「この国ほどにも、どこへ行っても、重層をなす『歴史』というものが、何の粉飾もなく、あたかも鉱脈を断層において見るように露出しているところが、他にもあまり例がないのではないか、という心持が私を動かしたもののようである」と、著者は住む場所としてスペインをえらぶことになった心の動きを最初に書いている。
歴史は過去から現在へと単線を描いて流れているのではない。それはさまざまな時間をもった、さまざまな方向への流れの、重層をなした束のようなものである。しかもそれはモノとしてわれわれの目の前に在る。性急にそれを説明しようとしてはならない。人間はどんなことを仕出かしてきたのか。そしてその結果がいまも目の前にモノとして存在しつづけているのだとすれば、まずそれを見ること、それと対面したという経験とそれから自分の心に生まれる感動こそを大事にすべきだ。それが「歴史の感興」、くだいて言えば歴史の面白さを見出すただ一つの道だ。しかも、「そのもの(、そこ(、国土回復者(レコンキスタ)、ナポレオン軍、そしてある所ではそれに加えて原始人の残したものにぶつかる。石、城、橋、教会、そして塔。一つの町そのものが、それらのひと塊の混沌なのである。それは遺跡などというものではない。現にそのなかで、あるいはその上で、人びとは生きている。そしてかつて南米植民時代に栄華をきわめた街の残骸がある。それを描き出す著者の筆は、人間というものは何とおろかなことを仕出かすものか、と嘆息しているかのようである。行間から、「ああ哀しいかな、昔は人の満ち充ちたりしこの都、いまは凄(さび)しき様にて座し、寡婦(やもめ)のごとくなれり。云々」という旧約「エレミヤの哀歌」の一節を聴いたように私は思った。そして著者は、スペイン帝国主義発祥の地、トルヒーリョの町の荒涼とした広場に立って、とつぜんニューヨークの高層ビルを思い出す。やがて人間はニューヨークをも、このトルヒーリョにしてしまうであろう、と。
とは言っても、著者はべつに終末論を語っているのではない。また性急に歴史の教訓というようなものを語りもしない。彼はただ見ているのである。スペインと、スペインという形をとった歴史を見ている。そして驚き、迷い、嘆息する。そういう著者の旅につき合いながら、しかし読者のなかにおぼろげに歴史が形をつくりはじめる。一人ひとりが歴史を見つめ、自分自身の歴史の見方をつくり出す以外に、この乱世を生きる道はないと、この一冊の本は語っているのかも知れない。 (『潮』一九七九年五月号)