堀田善衞の世界

(1)乱世・作家の誕生

 堀田善術は日本文学の歴史のなかでたいへんにユニークな作家です。まず第一に、文学者とか作家というものはとりもなおさず小説家のことだという通念が支配的なこの国で、彼はけっして小説家という枠に納まりきれない作家であり文学者だという点で、ユニークです。第二に、その視野の広いことです。彼の関心は地理的には日本のなかに閉じこもらずにアジアからヨーロッパに及び、時間的には現在にかぎらず中世にまで及びます。第三に、モノとコトにたいするあくなき好奇心です。それが彼が旅行記や文明批評をたくさん書く理由でもありますが、同時にそれがかれの小説のフィクションを支えているものでもあります。しかもこのモノとコトは、自然主義の好む「日常の現実」とはまったく違ったもので、むしろ非日常性の狭間に姿を現わす奇異なものです。そのような一見、奇異に見えるものこそが、人間の本質を呈示すると彼は考えているようです。最後に、彼は日本の文化伝統にはめずらしいモラリストです。モラリストというと道徳家のことだと思っている人がいるかもしれませんが、それはぜんぜん違います。モラリストというのは、人間精神の探求者のことであり、テレンティウスの「わたしは人間である。だから人間のことでわたしに関係のないことがらは、ただの一つもない」という言葉を、行動において、また言説において迷うことなく実行する人のことです。
 どうしてこのような「作家」が「戦後」の日本に生まれたのか、それをまず見ていきたいと思います。いわば作家・堀田善衞の誕生についてです。もちろんそれには戦争中の堀田善衞の作品から始めなければなりません。
 堀田善衞は戦争の末期、一九四三年から四四年にかけて、一般的な意味では習作に属しますが、しかし戦後における作家・堀田善衞の仕事の枠組みを決めるような重要な二つのエッセイを書いています。一つはべートーヴェンの遺書を論じた「ハイリーゲンシュタットの遺書」で、これには「ヨーロッパ」という副題がついていました。もう一つは「西行」です。言うまでもなく前者は、それから三十年の後に大作『ゴヤ』にはじまり現在も『ミシェル城館の人』として継続中のヨーロッパに向かう関心の出発点であり、後者はそれから二十七年後に『方丈記私記』にはじまり『定家明月記私抄』にいたる日本中世にたいする関心の出発点です。もちろんこれらを書いた時、堀田善衞はいつ兵隊に狩りだされるかわからない二十五、六歳の青年でした。しかも時代は、日本の敗色歴然としてはいても、いや、それだからこそますます狂的におしすすめられる戦争と神懸かり的な狂信の時代でした。この時代の基調となる色彩は「死」でした。
 堀田善衞のこれらの習作が、作家としての戦後の仕事をほとんど全的に予告しているということは、しかしその思想、その文体までがそのまま「戦後」に通じているというわけではありません。これらの作品には日本浪曼派ふうの、というより保田輿重郎の文体の影響が歴然としています。もちろんわたしはここで、堀田善衞も戦争中は日本浪曼派にイカレていたんじやないか、などということを言おうとしているのではありません。堀彼は戦後になって、「私は戦争中にも西行について書いたことがあり、当時、日本文学について何かを考えるということは、結局は天皇制というものにぶつかるということなのだな、と痛切に感じたことがあったけれども、そこまでのことは書かなかった。おっかなくてとてもそこまでのことは書けなかった。それに、当時においては私たちの語彙に、天皇制、といったことばもなかったのである。天皇は神としての戦争遂行者であった」(『方丈記私記』)と書いていますが、今日、「西行」というこの未完の作品を読んでみると、作者は「天皇制にぶつかる」というよりもむしろ天皇制に身を投じているという趣の方がつよく感じられます。それでは堀田さんの天皇制にたいする否定的な立場は、戦後になってはじめて形成されたのかというと、それも違います。当時、一種の流行現象として青年たちを捉えていた日本浪曼派の審美的な「死の美学」から自力で脱出した時、堀田善衞は間違いなく「戦後」を担う作家への道を歩みだしたのです。そしてこの堀田青年の内部の変貌は、おそらく戦争の末期、というよりも戦争の最後の年のごく短い時間のうちにおこったのだったろうと、私には思われます。
堀田善衞は『方丈記』の一節を、あたかも自分自身のつぶやきのように、くりかえし引用しています。

古京はすでに荒れて、新都はいまだ成らず。ありとしある人は皆浮雲の思ひをなせり。

 堀田さんが彼の青春をすごしたのは、まさにこのような乱世とよぶにふさわしい時代でした。連日の空襲に古い都は焼野原と化し、古い秩序は崩れはじめていても、しかし新しい秩序はまだそのおぼろげな輪郭さえも現わさない。人びとは未来はおろかこの現在をどう生きていいのかさえわからず、ひとしく「浮雲の思い」にとらわれていたのです。そしてこのような乱世という歴史の転換期ほど、時間がはやく流れるときはありません。戦争末期の数年間を思いおこしてみると、その一年、二年が、今日の十年、二十年に匹敵するという思いを強くします。そして一人の人間が変貌するのはほとんど一瞬のうちだと言ってもいいでしょう。だからその変貌の時を、どのような時代に迎えたかということは、その人の人生を決定する。堀田善衞にとっての変貌の時は、歴史の時間が、これまでの日本の歴史のなかで、もっとも急激に流れた時代でした。そのなかから堀田善衞という一人の文学者が生まれました。それは彼の文学を恐らく生涯にわたって根本のところで規定することになるでしよう。
 このような歴史の転換期のなかで、堀田善衞の作家への変貌を、つまり一人の作家の誕生を導いた助産婦ともいうべき古典こそ鴨長明の『方丈記』にほかなりませんでした。彼は自分とこの『方丈記』との出会いをつぎのように書いています。

 その頃、日本中世の文学、殊に平安末期から鎌倉初期にかけての、わが国の乱世中での代表的な一大乱世、落書に言う、「自由狼籍世界也」という乱世に、たとえば藤原定家、あるいは新古今集に代表されるような、マラルメほどにも、あるいはマラルメなどと並んで(と若い私は思っていた)、抽象的な美の世界に凝集したものを、この自由狼籍世界の上に、「春の夜の夢の浮橋」のようにして架構し架橋しえた文明、文化の在り方に、深甚な興味を私はもっていた。けれども、鴨長明氏、あるいは方丈記や、発心集などの長明氏の著作物や、その和歌などには、実はあまり気をひかれるということがなかったのである。
 けれども、三月十日の大空襲を期とし、また機ともして、方丈記を読みかえしてみて、私はそれが心に深く突き刺さって来ることをいたく感じた。しかもそれは、一途な感動ということではなくて、私に、解決しがたい、度合いきびしい困惑、あるいは迷惑の感をもたらしたことに、私は困惑をしつづけて来たものであった。三月十日の東京大空襲から、同月二十四日の上海への出発までの短い期間を、私はほとんど集中的に方丈記を読んですごしたものであった。 (『方丈記私記』)

 堀田善衞と『方丈記』とを結びつけたのは、三月十日の東京大空襲、というよりもそれから一週間後の十八日に彼が焼跡で目撃することになる「天皇巡幸」の風景にほかならなかったのでした。彼はこの日、深川の富岡八幡宮の焼跡で思いがけず「小豆色の、ぴかぴかと、上天気な朝日の光りを浴びて光る車のなかから、軍服に磨きたてられた長靴をはいた天皇」がおりてくるのに出くわすのです。そして付近にいる焼けだされた人びとが土下座して、自分たちの努力がたりなかったためにむざむざと焼いてしまったと、天皇に詫びるのを聞いてしまうのです。彼はつぎのように書いています。「私は本当におどろいてしまった。私はピカピ力光る小豆色の自動車と、ピカビ力光る長靴とをちらちらと眺めながら、こういうことになってしまった貴任を、いったいどうしてとるものなのだろう、と考えていたのである。[……]ところが責任は、原因を作った方にはなくて、結果を、つまりは焼かれてしまい、身内の多くを殺されてしまった者の方にあることになる! [……]こういう奇怪な逆転がどうしていったい起り得るのか!」
 三月十八日の経験は、それまで親しんできた中世の宮廷を中心に生まれた文化――そのいくつかの作品を若い堀田善衞がマラルメに匹敵すると考えていたことは前に引用したところですが――そういう天皇制がつくりだした美と、いま眼前に出現した奇怪な情景とはどこかでつながっているのではないか、という疑問につながります。どうやらその根底にあるのは「無常観」とでもいうべきものらしい。「この無常観の政治化されたものは、とりわけて政治がもたらした災殃に際して、支配者の側によっても、また災殃をもたらされた人民の側としても、そのもって行きどころのない尻ぬぐいに、まことにフルに活用されてきたものであった」と言って、堀田さんはつぎのセンテンスを『方丈記』から引用します。

 羽なければ、空をも飛ぶべからず。龍ならばや、雲にも乗らむ。

 世にしたがへば、身くるし。したがはねば、狂せるに似たり。いづれの所を占めて、いかなるわざをしてか、しばしもこの身を宿し、たまゆらも心を休むべき。

 『方丈記私記』は、「私が以下に語ろうとしていることは、実を言えば、われわれの古典の一つである鴨長明『方丈記』の観賞でも、また、解釈、でもない。それは、私の、経験なのだ」と書き始められています。つまり、いささか切り詰めて、単純化して言うと、『方丈記私記』とは、三月十八日に堀田青年が出会った奇怪な体験を、『方丈記』という中世の古典と対話しながら、「経験」にまで深めていく文学的な作業であり、日本浪曼派ふうの美意識からの決別の物語であると同時に、戦争のただなかにおける「戦後」文学者・堀田善衞の誕生の物語でもあります。
 では堀田善衞はなぜ『方丈記』の世界にひかれるのでしょうか。それはもちろん、彼自身が生きた時代と『方丈記』の世界の驚くほどの類似ということもありますが、おそらくそれ以上に、鴨長明という人物への多分に共感をともなった関心ということがあると思います。堀田さんは長明について、「この鴨長明という人は、なんしろ何かが起ると、その現場へ出掛けて行って自分でたしかめたいという、いわば一種の実証精神によって、あるいは内なる実証への、自分でも、徹底的には不可解、しかもたとえ現場へ行ってみたところでどうということもなく、全的に把握出来るわけでもないものを、とにもかくにも身を起して出掛けて行く、彼をして出掛けさせてしまうところの、そういう内的な衝迫をひめた人、として私に見えているのである」と言っています。
 ところで、ここで言われている「現場」とはどういうものでしょうか。堀田善衞は長明に仮託して、それをつぎのように規定しています。

現場というものには、如何なる文献や理論によっても推しがたく、また、さればこそ全的には把握しがたい人間の生まな全体が、いまだ表現されていない、表現かつかつのところまで行っている思想の萌芽というものがある、というようにこの男が思っている、と私は感じる。

 ここに描かれている鴨長明の像は、そのまま堀田善衞の像でもあります。彼は現場の人です。歩き、見、聞き、そして考える。彼の考えるという行為は、けっして観念の自己運動に閉じこもることなく、つねに具体的なモノとコトに即しています。最初に、堀田善衞が一種とくべつな思いをこめてしばしば引用する言葉に、「古京はすでに荒れて、新都はいまだ成らず。ありとしある人は皆浮雲の思ひをなせり」という『方丈記』の一節があると言いましたが、これは「乱世」にこそ人間の真実があらわれるという堀田善衞の一貫した認識をあらわしています。彼は「乱世」が好きです。乱世とは古い秩序はすでに崩壊したが、新しい秩序はまだ姿をあらわさない、そういう「すでに無い」と「まだ無い」の狭間の時間です。彼は戦争末期の日本でそれを経験し、上海での敗戦でそれを経験し、敗戦後の日本にかえってそれを経験しました。その経験はまた、日本の中世の始まりの時期へ、ヨーロッパの十三世紀へ、そして近代の誕生の時期へとつながっていきます。
 しかしこのような「乱世」への関心は、堀田善衞にあっては独特の様相をもっています。乱世はいうまでもなく政治の季節でもありますが、その政治にたいして彼は、これもまた一つの言葉をくりかえします。

世上乱逆追討耳ニ満ツト雖モ、之ヲ注セズ。紅旗<!R>征戎(せいじゅう)吾ガ事ニ非ズ。

これは言うまでもなく『明月記』中の藤原定家の言葉です。堀田善衞は、この定家の言葉を戦争の末期に『明月記』のなかに発見したときの「衝撃」を、『明月記私記』の「序の記」でつぎのように書いています。「『紅旗』とは朝廷において勢威を示すための、鳳凰や龍などの図柄のある赤い旗のことをいい、『征戎』とは、中国における西方の蜜族、すなわち西戎にかけて、関東における源氏追討を意としていること、つまりは自らが二流貴族として仕えている筈の朝廷自体も、またその朝廷が発起した軍事行動をも、両者ともに決然として否定し、それを、世の中に起っている乱逆追討の風聞は耳にうるさいほどであるが、いちいちこまかく書かない、と書き切っていることは、戦局の推移と、頻々として伝えられて来る小学校や中学校での同窓生の戦死の報が耳に満ちて、おのが生命の火をさえ目前に見るかと思っていた日々に、家業とはいえ彼の少年詩人[定家のこと]の教養の深さとその応用能力などとともに、それは、もう一度繰りかえすとして、絶望的なまでに当方にある覚悟を要求して来るほどのものであった。」
 乱世、現場、そして「紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ」。この三角形こそ一人の青年が作家に、それも「戦後」の作家――それはとりもなおさず「現代」の作家ということです――に変貌した「場」であったのです。現実へのあくなき関心と同時に、その現実が自分の内面世界に侵入することをいささかも許さない態度、これは文学の自立ということです。
 堀田善衞は鴨長明について、「私は長明氏の心事を理解し、彼の身のそばに添ってみようとしてこれ[『方丈記私記』]を書いているのだが、同時に私は長明の否定者でもありたいと思っているのである。けれども、この現代においてすら、彼の死後七百五十年以上もへた現代においてすら、長明の否定者であるためには、われわれの全歴史の否定者でもあらねばならぬという至難の条件がともなっているのである」と書いています。堀田善衞にとって、『方丈記』の作者は、けっして諸行無常を説く隠遁者ではなく、行動力をもった好奇心のカタマリのような人でした。そういう人間的な資質をもち、見ることに徹する主体性をもちながら、しかし長明は結局のところ現実をまるごと受け入れてしまうのでした。それはいったいなぜなのか。この国において、革命の行動者としてではなく、「見る者」「表現する者」でありながら、しかも支配的な現実にすっぽりと取り込まれてしまった先行者たちのようにではなくその生をつらぬくには、どうしたらいいのか。それが堀田善衞が抱え込んだ問題でした。そしてその時、さしあたり彼が見いだした解答は、「われわれの歴史の全否定者であれ」という、なんとも気の遠くなるようなものでした。

(2)アジア・歴史の発見

 さきにも言つたように、堀田善衞は一九四五年三月一〇日の東京大空襲を体験し、その一週間の後には、焼跡で天皇の「巡幸」に出くわすことになります。そして焼けだされた人びとが土下座して天皇にわぴる姿までを見てしまいます。これは作家・堀田善衞の原体験とでもよぶべきものです。そして堀田さんは日本脱出を考えます。彼が上海までの片道の航空券を手に入れて羽田飛行場を飛び立つたのは三月二十四日のことでした。大空襲からわずか二週間の後です。かれが大空襲にあったのも、天皇巡幸に出くわしたのも、また上海行きの切符が手に入ったのも、すべて偶然でした。そしてこれらの偶然の積み重なりなしには、戦後の堀田善衞という作家は存在しなかったでしょう。私は運命論者ではありませんが、このごく短い時間のあいだの偶然の重なりに驚きます。しかしそれはおそらく太平の世の感じ方でしょう。乱世には、偶然はしばしば必然でもあったのです。偶然に死をまぬがれたというような話は、いたるところに転がっているのでした。
 堀田善衞はこの上海行きを、じつはヨーロッパに向かってのワン・ステップと考えていました。欧州の戦争はすでに終局を迎えており、日本の戦争も、もはや敗北は明らかでした。そんな時に、ヨーロッパを目指して日本を脱出した青年がいたということは、記憶しておく価値のあることです。この時、堀田善衞と彼の同世代にとって、ヨーロッパというものが何を意味していたかということは、後にくわしく見ることにします。
 堀田善衞はわずか五カ月足らずの後に上海で日本の敗戦をむかえます。日本国内にいるほとんどの人びとは、天皇の降伏を八月十五日まで知りませんでしたが、上海では八月十一日にはすでに「終戦」がはじまっていたと彼は書いています。彼はその当日から、当時上海にいた内山完造とか武田泰淳というような人びとに、「日本がかくの如き運命に陥ったということについての、弁解とか、戦争の正当化とか、通り一遍の詫び言などというのではなく」「正確な一言」を書いてもらい、それを『中国文化人ニ告グルノ書』というパンフレットにまとめることを発起し、その作業をはじめます。そして十五日に、そのパンフレットを印刷してもらうはずの印刷所で、天皇のラジオ放送を聞きます。その時のことを堀田善衞はそれから十四年の後に、つぎのように書いています。すこし長いが堀田善衞の戦後の出発点を確認する意味で引用しておきます。

 先にも書いたように、上海での、いわゆる「終戦」は事実として八月十一日に来ていた。そしてその当日から、私は自分に金も能力もなんにもないにもかかわらず、ひそかに、また人にも言い言いして、日本側に協力してくれた中国人諸氏の運命を胸に痛いものが刺さり込んで来たような気持ちで気づかっていた。殊に私は、私自身、ほんの一面識しかなかったのだが、大東亜文学者大会というものに参加した柳雨生や陶亢徳などの、侵略者であった日本側に協力した文学者たちの運命を気にした。私などが気にしてどうなるというわけのものではもとよりない。しかし、それを私は、気にした。彼らは一体どうなるのか。もとより、乱世経験では日本人とは比べものにならぬ人々であるから、彼らなりの覚悟と準備があったかもしれぬ。
 だから私は、天皇が、いったいアジアの全領域における日本への協力者の運命についてなにを言うか、なんと挨拶するか、私はひたすらそればかりを注意して聞いていた。それは「終戦勅語」といわれているものの、まことに奇妙な聞き方というものであったかもしれない。そしてそういう聞き方をした日本人というものは、あるいはそう数が多くはなかったかもしれない。
 しかし、あのとき天皇はなんと挨拶をしたか。敗けたとも降伏したとも言わぬというのもそもそも不審であったが、これらの協力者に対して、遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス、という、この厭味な二重否定、それっきりであった。
 その余は、おれが、おれが、おれの忠良なる臣民が、それが可愛い、というだけのことである。その薄情さ加減、エゴイズム、それが若い私の躯にこたえた。
 放送がおわると、私はあらわに、何という奴だ、何という挨拶だ、お前の言うことはそれっきりか、それで事が済むと思っているのか、という、怒りとも悲しみともなんともつかぬものに身がふるえた。 (『上海にて』)

 敗戦のその瞬間に、堀田善衞が日本人の戦争貴任をアジア――この場合は中国ですが――との関係でこのように考えたということは、戦後における堀田さんのアジアとのかかわりを予告するものです。そしてアジアの人びとにたいしては、こんにちもこの国の支配者たちは、代替りした天皇もふくめて、いぜんとしてこのような唾棄すべき「挨拶」をくりかえしているだけだということは、われわれが肝に銘じておく必要があります。
こうして堀田善衞のヨーロッパへの旅は、ひとまず、アジアの発見という思いもかけぬ、しかし考えようによればまことに必然の結果をもっておわります。
 このように堀田善衞は日本の敗戦を上海で迎えたわけですが、ここでも彼は歴史のあの数しい渦潮にまきこまれます。昨日までの占領者は一日にして虜囚となる。世界の人種の吹き溜まりであった上海で敗戦を迎え、一つの政治権力があまりに簡単に崩壊してしまい、その空隙に向って新しい政治勢力が二方、三方からおたがいに激しく争いながら突入してくるさまを、彼は身をもって体験します。これもまた日本人としては希有の体験です。堀田善衞ほど政治のなまのかたちを目撃した日本人は少ないでしょう。彼は敗戦から一年半の後、一九四七年の一月に日本に帰つてきます。
 堀田善衞が戦後の日本文学に登場するのは一九五一年の八月と九月に発表された『広場の孤独』によってです。その前の年に『祖国喪失』という短篇を発表していますが、堀田善衞が戦後文学の新しい旗手として広く注目をあつめたのは、この『広場の孤独』でした。この作品によって堀田善衞は戦後文学の最前線におどり出たのです。反響はすさまじいものでした。それも当然といえます。なぜなら日本文学はこの作品によってはじめて、「戦後」、つまり占領という事態の文学的表現をもったのですから。占領は自由の理念や民主主義を日本にもたらしただけではありません。それは日本を異民族支配のもとで国際政治の網の目のなかに、がっちりと組み込んでしまったのです。しかもそのなかで生きる日本人は、もはやたんなる戦争の犠牲者や被害者でだけありつづけることはできない。それは否応なくコミットメントを強制される存在です。アメリカによる占領と「朝鮮戦争」という状況のもとで、日本人の「人間の状況」はどのようなものであるのか。この作品は日本人の視野を飛躍的に拡げたと言えます。それは自分たちの生活を支えている足元に向って視野を開き、自分の自由がどのような状況に置かれているかという実存主義的な問題に目を向けさせただけでなく、いま現在の問題として、また自分一個の責任をともなう生き方の問題として、アジアへの目をあけさせたのでした。
 この『広場の孤独』につづく『断層』『歴史』『砕かれた顔』『時間』などの作品、そして長篇の『夜の森』、三部作『記念碑』などで、堀田善衞は戦争とそのなかでの日本とアジアの関係を追求します。それは上海での体験に歴史の光をあてることで、さらに深く自分のなかに沈澱させようという作業だったと言うことができるかもしれません。
 しかし、堀田善衞にとってのアジアの発見は、じつはこれから始まります。その発見はまさに堀田善衞的でした。つまり何を指いても「現場」におもむくという、鴨長明流のやり方です。おりしも「アジア・アフリカの時代」と呼ばれる時代が始まっていました。一九五五年にはインドネシアのバンドンで最初のアジア・アフリカ会議が開かれ、民族の解放と独立、あたらしい世界平和秩序の樹立を高らかに宜言しました。その流れのなかで一九五六年の一二月にインドのニューデリーでアジア作家会議が開かれ、堀田善衞は日本の代表としてこれに参加しました。この頃、海外旅行はまだたいへん難しいことでした。まして第三世界や社会主義国への旅行は、ほとんど不可能と言ってもいいような状態でした。ですからこのアジア作家会議(二年後からアジア・アフリカ作家会議)への参加は、堀田善衞の「現場主義」にとって、まったく好運な通路でもあったわけです。彼は第三世界に生まれつつある新しいナショナリズムが世界になにをもたらしつつあるのかを、その現場に立って、ほとんど文学者としての限界のぎりぎりに身をおいて、日本人に語りつづけたのでした。その最初の「報告」が『インドで考えたこと』(岩波新書)です。
 この本は鎖国状態をつづけてきた日本人に、アジアというものがどんなに広大で底の深いものであるかを、衝撃的に語っています。衝撃的というのは語っているご当人がほとんど言葉を失うほどの衝撃をうけているという意味です。その衝撃が読む側にもひしひしと伝わってくるという点でも、この本は画期的な本でした。この本が日本人の目をアジアに向って開かせた、という評価は正しいと思います。しかし同時にこの本は、作家・堀田善衞にとっても、重要な転機を内に秘めていました。堀田善衞のアジアとの出会いは、そこに生まれつつある新しいナショナリズムの発見であったと同時に、アジアの数千年の歴史が体現する「虚無」との出会いでもあったのです。その虚無は『方丈記』の無常感などとはとうてい比べるべくもない途方もないものでした。堀田善衞は西部インドのエレファンタ、アジャンタ、エローラの洞窟寺をめぐりながら、そこに何千年の時間とともに蟠踞している虚無と対面します。そしてその虚無を恐れ反発しながら同時に「私自身の内部に相通い、相互に反響しあうものがあることを、ありありと感じてしまった」のです。彼はつぎのように書いています。

 なんとなく、私は、失敗った、と思った。ここに、失敗った、というのは、恐らく作家としての私のこれまでの行き方とかかわりがある。この虚無の音を、自分にも通うものありと認めたならば、作家としてのこれまでの私は、これまで通りではやって行けなくなるのではないか――そういうことを本能的に、私は感じていたと思われる。
               *
虚無。これをわれわれの生活に根差した、リアリティをもつ日本語で云いなおすなら、無常、諸行無常の感というようなことになり、われわれの無常感がいのちに対する優情にみちたものであることは、私にもいくらかわかっている。けれどもそれは恐らく歴史を否定し、人間のつみかさねて来た歴史を、「歴史」としてではなく、そのときどきの人間をとりまいて無気味な黒光りを発する、単一の、単色の背景と化してしまうようなものである。

 そしてさらにつぎのような注目すべき言葉がつづきます。

……そして日本の思想のうち、もっとも陰影豊かでリアリティに富み、民衆に対しても浸透度の深いのは、この「歴史」を形成しない凹型の思想なのである。これといかにして戦うか。どういう方法で……? 私自身の内部に於ても、戦う方法よりも、むしろ私自身にも内在するこの思想の方がふとりつつあるのを感じる。[……]私は、これに負けてしまうだろうとは思っていない。これと戦って勝つことの出来る方法が、どうにもふとって来ないということなのだ。 (『インドで考えたこと』)

 ここには、戦争の末期に空襲の焼跡で土下座して天皇に詫びる民衆の姿に衝撃され、その体験を『方丈記』に重ねて読み直すことをつうじて「現代の作家」への道を歩み始めた堀田善衞の、きわめて現代的な問題意識が率直にのべられています。そして彼は、レーニンの「おくれたヨーロッパとすすんだアジア」という言葉などを思い出しながら、「死んだものを、未来に対する『希望』の、その礎として生きかえらせるのが歴史というものなのだ」という、一応の解答に到達してこの本をおわります。堀田善衞にとって、アジアの発見は、歴史の発見ということでもありました。
 それから数年後に書かれた『美しきもの見し人は』という本のなかで、堀田善衞はもう一度このアジャンタ石窟での経験に立ち帰り、「そのさまざまに異様な、いささか保存のわるい壁画を眺めていて、私はある一つの文明観の基礎になるようなものを得た」と書き、「文明とは何か、歴史とは何か。私がアジャンタの洞窟のグロテスクな絵画群を眺めて歩いて得たものは、文明とは、歴史とは、一言で言ってそれは異民族交渉ということだ、という考えであった」と言っています。
 これにつづいて堀田善衞は、『鬼無鬼島』、『海鳴りの底から』のように土俗的なものや宗教的なものをテーマに小説を書きます。
 アジアとの出会いのなかで堀田善衞は、歴史の重層性を発見します。それは同時に、西欧的な一元論や一神教の文化を相対化する視点の獲得でもありました。こうして堀田善衞は、アジアを通過してもう一度ヨーロッパへ視線を向けます。もちろんそこに描きだされるヨーロッパの像は、もはや昔日のものではありません。

(3)ヨーロッパ・近代の明暗

 最初に、堀田善衞の世代にとって、ヨーロッパとは何であったのかを見ておく必要があります。同世代の中村真一郎は、「私たちの世代にとって美はヨーロッパと不可避的に結びついている」と書き、さらに「生きる上で、西洋というものが目のまえに立ちふさがっていて、その西洋を自分のものにするということが、つまりは生きるということである、というのが私たちの年代の生き方であった。[……]そして、私たちの兄の年代の人々にとって、西洋がマルクス主義であり、革命であったとすれば、私たちの年代の連中にとっては、それが美であったわけである」(『堀田善衞全集』9巻解説)とつづけていますが、これは戦前から戦中にかけての、日本の若い知識人たちの世代的な特徴を、たいへん良くとらえていると思います。
 こちらには暗い闇があるのにあちらには明るい光がある。この光は何であるのか。なぜそれはわれわれにとって光であるのかと問いつづけることは、日本のこの世代の宿命のようなものでありました。中村真一郎が指摘しているように、マルクス主義さえがこの国では西欧的近代への渇望の表現でありえました。しかしアジアとの出会いを経た後の堀田善衞の目は、もういちど繰り返すが、もはや昔日のものではありえません。
 私ごとに属しますが、私はいまから二十年ほどまえに、最初の『堀田善衞全集』全十六巻を編集したことがあります。この全集には初期の習作から一九七二年の作品『19階日本横丁』までが収められていますが、これをいまの時点で振り返ってみると、それは全集どころか、極端に言えば「初期作品集」とでも呼ぶのが適当であるほどに、彼はこの全集以後に本格的な、まさに堀田善衞を代表するような作品をつぎつぎと書きつづけます。『ゴヤ』四巻、『定家名月記私抄』正続二巻、そしてこの正続の中間で小説『路上の人』が書かれ、『ミシェル 城館の人』三巻につづいて現在『ラ・ロシュフコー』が進行中です。これらの作品を見ると、堀田善衞の関心が、アジアを経由してふたたびヨーロッパと日本の中世から近代の「乱世」へと一周して帰ってきたのがわかります。それは本来の堀田善衞の世界です。しかし三度くりかえしますが、それを見る堀田善衞の目はもはや昔日のものではない。そしてまた、『方丈記私記』のように鴨長明の作品世界に彼自身の体験をぎりぎりと押し込んでいくような切迫感も、もはやこれらの作品からは影をひそめます。堀田善衞はこの間、八年間をスペインですごします。
 堀田善衞は『スペイン断章――歴史の感興』(岩波新書)という本のなかで、「この国ほどにも、どこへ行っても、重層をなす『歴史』というものが、何の粉飾もなく、あたかも鉱脈を断層において見るように露出しているところが、他にあまり例がないのではないか、という心持ちが私を動かしたもののようである」と、自身が住む場所としてスペインをえらぶことになつた心の動きを書いています。歴史は過去から現在へと単線を描いて流れているのではない。それはさまざまな時間をもった、さまざまな方向への流れの、重層をなした束のようなものである。しかもそれはモノとしてわれわれの目の前に在る。歴史は読むものではなく見るものである。性急にそれを説明しようとしてはならない。人間はどんなことを仕出かしてきたのか。そしてその結果がいまも目の前にモノとして存在しつづけているのだとすれば、まずそれを見ること、それと対面したという経験とそれから自分の心に生まれる感動こそを大事にすべきだ。それが「歴史の感興」、くだいて言えば歴史の面白さを見出すただ一つの道だ。しかも、「そのものがそこにあれば、それは現在である。<歴史>とは、現在、である」 ――これが堀田善衞にとっての「歴史」です。
 歴史は重層をなしている、という考えは、とりもなおさずアジアとヨーロッパをボスポラス海峡で截然と切り離すような近代的な世界像を否定することでした。しかも堀田善衞がそういう視点を獲得するのは、じつはあのアジア的な虚無と対面した西インドの石窟寺群のなかででした。彼はそれを後に『美しきもの見し人は』という本のなかで、「文明とは何か、歴史とは何か。私がアジャンタの洞窟のグロテスクな絵画群を眺めて歩いて得たものは、文明とは、歴史とは、一言で言ってそれは異民族交渉ということだ、という考えであった」と書いていることは、すでに紹介しました。
 こうして堀田善衞にとって、ヨーロッパとはもはや日本やアジアからすつばりと切れた存在でもなく、また闇にたいする光というだけのものでもありません。ヨーロッパの文明の底に、どれほどの厚い層としてアラブの文明が横たわっているか。ヨーロッパ、それは美であると言ったそのヨーロッパの美の底に、どれほど無気味なものが横たわっているか。彼は同じ本のなかで黙示録にふれて「西洋が、そこから栄養を吸いあげている、暗い根の方に、いったい何がはいつくばっているかを知ることは、『美しきもの』を見るについてもたいせつなことであろう」と言っています。
さて、これだけのウォーミング・アップをしたうえで、いよいよ『ゴヤ』以下の大作にとりかからなければなりません。
 『朝日ジャーナル』に『ゴヤ』の連載がはじまったのは一九七三年の一月からです。全四部が完成したのはそれから四年半の後でした。二年前の七一年には『方丈記私記』が書かれています。堀田善衞は戦後の日本人の目をアジアに向けて開かせた先駆的な文明批評家であり、また『若き日の詩人たちの肖像』をはじめたくさんの小説を書き続けてきた小説家であるのはもちろんですが、私にはこの七一年の『方丈記私記』が文学者・堀田善衞の歩みにとって、一つの大きな転機になったように思えてなりません。それは戦争の末期に彼が抱え込んでしまった「問題」へと、「戦後」二十五年間の彼の「経験」を背負って立ち帰ることであったと思います。
 『ゴヤ』はとりもなおさず堀田善衞の「ヨーロッパ論」でした。これはゴヤの評伝ですが、しかし彼はこの本でゴヤの過不足ない伝記を書こうとしたのでもなければ、作品研究を意図したのでもありません。ヨーロッパの「現代」はどのような相貌をもって現われてきたのか、そのなかでどのようにして「現代」の芸術家は生まれたのか、それをゴヤという魁偉な才能に光を当てながら、語り尽くしたのがこの四巻からなる労作でした。時はフランス革命からナポレオンの遠征そしてその挫折という十八世紀から十九世紀への激動する過渡期でした。堀田善衞は、このいわば政治の季節のなかで、ひとりの才能豊かな宮廷画家、つまりお抱え絵師が、いかにして独立した芸術家にまで到達したか、それをゴヤの内面と技術というふたつの側面から追求しています。
 この誕生の過程を『ゴヤ』に即してたどる余裕はないので、ほんのサワリのところだけを紹介します。よく知られている版画集『戦争の悲惨』にふれて堀田善衞は「ダヴィッドは革命家であったかもしれなかったが、革命的芸術家ではなかった。ゴヤは革命家でも啓蒙者でもなかったが、革命的芸術家でありえた」と言っています。それはこういうことです。「画家(ゴヤ)はここで、描く人、画布にうまく描き、意味深い表現をする人という、それまでの画家の定義から一歩を踏み出る。たとえばダヴィッドは、自ら国民公会でルイ一六世及びマリー・アントアネットの処刑に賛成投票をした。かれは一通りの革命家であった。けれども彼の作品は、処刑されるアントアネットが荷車でギヨチンまで運搬されるときのデッサンをも含めて、如何なる意味でも革命的ではない。それはただ描かれているだけである、うまく描かれているにとどまる。」「ゴヤは、戦闘も戦争も、まして会戦を描いてはいない。彼が描いたものは、すべて戦争の『結果』である。そこに版画集『戦争の惨禍』の原題が、『スペインがボナパルトと戦った血みどろの戦争の宿命的結果(複数)とその他の強烈な気まぐれ』というものであったことの所以が存する。〔……〕しかもここに、ひそかに告発されている『血みどろの戦争の宿命的結果』は、人間の、人間に対する告発としては、それは永遠のものである。」(『ゴヤ』第3部、「アトリエにて」)
 さらに堀田善衞は「ゴヤはすでにわれわれの同時代人である。しかもこの同時代である 〃現代〃がまさに開始されたその瞬間において、すでにわれわれは、人間が何をやらかすことが出来るものであるかについて、きびしい警告をうけていたのであった」(同、「版画集『戦争の惨禍』)とも書いています。
 ゴヤは芸術家であって革命家ではありえない、と堀田さんは言います。その理由はゴヤの「自己主義(エゴティスム)」です。そしてこの芸術家としての「自己主義」こそ、彼の内面の自立をささえ、芸術の自立をささえているものにほかなりません。「彼は認識者であり、表現者ではあっても、扇動者、革命家ではない。それは、人世にあって別々の天職なのである。」(第4部、「地下画帳 観察・記述・批評」)
 『ゴヤ』という大作から、ほんの少しの言葉を引用しても、ほとんど意味のないことですが、しかしこの部分は、戦争末期と上海での敗戦の体験をへて、天皇制を柱とする日本の支配制度にはげしい批判を抱きつづけてきた堀田善衞が、なぜ最後のところで革命家つまり実行者ではなく、文学者つまり表現者の道をえらんだのかという問いに答えてもいると思います。この『ゴヤ』は近代というものをフランス革命やナポレオンの側からではなく、スペインという「自由・平等・博愛」を押しつけられた側から描いたものですが、堀田善衞のなかで、そのスペインと、アメリカ占領軍によって「民主化」を押しつけられた日本の経験とが、どこかでひびきあっているということが、あったかもしれません。
 ヨーロッパを書くのにゴヤという主人公をえらんだのは、いかにも堀田善衞らしいと思われます。<絵>はいま、そこに、モノとして存在しつづけているからです。「歴史とはモノである」という彼の考えを紹介しましたが、まさに今に伝わるゴヤの絵は、歴史そのものとしてわれわれの眼前に存在しているのです。ですから、モノとしての歴史との対面が生み出す「感興」をなによりも大切にする堀田善衞は、あくまでも現物を見る努力をおしみません。彼は一枚のゴヤをもとめて、スペイン国内はもちろん、フランス、ドイツ、アメリカ、さらにはモスクワのプーシュキン美術館にまで足をはこぶのです。ここにも堀田善衞の「現場」への執着を見ることができます。
 ところが、『ゴヤ』を書きおわった堀田善衞は、スペインに住みながらこんどは日本の中世に目を向けます。藤原定家の『明月記』を読む、という形の『定家明月記私抄』です。ヨーロッパで日本の中世について書くその理由を、彼はつぎのように書いています。

 西欧においては、中世は、ほとんどどこにでもと言いたくなるほどに、厳然として、あるいはごく普通に、そのpr抛senceを見せている。都市においては殊にそうであり、市壁あるいはその跡や大聖堂などを通過しないでは、郵便局へも駅へも行けはしない。そういう中世のpr抛senceが、かえって私を扶けてくれた。東京のコンクリートの箱のなかで、古文献だけを相手にしていたのでは、かえって頭がくぐもってしまったかもしれない。秋になって、ピレネー山脈の山のなかへ、観光客などの誰一人いない山中で、日本での植生とはいささか事変った黄葉や紅葉を眺めていると、自然、後鳥羽院の技巧をきわめた和歌の一首が浮かんで来たりして、その人手の入っていない自然が、かえって新古今時代の歌の人工性、工芸的なまでの技巧性を浮きたたせてくれもした。
私がひそかに感じているところを正直に言えば、日本人が西欧にあって西欧の文物を研究することの方が、意識にかかわってはかえって煩わしいのではないか。(『定家明月記私抄』、「続篇の序」)

 ここでも堀田善衞の現場感覚があざやかに語られています。ところでその『定家明月記私抄』正・続二巻ですが、これは彼の言葉をそのまま使えば、藤原定家に「若さ日の借りを返す」(「現代から中世を見る」、『歴史の長い影』所収)というものです。なにが「若き日の借り」かといえば、例の「紅旗西戎吾ガ事ニ非ズ」です。
 もちろん『明月記』五十五年間から、わずかこの一言だけを引き出してあれこれ言うのは不当ですし、彼の『私抄』もけっしてそれだけのものでないことは言うまでもありません。ここでも堀田善衞のテーマは、この平安文化の最後の日々に、ひとりの宮廷歌人が歌人として自立していくその曲折に満ちた行程を描きだすことでした。
 とは言っても、五十五年間をなぞるわけにもいきませんから、ここでも問題を単純化して、この「紅旗西戎、云々」にしぼります。堀田善衞は、定家十九歳のおりの『明月記』治承四年九月の項に現われたこの言葉が、四十一年後、定家六十歳の『後撰集・奥書』にもう一度現われるのに注目します。というのは、十九歳のおりの「紅旗西戎」は「世上乱逆追討耳ニ満ツト雖も、之ヲ注セズ」につづくわけで、武士の反乱討伐などの噂は、京に満ちていても多くは真偽を確かめようもないことゆえ、そのような巷説は書かないという意味であったのにたいし、六十歳の「紅旗西戎」は後鳥羽院によって発議された北条氏追討をさしているのだから、「状況が根本的に違うのである。ここでの『紅旗』は、直接に後鳥羽院、すなわち朝廷そのものである」(『定家明月記私抄・続篇』、「承久の乱 政治と文学」)と指摘してつぎのように書いています。

 ということば、これをもう少し敷衍して考えるとすれば、後鳥羽院と定家という対照において、宮廷文化、ひいては天皇制そのものに関して、二つの態度、二つの対し方、あるいは考え方があるということになるであろう。
 一つは、勅撰になる新古今集に象徴される、文化の場としての宮廷が成ったとしても、政治と軍事の場における天皇制の権威が、このままの現状では、まったく失われてしまうという、危機感に犯された天皇制である。たとえ剣なくして即位をした天皇であっても、後者、すなわち剣なくしては、天皇制は名目だけのものと化するという危機感である。
 そうして定家は、文化文学の場に、軍事的冒険などという物騒なものが持ち込まれることなどは、以ての外であり、生涯を通じて真平御免であるとしている。しかもなお、その文化文学自体に関しても、後鳥羽院と定家が見解を異にしていることは、これまで見て来た通りである。これをつづめて言えば、前者は、建前としては和歌は社交と儀礼の範囲における宮廷文化としてみようとする。さればこそ後年、「定家は題の沙汰いたくせぬ者也」と、宮廷の題詠を軽んじることを難じ、また「惣じて彼の卿が歌存知の趣、いささかも事により折によるといふことなし」と、折節の歌という、これも遊戯の場としての宮廷を無視していると、双つながらに宮廷文化の無視を難じることになる。

 定家は、後鳥羽院、すなわち宮廷の側から見て、究極的には、たとえ宮廷というものがなくても、独立し得る歌の道を構想している、ということになる。
 政治と文学との劉蝶の典型的、かつきわめて高度な劇がここにある。
         ………………………………
 歌の場としての宮廷が壊滅すればするほど、定家の権威はより高いものになって行くであろう。いまでは後鳥羽院の歌などを読む人は、おそらく希な人、ということになるであろう。 (同上)

 この『定家明月記私秒』を書きながら、堀田善衞はしきりにヨーロッパの中世にこころが動かされるようになります。それを彼は「定家が西欧中世を呼び出してくれた」と言っています。それはまだ国民国家というものが成立していない時代、しかしそれにかわって宗教が猛威をふるう時代です。「日本の中世とは事変わって、西欧中世には、まだ『国家』というものがはっきりとは成立していなかった。そのことが、戦時中以来、洋の東西を問わず、近代国家という政治装置に飽き飽きしていた私に、ある種の思考の自由、あるいは思想的なゆとりを与えてくれた。あるいは、与えてくれたと信ずることを可能にしてくれた」(「現代から中世を見る」)と堀田善衞はその西欧中世への関心の原点を語っています。
 そしてこの関心は、『定家明月記私沙』の正篇と続篇との中間に、書き下ろしの小説『路上の人』としてひとまずは結実します。
 これはヨナという名の路上生活者が、僧侶や騎士の従者となって十三世紀中葉のヨーロッパを旅する物語で、この最下層の民衆である主人公の、路上生活で身につけた自由で闊達な批判精神は、確実にあたらしい時代の到来を予告しています。
 この作品にはいろいろな仕掛けがあって面白いのですが、そのひとつにウンベルト・エーコの・『薔薇の名前』のモジリとでも言うべき仕掛けがあります。それは果たしてキリストは笑ったか、という問いであり、未発見のアリストテレスの著作『詩学・第二部・喜劇論』です。

「それで、アリストテレスの喜劇論はあったのですか?」
「これだけは、トレドの偽学者どもや翻訳に従事しているユダヤ人やアラビア人どもも、言を左右にして、あるともないとも、否定も肯定もしませぬ。詩学が現存していることがわかっている以上、そのなかに悲劇論と喜劇論があることは当然であり、……」
「もしその喜劇論がありましたとしたら……」
「これを用いて人間としてのキリストの復権を、おそらくセギリウスは考えたものでありましたろう。その上で、人間の笑いというものを、キリスト教のなかに大きく復権せしめえたとしたら、と、おそらく目論だものでありましたろう」(『路上の人』、第四章「僧院の外」)

 『薔薇の名前』は日本でもベストセラーになりましたし、映画も好評でしたので紹介ははぶきますが、たとえば『路上の人』のなかの、法王の命によって「笑いの神学的意味如何」を究明するためにトレドに向い毒殺されたセギリウス修道師についてのこの会話や、登場人物、異端派の問題などを見れば、この作品と前者に共通の道具立てを見ることは不自然ではありません。しかし私か注目するのは、『路上の人』で主題となっている笑い、寛容、そして「禁欲主義は必ずしも道徳を生む所以ではない。純粋はつねに両刃の剣であり、純粋と狂信は背中あわせである」というほとんどバスカヴィルのウィリアムの言葉そのものであるような反省、……これらは堀田善衞の肉声であり、それはつぎの大作『ミシェル城館の人』への導入部をなしているということです。『フランソワ・ラブレーの作品と中世ルネッサンスの民衆文化』というすばらしい本のなかで著者のミハイル・パフチーンは、「階級的文化における生真面目さは公式的、権威的であって、強制、禁止、限定と結び合う。このような厳粛さ・生真面目さの中には常に恐怖の要素がある。中世の厳粛さの中ではこの要素が強い勢力を持っていた。これに対して笑いは恐怖の克服を目ざした。笑いは禁止や限定を創り出しはしない。笑いの言語は決して権力、強制、権威については語らない」と言っていますが、このルネッサンス的、ラブレー的笑いから、ベルグソンに代表される近代の笑いへの過渡期にモンテーニュは位置したわけです。
 「ヨーロッパ」が成立したのは近代においてです。『ミシェル城館の人』は現在進行中で、まだ半ばに達したばかりですが、この作品は一六世紀というまさにヨーロッパ成立の時期に焦点をあてて、そのなかからモンテーニュという近代精神の誕生を検証する労作であり、堀田善衞のヨーロッパ論の「最後の言葉」と呼ぶにふさわしものです。
 さて、私は堀田善衞のほぼ五十年におよぶ著作活動を、摘み食いをするようなかたちで見てきました。このような駆け足の観察によっても、堀田善衞の世界があざやかな円形を描いて、と言うよりも螺旋状を描いているのがわかります。若い日のヨーロッパと日本中世への関心は、アジア、第三世界への旅の後に、ふたたび彼に帰ってきます。しかもそれをたんなる先祖がえりではないものとして可能にしたのは、やはりアジアとの出会い、あるいは対話であったろうと思います。そしてそこで堀田善衞が得たものは、もしかすると底知れぬ徒労感であったのかもしれません。しかしそこでこそ、堀田善衞の成熟があり得たのだろうと思います。
 堀田善衞は『ゴヤ』のなかに、じつに意味深長な言葉を、さりげなく書いています。「ところで」と彼はやや唐突に書きます。「ところで二流の大芸術家というものは、ほとんどの場合、その芸術的使命が終ったところから、政治的使命を帯びはじめる。学者もまたそういうものである。」
 これは堀田善衞の、あれこれの同業者にたいする、ほとんど侮蔑とでもいえるような拒否の姿勢を示しています。このさりげなく挿入された短い一節と、最晩年のゴヤについての彼の言葉――「比喩的に言うならば、芸術家は、彼がもし真に芸術家であるならば、如何に年老いていたとしても、芸術家は若くして死ぬのである。彼に余生はない。前代議士というものはありえても、前芸術家というものはありえないのである。つねに進行形の生をもつ、たとえ足踏みのかたちの進行形であろうとも。」 ――を重ねあわせて見れば、それは堀田善衞の現在を彼自身が語っていると受け取っても間違いではないでしよう。
 堀田善衞の作家としての歩みは、ゆっくりと、そして明晰な線を描いています。それは出発の時から、すでに完成した予定表をもっていたかのような錯覚を人にあたえるほどです。しかしそれは錯覚にすぎません。結果においてそのように見える作家としての人生を実現しつつあるのは、やはり持続する意志と努力があってこそです。老ゴヤとともに堀田善衞は、「おれはまだ学ぶぞ!」と言っているようです。

(1991年10月22日、未発表)