナミックでかつ相互変換的かつ相互浸透的なものだ。批判の一貫性は「理論と実践のあいだに分離が入り込んだ瞬間に、破壊され、イデオロギーとして固定してしまう」(370頁)というSIの主張は、なんとなく「理論と実践の統一」という、「前衛党」の党員に課せられた規範のような臭いがする。そして事実、SIは前衛なのである。前衛である以上、自分の原則を守るために、それから外れたとみなされるメンバーはつぎつぎに除名されなければならない。
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少しばかり否定的な言辞をつらねすぎたような気がする。最初に言ったように、SIのドキュメントを三十年後のいま読むことは、三十年前の同時代の自分と対面することでもある。それほどまでに問題は共有され経験は共通していた。もちろんそこには理念として対立する部分もすくなくない。たとえばおなじような前衛党志向と決別してベ平連への道を歩んだ私と彼らとの間には、決定的な違いがある。しかしたとえばつぎのような主張に三十年後の私はなお強く共感する。
「これまでわれわれは前世紀の革命闘争から受け継がれた形式やカテゴリーを使って体制転覆活動に主たる努力を注いできた。われわれの異議申し立ての表現を過去に何ら準拠することのない手段によって補足することを私は提案する。哲学の乗り越え、芸術の実現、政治の廃止といった伝統的な場でわれわれが闘いを挑んできたのも、ある形式の内部においてであったわけだが、だからと言ってそのような形式までをも放棄してしまうわけではない。重要なことは、この雑誌〔SI〕の任務をそれがまだ効果的でない所で完成させることである。/プロレタリアートのかなりの部分は自分たちが己の生の使い途について何の権力も持っていないことに気づいており、それを承知してはいるが、社会主義やこれまでの革命で使われてきた言葉によってそれを表現することはない。」(362頁)
そのうえで私のSIにたいする違和感をもう一度確認しておきたい。それは彼らが旧フランス植民地であったアルジェリアやベトナムの解放闘争を批判するとき、旧宗主国の知識人としてどのような内面の葛藤を経験したかということが、いっこうに伝わってこないというところにある。私たちの「第三世界主義」的な心情がややもすれば倫理主義的に流れていったのと対蹠的に、第三世界主義をきびしく批判する彼らの言説には、倫理の衝迫が生み出す陰影がまったく感じられない。
たしかに「思痛記」だけでなく、この時代に書きつがれた堀田善衞の第三世界についての報告と論考は、SIの冷徹な認識の前には色あせて見えるだろう。しかしある対象に対してお前はダメだというのは簡単なのである。支配者の官僚主義を批判し、社会の階層制度を指摘し、労働者の自主管理の必要を訴えることも、言説として外から言う分には簡単なのである。
私はこの短文を書くために久しぶりで堀田善衞のこの時代の文章をまとめて読み直した。その作業が終わりかけた頃に彼は世を去った。彼にかかわる想い出は私のなかで尽きることはない。しかしここで私が堀田の仕事に触れたのは、彼の死とは関係ないことである。くり返すように堀田の第三世界に関するたくさんの文章のほとんどは、今日ではすでに過去の一時代の証言というおもむきしかないとも言える。しかし当時の何々派というような人たちが見落としていた第三世界の弱点や否定面も、彼は見過ごしてはいない。ただ彼はそれを普遍的なレベルに持っていくようなことをけっしてしなかっただけだ。彼はあくまでも第三世界の現場に踏みとどまった。何が彼をそのような現場にとどまらせたのか。それは彼が戦争末期の中国で背負い込まされてしまった、ある倫理的なものの自覚以外にないのである。
(『スペクタクルの政治』1998年12月刊)