総力戦と中野重治の「抵抗」
『斎藤茂吉ノート』一つの読み方

 竹内好は、中野重治の『斎藤茂吉ノート』を「戦争中第一の抵抗書の一つ」と評価してその根拠をつぎのように書いた。あまりにも有名なその一節を引用することからはじめたい。
「戦争をくぐらなければ、具体的にたたかっている民衆の生活をくぐらなければ、いかなる方向であれ民衆を組織することはできない。つまり思想形成を行うことはできない。それが最低限の思想の必要条件である。戦争吟を、戦争吟であるために否定するのは、民衆の生活を否定することである。戦争吟を認め、その戦争吟が過去の戦争観念にたよって現に進行中の戦争の本質(帝国主義戦争という観念ではない。)を見ることから逃避している態度をせめ、戦争吟を総力戦にふさわしい戦争吟たらしめることに手を貸し、そのことを通して戦争の性質そのものを変えていこうと決意するところに抵抗の契機が成り立つのである。」(「近代の超克」、『近代日本思想史講座』第七巻、一九五九年一一月、筑摩書房刊)
 総力戦の時代、日本について言えば「大東亜戦争」期の、抵抗の可能性については、今日でもなお定説と呼べるものはない。これは戦後の論壇のなかで「抵抗」というテーマが論じられなかったということではなく、むしろそれは過剰に論じられながらほとんど成果をうまなかったということである。なぜそれほど貧弱な議論しかうまなかったのかといえば、その前提として「総力戦」という視点をほとんどの議論が欠いていたということにつきるように思われる。その結果、あたかも戦争から孤絶した生活が可能であったかのような幻想を前提にして、手を汚したか汚さなかったかというようなことが抵抗の基準にされてしまい、そのような無垢な存在としての抵抗者の像を前提にする以上、戦争中に言論にたずさわったすべての知識人は、自分を抵抗者であると主張するためには、戦争中の自分の言論と行動を隠蔽しなければならなかったのである。竹内好の主張はこのような抵抗観をはっきりと拒否した。そしてその拒否には彼自身の戦争中の経験がふまえられている。
 竹内好の未発表の日記を縦横に利用した年譜(『竹内好全集』第一七巻所収)の一九四一年一二月八日から年末にかけて、つぎのような記述がある。カギ括弧内はすべて日記からの引用である。
 八日、「本日十一時対米、英宣戦の大詔が下ったことを知った。はるかに予想を超えている。壮烈なものを身に感じる」。一一日、「戦争遂行の決意は今や全国民一致している。これは明かであるが、細部に亘っては議論が分れる。支那事変に何か気まずい、うしろめたい気持ちがあったのも今度は払拭された。支那事変は今度こそは立派に生きた。野原〔四郎〕君、とにかくこの戦争は進歩的な戦争だと云った。たしかにそうであると思う。これを民族解放の戦争に導くのが我々の責務である」。一三日、「午後、戦争に処する方策協議のため同人会を開く。斎藤、武田、増田、千田、それに生活社の前田〔広紀〕氏来る。増田、千田はあまり発言せず。武田は考えをもっているがやはり自分と少しちがう。生き延びるために戦争をやるので理屈を云ってもだめだと云う。自分の考えを述ぶ。一月号に宣言を書くこと、とにかく反対ではないと云う」(以上、日記)。一六日、『中国文学』一月号(第八〇号、一九四二年一月一日発行)の宣言(「大東亜戦争と吾等の決意(宣言)」)を書く。二九日、『中国文学』一月号出来。三〇日、『中央公論』一月号、高坂正顕、高山岩男らの座談会「世界史的立場と日本」に感銘をうける。
 対米・英開戦に高揚した竹内好は前出の「宣言」(『全集』第一四巻所収)のなかに「この世界史の変革の壮挙の前には、思えば支那事変は一個の犠牲として堪え得られる底のものであった。支那事変に道義的な苛責を感じて女々しい感傷に耽り、前途の大計を見失ったわれらの如きは、まことに哀れむべき思想の貧困者だったのである。」「この戦争を真に民族の解放のために戦い取ると否とは、繋って東亜諸民族今日の決意の如何にあるのだ。」「諸君、共にいざ戦おう」と書く。
 マルクスを読み、中野重治と魯迅を愛読した竹内好が、日中戦争に「何か気まずい、うしろめたい気持ち」をもったことは当然と言える。そしてそれは「昭和」の初年代にマルクス主義の洗礼を受けた知識人たちにとって、例外ではなかった。そのような「道義的な苛責」を対米・英開戦は一瞬にして吹き飛ばしたのである。この竹内好の反応もまた例外ではない。敗戦から十四年の後に書かれた「近代の超克」は、このような自分の対応が生まれた根拠を解明しようとした試みだったと読むことが出来る。
 竹内好が『斎藤茂吉ノート』を読むのは、このような体験から半年あまり後の四二年八月である。彼がこの書にどれほどの衝撃を受けたかは「旅日記抄」中の「いいわけ」(『中国文学』八九号、一九四二年一一月)の項に綿々と記されている。彼はそのなかでこんなふうに書く。
「『斎藤茂吉ノート』を読んでから二、三日は、世界と自分とが変ったように、ぼんやりしてしまって、ただ一つのことだけが頭にこびりつき、何も考えられなくなった。この二、三年、これほど感動を受けた書物は、他になかったような気がした。道を歩いていても、そのことだけが気になって、大地が足許から崩れるような、目まいのような感覚がして、無力感は決定的になった。そのような無力感は、実は中野重治の無力感からの影響なので、僕自身の影響を受けやすい性質を計算に入れても、僕にそのような影響を与える中野重治の無力感というものは、実に恐るべきものなのである。〔……〕何事かを説き聴かすのでなくて説き聴かすそのことによって、相手の考え方を変えてしまうのである。見事に『書かれた』書物である。無力感は、自己を無力と観ずることによって、全き存在となって相手の心に生きる種類の無力感なのである。〔……〕文学とは、そのようなものである。少くとも、僕はそう信ずる。自己を無みすることによって、相手の心に生きるという、ある種の行為なのである。」「『斎藤茂吉ノート』については、いろいろのことが云えるのだが、その云えることの一つは、あきらかな現代が感得されるということである。現代が『書かれている』のである。現代というのは、歴史的な意味の、従って反歴史的なものを含む意味での『現代』なのである。そのような現代を書くということ、書くというよりも、その中へ身を投じる行為は、決して容易な業ではないのである。」(『竹内好全集』第一四巻四二四〜六頁)
 ここには、あたかも自分を無にするかのように引用を積み重ね、それによって対象を正確に描き出し、それが百万言の主張にまさって読者の「心に生きる」結果となる『斎藤茂吉ノート』の方法が的確につかまれている。しかしそれだけではない。彼はさらにつぎのような「反省」をそこからみちびく。
「更に云えば、僕らの周囲に充満している非現代的なもの、世俗なもの、口頭禅的な文化的なもの、否定を媒介せぬ肯定、行為を抽象した観念、非歴史的な契機を含まぬ歴史主義、要するに堕落した文章とそれを堕落と感ぜぬ精神、それに対して、僕らが何らかの仕方で何らかの態度を表明したか、あるいは表明することを決意したか、しなかったか、ということに確信が持てぬのである。十二月八日以後、十二月八日以後の文章を僕らが書いたか、書かなかったか。少くとも、中野重治のようには書かなかったろう。全く別の意味であるが、保田与重郎のようにも書かなかったろう。僕らは、極言すれば、周囲に一指も染めていぬ。」(同、四二七頁)
 以上の引用によって、総力戦のなかで「戦争をくぐる」という竹内好の主張の輪郭は、おぼろげながら見えてきただろうか。しかし、戦争のなかに積極的に身を投じ、そこから戦争の性格を変えて解放への契機をつかみだそうという彼の主張は、中野重治の『斎藤茂吉ノート』によってよく実現への可能性をもちえただろうか。
 
                
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 さて、目を中野重治の方へ転じよう。竹内好によって「十二月八日以後の文章」の一規範として称揚される『斎藤茂吉ノート』を書きついでいる中野重治は、竹内とは対蹠的に、あらゆる手だてをつかって「逃げる」のである。彼は対米・英開戦の報に「壮烈なものを感じ」たり、「これを民族解放の戦争に導くのが我々の責務」だなどとは言わない。一二月八日の中野の日記には「晴―時々雨/中島氏来り、流しの棚その他、雪垣等の破損。アメリカと交戦の報あり、丸岡駅で新聞の張紙を見る。英米に宣戦。ホノルル、マレー半島襲撃の報。夜善教寺お経よみに来る。米の帳簿整理終。」とあるだけである。このとき中野重治は、父親の死後の家の整理に故郷に滞在している。そのおかげで八日の「前歴者」の一斉検挙をまぬがれているが、そのときの彼の考えは戦後の短篇「帰郷」(『群像』一九六三年九月号)にくわしく再現されている。
「おれはつかまらぬぞ。つかまりたくないぞ。どうしてでも……」というのが、妻から警察が来たという電報を受け取ったときの主人公の決意である。「上げ潮の時ならばまだしも、この引き潮という時につかまりたくない。」引き潮の時にはそれにふさわしい仕事がある。それが「茂吉ノート」なのである。それを完成させるためには、どうしてでもつかまりたくない。「彼」は田舎にいる。そこにも東京の文化人たちの談話が伝わってくる。
「あの直後新聞で見た東京の人たちのような言葉は万吉は聞いていない。/『これですうつとした。さつぱりした……』/『当然来るべきものが当然に来た……』/『胸のなかで空が晴れた……』/そういつたことは、百姓の口からは一切出ていなさそうに万吉に見える。かえつてそこに、操觚者流の苦衷が逆にあるのかもしれなかったが、とにかく百姓たちは、万吉の耳の限りそんなことを言つていない。隣組の特別常会で、だれかがそんな言葉で演説しなかつたとはいえまい。しかし差しむかいでは、役場の兵事係でもそんなことは言つたらしくもない。」
 しかしこの逃げることについて、彼の胸中がそれほどすっきりと割り切れていたわけでもない。彼は自問自答する。「おまえは、無駄に退かぬことでとつつかまつて、いままで第二列にいた連中が第一列に押しだされてしまうことまで防ぎたいなんて無自覚に考えているらしいが、愚劣に退くことで、つまり第一列の――第一列というのがそもそもおかしいんだが――おまえが百歩も退ることで、第二列が、それ以上退けなくてフォームから落つこつてしまうことにならぬという保証はあるのかい。第二列のうしろに、プラットフォームは十尺も残つてはしないのだからな……」「殿軍の将というのは、将に将たるもの、ほんとに強いんだということを忘れるなよ。おまえは本質的に弱いんだということを忘れるなよ。それを認めることが特にこのさいの勇気なんだということを忘れるなよ。おのが弱さを認める勇気さえ欠くものに何ができる。〔……〕負けいくさにつつこんで行くのが勇者だといつた腐つた小ブルジョア根性をどこまで洗い流せるかでさきざきの保証ができるんだぞ……」
「おれはつかまらぬぞ」という決意をつらぬくためには、彼は身を屈して敵の股をくぐることも辞さない。「係保護司殿の御指示にしたがつて執行猶予期間も大過なくすごし、自分の仕事方向にしましても漸次に修正を加えてきたかと考えるところがあり、この点、私が米英派などいうものでなきことは、これは当局においても明白に認めていただけることと信じます。むろん私一個の主観のことではあり、事情激変の今日において、何らか御取調べの必要もあることは考えられ、また私として無論それをお受けするべきものとは考えておりますが、この前も簡単に書きつけましたごとく……」
 転向後も筆を折ることなく「書き続ける」ことをえらんだ中野重治にとって、「書き続ける」ことの基本的なモチーフであった「革命運動の伝統の革命的批判」は、もはやこのときにはストレートには主題になり得なかった。しかし彼はなお書き続けることをえらんだ。それは言ってみれば二重三重の自己確認の行為であった。そして『斎藤茂吉ノート』はその自己確認の中心をなす仕事であった。それは小説「歌のわかれ」とちょうど対をなす自己確認の作業だったのである。
 いうまでもなく自己確認は自己肯定ではない。それは自分の歩んできた道の確認でありその曲がりくねった道の果てにいまの自分がいることの確認である。『斎藤茂吉ノート』の初版「前書き」に中野重治は書いている。
「ノートを思い立つた動機は、自分の文学観の訂正・変改ということであった。私はそれを、日本文学のうちの最も日本的なもの、いわば最も古い伝統を持つ和歌についてしたいと考え、さしあたり、素人読者として親しんできた茂吉の歌についてたどたどしく試みてみたのであつた。」
「……つづいて大東亜戦争の勃発となつた。そしてそうなつてみると、自己の文学観の訂正・変改という最初の目論見の立場そのものが私のなかで改めて批判されるようになつた。私はそれをいくらかでも生かそうとして試みたが、ごくごく不満足にしかできなかつた。まして、もともと今では反対の考えになつている附録の中のあるものには、今となつてはそれだけに手を入れることができなかつた。」
「ただ今としては、自己の文学観のささやかな訂正・変改の道行き、それのさらに新しい立場にくるまでのたどたどしいうつりゆきの反映としてこのノートが見てもらえれば仕合せである。」
 昭和十七年三月の日付をもつわずか二頁そこそこのこの「前書き」のなかで、中野重治は自分の文学観の「訂正・変改」という言葉を三回くりかえしている。この「訂正・変改」という言葉は、これはわたしの独断的な推測だが、中野重治も「ノート九」で引いている茂吉『短歌における写生の説』中の「写生の説別記 其の三」にある「僕の説はいかにも、写生の語義変改説だ。〔……〕変改説と謂ふのは実は正誤説である。も一つ語を換へていへば、本来の写生説に復活するのである」という一節からとられているのではないだろうか。「自分の文学観の訂正・変改」とはたんなる否定ではない。否定しながらあたらしい地平に包摂することである。なぜこんなことにこだわるかというと、この「訂正・変改」を権力にたいするたんなるカモフラージュと見たり、あるいはその逆にこころからのマルクス主義の放棄と見たりする見方があるからである。ともに正しくない。
「訂正・変改」は中野重治の常態であり、その試みはこれが最初ではない。そしてその際に基軸になったのが短歌だということは見落とすことの出来ない特徴だ。金沢四高に入学した十七歳の中野が、そこで出会った茂吉の『赤光』と『童馬漫語』にどれほどの深い衝撃を受けたか、彼はくりかえし書いている。「作者も集もあつたとも知らなかつた『赤光』を読み、つづいて出たばかりの『童馬漫語』をたどり読んで行つたときの不思議とでもいうほかない感動――それは、ある地点まで読んで行つて、そこでちよつと読みやめて、そのへんをひとまわりして来なければ惑乱がおさまらぬような質のものだつたと言つてもよく、それまでは五つか六つかしかなかつた自分の感覚が、行きなりその場で九つにも十にもふえたような具合だつたとでも言うしかないものだった……」(「室生犀星と斎藤茂吉」、『全集』第一七巻「著者うしろ書」)
 そのあとに「歌」とのわかれがくる。マルクス主義による自分の文学観の訂正・変改つまり「プロレタリア文学」の時代である。しかしこの時代にも、作歌とはわかれたが短歌そのものと、あるいは茂吉とわかれたわけではない。芥川龍之介の死んだ一九二七年に書かれた「芥川氏のことなど」中の「斎藤茂吉」の項には、「詩人斎藤茂吉を誰ひとり批評しようとしない。アルス版『茂吉選集』に書かれた白秋の文章はただ白秋の小汚さだけを表わした。茂吉の批評はしかし短歌の批評になるだろう。同時にそれはニヒリスト茂吉の批評になるだろう。万葉の伝統は茂吉において最も近代的に先鋭化した。それを節、左千夫、子規に、そして再び万葉に返すことは歌人にできることでない。斎藤茂吉と松倉米吉とは短歌史の最後のページであろう」と記されている。ここには後年『斎藤茂吉ノート』としてまとめられる問題意識の枠組みが、すでにはっきりと形をとっているのがわかる。短歌はたんに「日本文学のうちの最も日本的なもの、最も古い伝統を持つ」文学ジャンルであるだけでなく、その近代化の過程に、小説や詩の場合にくらべてもひときわぬきんでた改革者として、正岡子規、伊藤左千夫、長塚節をもつというとくべつの事情をもっていた。つまり「短歌」を批判することは日本の文化を批判することであり、その近代を批判することであった。蔵原惟人とのいわゆる「芸術大衆化論争」における中野重治の発言を、蔵原のような洋物輸入に堕すことなく日本の土壌にむすびつけた太い絆が、この変わることのない「短歌」への批判的な関心だったといえるだろう。
 中野重治は転向以前に、つまりプロレタリア文学の時代に、もういちど「自分の文学観の訂正・変改」を課題としている。一九三一年七月の『プロレタリア詩』に発表された「詩の仕事の研究」においてである。「いろんな点で、詩に対する間違つた考えが僕らの仲間の中にあると僕は思う」と書きだされたこの批評文は、批判の対象になっているのが「僕ら」の詩・文学観であり、その「僕ら」のなかに中野重治自身が含まれるという関係での「訂正・変改」であるという点で、プロレタリア文学運動の時代にふさわしい特徴をもっている。彼がここで「訂正・変改」をもとめているのは、前年の「芸術運動のボルシェヴィキ化」あるいは「共産主義芸術の確立」の方針以後、顕著になった観念的な政治主義的文学観である。「階級闘争のかくも激化せる今日、党のスローガンもかかげないで鳥だの草の芽だのといつてるとは何ごとか。切迫せる今日の情勢のなかで、早春などということが頭に浮かぶことからして第一けしからん!」というような「批評」をうみだすような文学観である。これにたいして中野が対置するのはかつて親しんだつぎのようなことばだ。――「スローガンやストライキの要求条項を書きこむことがいい詩の条件なのではない。伊藤左千夫はずつと以前に詩の役目を次の言葉で言い表わした。/『声調のつたふる情緒の揺れ』/これは非常にすぐれた規定だ。僕らの場合問題になるのは、それがどの階級の情緒かという点なのだ。」左千夫の「声調」については茂吉も「短歌道一家言」のなかでふれている。中野のこの「訂正・変改」の作業は、一九三一年七月という日付からして、茂吉の『短歌写生の説』(一九二九年、鉄塔書院刊)などをふまえ、その写生論と蔵原惟人によって提唱されたプロレタリア・リアリズムとか唯物弁証法的創作方法とかとの対比・検討によって、理論づけられていたものとおもわれる。それは同時に、自分自身の「夜苅りの思い出」などこの時期のプロレタリア詩の否定をともなうものであった。
 もういちどくり返すが、中野重治の「自分の文学観の訂正・変改」が、転向を契機にしておこったとか、もっとのちに『斎藤茂吉ノート』で、「時局」の圧力によってはじめておこったとかいうのは、正しくない。もちろんそれぞれの時期の「訂正・変改」が、それぞれの状況とまったく関係なかったなどということはないにしても、その道行きにはおのずからなる自律性があった。その自律性を保証したのが「短歌」であった。短歌あるいは短歌的なものは、中野重治の文学観の根底に位置してそれを形成する核であったとどうじに、たえず対象化し批判しつづけるべきものであった。ここに彼の「訂正・変改」が一種の永久運動にならざるをえない理由があった。そのPro et Contraによって、中野重治は日本の近代についての、講座派理論ともコミンテルン・テーゼともことなった自分に肉体化された像を獲得して行くのである。
 中野重治が日中戦争をどのようなものとして認識していたかは、開戦の直後に書かれた「条件づき感想」(『改造』一九三七年九月号)のつぎの一節にあきらかである。
「『事変』は何であろうか。それは一事件であるのにとどまるであろうか。すなわち、一つの北清事変、一つの日清戦争、一つの二十一箇条、一つの満州事変、さらには一つの蒙古来にさえも平等に並ぶところの、いわばそれらと一対一の関係に立つところの一事件であろうか。/それとも、それらとは別な、たとえばそれら過去のすべての事件の決算としての一つの事件であろうか。/おそらくは後者である。それは内閣書記官長によつておおやけに一つの『事変』と名づけられたのであるが、それはその性質上過去のすべての『事変』よりも大きく、重く、過去のすべての事件が解決し残した全問題の解決の鍵としての『事変』であるからであろう。」
 プロレタリア詩人としての出発の時期に書かれた「郷土望景詩に現れた憤怒について」(『驢馬』一九二六年一〇月)で、萩原朔太郎の郷土望景詩にあらわされた「近代」にたいする怒りを全面的にすくいあげ、それを社会主義の展望のなかで解決することを(いささか楽観的かつ公式的に)主張した中野重治にとって、希求される「近代」は同時に乗り越えられるべき対象でもあった。それは特殊的には彼の親炙した短歌史のなかから学んだことであり、一般的には学生の彼が愛読しそこから深い影響を受けたマルクスの『ユダヤ人問題を論ず』で展開されている、ブルジョワ的政治的解放の限界と共産主義的人間的解放への展望から学んだことであった。
 このようにみれば、ここで言われている「過去のすべての事件が解決し残した全問題」とは、明治維新以来の近代化の過程で生じた「全問題」であることがわかる。中野重治はやがて「大東亜戦争」へと拡大していく日中戦争を、的確に日本の近代化=文明開化の帰結としてとらえていたということができる。それは「文明開化の論理の終焉」について語る保田輿重郎の主張と一見重なるかのように見えながら、まったくことなった位相に立っている。保田の主張が「明治以来の革新の論理がすべて文明開化の論理であったのに対し、こんどの変革の論理は、文明開化と全然反対の発想をする論理である」(「文明開化の論理の終焉について」、『コギト』一九三九年一月号)というような単純な反近代主義であるのにたいし、中野重治の近代批判ははるかに重層的である。それは「『ブルジョア文学もないうちからそのブルジョア文学を否定するプロレタリア文学が登場し』たことは、中村氏の眼に映つたような『奇観』ではなくして、プロレタリア文学運動の『我国独特の』苦しさなのである。/日本のプロレタリア文学運動(および進歩的な文学運動)が、ブルジョア文学運動のうっちゃらかした封建主義との戦いを、うっちゃらかした当人であるブルジョア文学と同時に戦いながら進めねばならぬ苦しさ(したがつてその重要さ)は、ブルジョア文学の最後の(あるいはいちばん高尚な)砦としてのいわゆる『純文学』とその文学理論との最近の動きについても見て取られる」という彼の中村光夫への反論(「二つの文学の新しい関係」、『教育・国語教育』一九三六年四月号)などに明瞭に読みとることが出来る。

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 以上が、総力戦体制のもとで書かれた中野重治の『斎藤茂吉ノート』を再読し再考するにあたっての、いわばイントロダクションである。
『斎藤茂吉ノート』を戦争中に書かれた抵抗の書として評価するためには、ふたつの方向からの検討が必要である。ひとつは中野重治がこの書を書き上げるという行為そのもののもつ抵抗としての意味、もうひとつはそのようにして書かれた書そのものの内容とその読まれ方の検討である。あたえられた紙数の大半をイントロダクションに消費してしまったので、いくつかの問題にしぼって検討したい。まず第二の側面から見ていく。
 中野重治が『斎藤茂吉ノート』一巻をつうじて明らめようとしたのは、文芸におけるリアリズムということである。彼にとってそれはたんなる理論でもなく、創作の技法でもなく、きわめて主体的な「態度」なのであった。そして中野重治をその探求につきうごかしたものは、プロレタリア文学時代の全経験だといっていいだろう。その意味では、プロレタリア文学運動という「日本の革命運動の伝統」にたいする「革命的批判」(「『文学者について』について」)のモチーフはこの時期にいたってもひそかに貫かれているのである。
『斎藤茂吉ノート』の中心が「ノート五 抽象的思惟行為における抒情」「ノート六 女人にかかわる歌のうち」「ノート七 戦争吟」にあるということについては、衆目の一致するところだろう。これらの三つのノートで中野重治が取り上げたテーマは、リアリズム論の、とくにプロレタリア文学以来のリアリズム論のなかで論じられた思想と芸術表現、芸術認識論、世界観と創作方法というような自分自身もかかわった論争問題を、戦争という状況のなかで「再審」することであった。彼はそこで問題を哲学的思惟と歌との関係に置き換え、斎藤茂吉だけが「抽象的意識生活をも抒情において写すところまで引き上げていた」ことを確認するのである。それは短歌史における近代の実現ということであり、それをほとんど一身に担った人間として茂吉を位置づけるということであった。しかも中野重治はその評価に、自分のプロレタリア文学時代の経験に照らして、「哲学的思惟が歌に託されるのでなく、歌の歌としての追求のなかに思惟が生きられるのである」という主張をならべる。そこには、「詩の仕事の研究」において、政治的主張を詩に託すことで作品の政治性の保証と錯覚したプロレタリア詩にたいし、「声調のつたふる情緒の揺れ」という伊藤左千夫のことばを対置して批判した中野重治がそのまま生きている。
 このような中野重治にとって、斎藤茂吉の評価にはアンビヴァレントがつきまとう。彼は「抽象的思惟行為を抒情詩の対象としたことは彼の輝く業績である」と称揚すると同時に、「彼の抽象的思惟行為の領域は、性存在にかかわるそれによつて総体的に過大な面積を占められてきた。何ものかが彼の抽象的思惟行為を特にこの領域に拘束したかのようである。彼の思考行為が、かかるものとして三十年の間存続しなければならなかつたこと自体が暗鬱である」と指摘する。性存在についての思考を社会の方へと広がりをもって展開させないように「何もの」がそれを拘束したのか。中野重治はこのときそれをあからさまに言う自由をもたない。しかし当時の日本を支配した性にたいする抑圧的経験が民衆のなかに普遍的にある以上、その「何もの」がなんであるのかは、すくなくとも「ノート」の読者には推定可能である。
「抽象的思惟」を抒情詩の対象とするという道を拓いた茂吉にとって、つぎにくる危険はある種の素材主義に他ならなかった。中野重治は「新年号」のための歌を前年の十月に茂吉に注文した『キング』の場合について書いている。「『きよらかな感じを与へるもの。おほいなる感じを与へるもの。つつましい感じを与へるもの。力あふるるようなもの。〔……〕』という内容(?)指定のあるものであつた。茂吉はそれについて『短歌の実用性』ということをいつている。――『童馬山房夜話〔二十一〕』――つまりある人々は、『キング』には成功しなかつた注文を、茂吉の作において、出来合いの形で成功させることができたのである。」そして言う。「私自身は、彼のこの種の歌を、彼のうちの悪作に属するものと考える。そしてそれは、この種の抽象的思惟が抒情詩となつたそのことに原因していると思う。」
 中野重治がどこまで意識的であったか、どこまで見通しをもって「ノート」を進めていたのかは、かならずしも明らかではないが、これらのリアリズム論の根幹にかかわる問題を茂吉に即して再検討・再確認してきたのは、「戦争吟」の評価というもっとも微妙かつ彼にとってもっとも危険なテーマに論を進めるための予備作業だったと言えるのではないだろうか。
 中野重治はまず「ノート六 女人にかかわる歌のうち」で蒋介石夫人の宋美麗を揶揄した茂吉の歌二首を引き完膚無きまでに批判する。中野はこの後、くりかえしこの二首に言及しているのでここで引用しておくと、こういう歌である。「宋美麗夫人よ汝が閨房の手管と国際の大事とを混同するな」「宋美麗ほそき声して放送するを閨房のこゑのごとくに讃ふ」――ごらんのように、その低劣さはそれへの批判をもって反戦とか戦争目的への懐疑とかいうようなでっちあげの余地さえない体のものであったし、杉浦翠子の女性の立場から茂吉の女性観を問う批評に先行されていたために、中野にとってかならずしも困難なものではなかったと思われる。問題は本当の戦争吟である。そこでいままでのリアリズム論のすべてがためされることになる。ということは彼の歌の抵抗がためされることである。
 彼は日中戦争以後の茂吉の歌集『寒雲』『暁紅』にあらわれた戦争吟を、日中戦争開戦直後に応召し、山東省から河北省を転戦し、一九三九年八月に戦死した渡辺直己の歌集『渡辺直己歌集』(一九四〇年三月、呉アララギ会刊)と対比して論じる。中野重治はすでに渡辺の歌集刊行の半年後に「渡辺直己の歌」(『短歌研究』一九四〇年一〇月号)を書いてその歌を論じ、三一歳でのその死を悼んでいた。中野重治はそのなかで渡辺直己の歌を多く引き、それが「自分で直接戦つているものの歌」であることを強調し、「他に抜きたい歌いくつかを割愛してこういう歌を仮りに抜いてみても、作者が昭和十二年、十三年、十四年と戦つてきているということ、作者が歌つくりであるということ、作者が空威張りなどをせぬような人柄の人であるらしいこと、戦闘というものはやはり幾度話に聞いても苦しいものであるということなどがよくわかるように私は思う」と書いている。このような渡辺直己にたいする評価は、「『渡辺直己歌集』について何よりも目立つことの一つは、戦争における戦闘者一般の緊迫感、またそれの渡辺その人に特殊な緊迫感が、その戦地吟のすべてをつらぬいて鳴つていることである」というふうにそのまま「ノート」にひきつがれ、それが茂吉の戦争吟と対比されるのである。余談になるが「鳴っている」という言い方は中野重治にとって最高の評価を意味する。「百合子さんの『播州平野』はいいねえ、りんりん(凛々か―栗原)と鳴っているね」というような彼の声はいまだにわたしの耳に生きている。
 さて、このような「直接戦つているものの歌」にくらべ、茂吉の戦争吟には二種類あると中野は指摘する。わかりやすいように彼が引いた歌のなかからそれぞれひとつだけを引用しておこう。仮に第一類とよべばそれは「弾薬を負ひて走れる老兵がいひがたくきびしき面持せるも」というような作であり、第二類は「あたらしきうづの光はこの時し東亜細亜に差しそめむとす」というがごとき作である。簡単にいえば、前者は具体に即し、後者は観念にながれている。この分類に立って中野重治は言う。
「第二のものは、茂吉のいわゆる『思想的抒情詩』とはいえぬとしても、しかもやはり鴎外の『感境体』の詩に近いものであろう。そしてこの種のものが渡辺にはないのである。渡辺は、『吾が撃ちし弾はまさしく逃ぐる匪の自転車に中りぬ麦畑中に』『壕の中に坐せしめて撃ちし朱占匪は哀願もせず眼をあきしまま』と歌つているように、自身銃をとつて敵をうち仆してもいるが、戦死して『大尉に昇進、正七位に叙せられ』た彼は、卒伍の兵士に比べ、甲乙のないその軍人としての志のなかに、より特殊、より複雑なものを持つていたと見ることができる。しかし彼は、自身の肉体のなかに戦争を持つていた。厖大な支那事変は、彼においては現前の戦闘であり、現前の戦闘は彼の肉体そのものであつた。『保定の灯が見ゆると言ふに兵士らは獣の如く歩みつづくる』――保定を指して進む一歩一歩に全事変が凝縮していたわけである。彼にも感境体の詩があつてわるいわけはない。しかし一歩の足、一発の発射の方がより直接である。また一方彼には、茂吉における宋美麗の歌のような歌の全くないことも、おそらく同じ根拠によるものであろう。そして渡辺における一歩の足、一発の発射を、かりに銃後の茂吉にあて嵌めてみるとすれば、それは感境体風の詩にあるというよりも、『寒雲』までについて見る限り、『おびただしき軍馬上陸のさまを見て私の熱き涙せきあへず』『弾薬を負ひて走れる老兵がいひがたくきびしき面持せるも』などの詩にあるといえよう。これらの作は茂吉の個に即している。しかもそのままに事変にたいする彼の内面の熱情を湛えている。〔……〕たとえて言いかえれば、茂吉が一人の老兵として戦場に立ち、弾薬を背負つて自ら走るとする場合、たしかに彼は『いひがたくきびしき面持』をして走るであろう。その時の茂吉には、二度と再びあの種の宋美麗の歌があるまい。そのときにも感境体の詩はあり得よう。しかしそれはより多く彼の個に即したものであろう。そしてそれは、いつそう茂吉的であることにおいていつそう普遍的な力を持つものであろう。」
 ここでもさきほどの「哲学的思惟が歌に託されるのでなく、歌の歌としての追求のなかに思惟が生きられるのである」という主張はつらぬかれている。しかしその結果が「個に即す」というところに収斂してしまうのはあきらかに問題の矮小化であろう。その結果、ここでの中野の論述には不透明感、あやうい両義性が感じられる。もちろんある歌人が戦闘行為を肯定的に歌ったからといって、それをただちに戦争賛美と批判することはできない。そういう批判は戦後のものである。「戦争吟を、戦争吟であるために否定するのは、民衆の生活を否定することである」という竹内好の主張をわたしは支持する。そのことと、その戦争吟を総力戦にふさわしい戦争吟たらしめることで戦争の性質そのものを変えていこうとするところに「抵抗の契機」が成り立つという主張とのあいだには、さらになお具体的に解明されるべきいくつもの中間項があるはずだ。「総力戦にふさわしい戦争吟」とはどういうものか。たとえばそれは渡辺直己の歌のようなものか。たしかに渡辺の歌は凡百の戦争吟のなかにあってぬきんでているものであろう。しかしそうだとして、それがどうして「抵抗の契機」たりえるのか、わたしには了解しがたい。
 中野重治も総力戦について語っている。「日露戦争における左千夫の戦争吟、茂吉の『戦場の兄』などが今となつては物語り的にさえひびくとすれば、今日の戦争は、部分的には散文的に見えるまでに厖大・複雑となり、したがつて遙かに高い詩的構想・統一を要求しているのである。おそらくこのことによつて、昭和十六年現在の戦争吟の国民的汪溢もあつたのであろう。いくつかの支那事変歌集、遺家族の歌集、歌人たちの戦争歌をも含めて、事変は国民の歌口を国民的規模において開かせたものということができる。茂吉の戦争吟に、左千夫には見られぬ二種類の区別が見られ、そこに感動と観照とのいくぶん不透明な混合が見られるとすれば、それは、このようにして歌口を開かれた国民のうちに、独自的な茂吉がその一人としてあつたこと、事変の近代戦・総力戦としての時間・空間的テンポが茂吉をも追い越したことをしめすものであろう。」
 総力戦は全国民的な経験である。それから逃れることのできる者はいない。それに見合って、短歌もまた全国民的な経験の表現手段になっていった。形式の簡便性とパセティックな感情を表現するのに適したリズムがそのような大衆性を獲得していったのである。「ノート 戦争吟」は、古典的な表現形式である短歌と総力戦の経験との出会いという地点に焦点を当て、戦争の「実相」に迫るための「態度」を論じているのである。それを歌を通じての抵抗の主体形成の模索と言ってもいい。
 しかしそれがほんの手がかりとしてでも成功したかというと、どうもそうはならなかったように思われる。「ノート 戦争吟」において、中野重治はこのテーマを論じきっていない。それがかならずしも成功していない原因は、もちろん論じるテーマ自体の時局的な制約・不自由さというものが大きかったと言えるとしても、それ以上に中野重治の「直接戦っているもの」への過度の思いこみ、一般化して言えば実践信仰の残存ということがあったのではないだろうか。渡辺直己の戦争吟のうちすくなからぬものが彼の出征以前の作であったことが米田利昭(『戦争と歌人』、一九六八年紀伊国屋書店刊、など)によってあきらかにされている今日では、中野の実感主義はおおくの綻びを見せているといわざるをえない。そしてじつはそのことが、「ノート 戦争吟」を両義的なものにしている原因だったと言えないだろうか。「実感」とか「個に即す」というだけでは、戦闘吟を批評はできても、それを乗り越えて戦争の「実相」にまで切り込むことはできないのである。そしてそこまでいったときに、はじめて抵抗としての「戦争吟」を語ることができるだろう。中野重治の「直接戦つているもの」の偏重は、けっきょくのところ戦争吟を戦闘吟に矮小化し、「歌口を国民的規模で開かせた」ところの総力戦の全国民的経験の表現としての戦争吟への道を閉ざしてしまった。戦争を内部から批判し、民衆のヘゲモニーによる戦争からの「解放」を実現できるのは、この全国民的経験の結集とその「変改」いがいにはありえなかったのである。
 「ノート八」以降、中野重治の論究はふたたび茂吉に即して総体としての日本の近代の検討へと回帰していく。それじたい中野重治の日本近代にたいする重層的な認識に立った、当時猖獗をきわめた「近代の超克論」や日本浪曼派の古典論への原則的な批判として読むこともできる。ここにも論じるべき点は多いが、もはや大幅に紙数を超過した。
 中野重治は戦後に再刊された『斎藤茂吉ノート』(『中野重治選集・』一九四八年五月、筑摩書房刊)の「はしがき」に、「これを本にしたときはすでに太平洋戦争がはじまつていた。太平洋戦争は千九百四十一年十二月八日にはじまり、わたしはあくる九日に検挙され、本は四十二年春出ることになつたから、わたしの筆は縮んだ上あやまりをも書くことになつた」と書いている。もちろん彼は十二月九日にもそれ以後「終戦」にいたるまでも検挙されていない。だからこれは単純な事実としては嘘である。しかし彼の内面においては、これは嘘ではない。年譜の一九四二年一月十四日の項には「一本田をたつて東京に帰る。十六日、警視庁第一課宮下係長を訪ねる。保護観察所長、山根保導官、荒巻猛保護司を訪ねる。世田谷署特高主任を訪ねる。以後、一九四五年六月『召集』のときまで、東京警視庁、のち世田谷警察署に出頭、取調を受ける」とあり、その後もしばしば出頭して取調をうけ手記を書くことを強要され、とくに四三年の春から夏にかけては「ほとんど連日のように世田谷署に出頭する」という状態だった。
 筆を折らずに書きつづけることを選んだその一つの終点が『斎藤茂吉ノート』であったとすれば、書きつづけるために「おれはつかまらぬぞ」という決意が払わされた代償がこの状態だった。それは検挙され監房に拘束されるよりも楽だとはかならずしも言えない。しかしそれでも中野重治は『斎藤茂吉ノート』の後も書きつづけるのである。「『暗夜行路』雑談」(一九四三年四月脱稿、大正文学研究会編『志賀直哉研究』、四四年六月刊に収録)、「鴎外目論見のうち」(四三年二月脱稿、戦後発表)、「鴎外と遺言状」(四三年一一月脱稿、『八雲』四四年七月、第三輯)につづき、四五年六月に応召するまで鴎外論を書きつぐ。このうち「『暗夜行路』雑談」はどうみても中野重治でなければ書けないというようなものではない。問題は戦後に『鴎外 その側面』として集成された論考であるが、そのうち戦中に発表された「鴎外と遺言状」は、いま『八雲』第三輯を参看できないので無責任な言い方になるが、戦後に一本にまとめられるにあたって大幅に加筆・訂正がほどこされたものと思われる。
 中野重治がどのような思いで「終戦」をむかえたかは、小説「米配給所は残るか」や「敗戦・無条件降伏意識の曖昧さ」(『わが生涯と文学』)などに残されている。そこで彼は当時をふりかえり、「私の愚かさと萎縮とは私自身から来ていた。四一年一二月八日の検挙以後――直接には四二年二月からの不拘束取調べ期間をとおして、自分の前、自分たちの前方を、かけらほどの材料からもかけらほどでも明確にして行こうとする積極的な気持ちでその日が送れぬ状態へ次第に私が引きこまれていた。世界戦争の行くえ、日本の飛びこんでいつた戦争の推移模様、それを朝に晩に根かぎりよく眺め、それに結びつけて絶えず自分の過去を検べることから気が萎えて逃げていた――単純に過ぎて言つてもならぬとは思うが、そういう状態で私は兵隊から帰つてきていたと思う。」(「敗戦・無条件降伏意識の曖昧さ」)と書いている。
 中野重治は一九四五年九月四日、「終戦」から二十日後に召集を解除され、駐屯地の長野県小県郡東塩田村をあとにする。そのとき宿舎であった東塩田国民学校の校長に、「池の汀に家ありて/児らの柔しき親住めり/あした夕にそを見つつ/兵士のわれは慰みき」という詩を色紙に書き、「昭和二十年九月五日/四日召集を解除せられ敗軍の卒として/東塩田村を去らむとする時」という詞書をつけて贈る。
 中野重治は敗戦を解放だとは思わなかった。まして祖国の敗亡に慟哭したり茫然自失したりしたのでもなかった。彼は戦争の帰趨に一指もふれることができずに天皇の「終戦」を許すことになった自分たちの非力をかみしめたに違いない。敗戦からしばらく、中野重治は暗く不機嫌である。
「敗軍の卒」とはなにか。この言葉に、天皇の「終戦」に直面した中野重治の戦後の出発のすべてがある。(『言語文化』16号、1999.6)