古い体制が崩れるとき歴史家は活気づく。しょせんそれが「後の祭り」でしかなく、その作業が死児の齢を数えることであったにしても、そこから生まれる反省が歴史のなかに書き込まれるのだとすれば、それをたんなる「祭りの後」に終わらせず、死者たちの未来へのメッセージをそこに聞きわけることができるかどうかは、もっぱらわれわれにかかっているのである。
田中真人は『一九三〇年代日本共産党史論』(一九九四年、三一書房刊)のなかで、戦前・戦後に及ぶ日本の共産主義運動史研究の歴史を詳細に回顧した後に、「一九八九年以来の世界史の大変動が、共産主義運動史研究の新しい地平を展開しつつある」と述べ、「共産主義が歴史的分析の対象となる時代の幕が開けている」とその新しい地平の意味を確認している。
田中が指摘しているように、ソ連の崩壊は共産主義運動史の研究にとって決定的な出来事であった。それは事実よりもイデオロギー的な信条や党派性が先行したこの領域に、客観的な研究の条件を生み出した。そしてそのような資料にもとづく客観的な研究を可能にしたのが、ソ連共産党のアルヒーフの公開である。
五年前に、誰がソ連共産党やKGBのアルヒーフの扉が開かれることになると予想しただろうか。多少でも共産主義とその周辺の運動史を調べたことのある者なら、そこには絶対に立ち入ることのできない聖域があること、そしてそこに眠っている資料を検討せずには、真に実証的な歴史研究は不可能であることを、痛感してきたはずである。公式の機関誌・紙類をのぞいて、われわれが利用できる資料のなかでこの闇の領域を窺う手だてとなったものは、そのほとんどが運動からの離脱者が漏らすわずかな情報にすぎなかった。そしてわれわれはその真偽だけでなくその政治的な意図にまで細心の配慮をせずには、その情報を利用することができなかったのである。ゴルバチョフのペレストロイカによって生まれた情報自由化の趨勢に多少の希望を託しながらも、これらのアルヒーフの扉が開かれるのは何世代も先のことだろうと、研究者たちは諦めと虚しさを噛みしめていたのである。
しかしその日は予想に反して突然やってきた。そしてアメリカ合衆国の国会図書館がいちはやく文書館所蔵文書の全コピーを買ったという噂を聞いたり、研究機関が競って買い入れているという話が伝わってき、また一九九二年二月にはドイツのマンハイムで粛清をテーマにした国際シンポジュームが開かれるなどのことがあいついだ。
ところが日本では、まず動いたのは公的機関でも研究者でもなく、テレビや週刊誌のジャーナリストなのであった。パイオニアの役割を果たしたのは、『日本共産党の研究』で立花隆をサポートした小林峻一と加藤昭による『闇の男―野坂参三の百年』(一九九三年、文芸春秋刊)である。『週刊文春』の一九九二年九月三日号から一一月五日号まで連載されたこの記事は、野坂参三がコミンテルンでの同僚である山本懸蔵の粛清にかかわる密告者であった事実を暴露し、野坂から日本共産党名誉議長の地位を奪っただけでなく、ついには党からの除名という劇的な結果をもたらしたことで、いまだに記憶にあたらしい。この連載を契機に日共は調査団をモスクワにおくり、その資料をもとに不破哲三が『日本共産党に対する干渉と内通の記録―ソ連共産党秘密文書から』(一九九三年、『赤旗』連載、新日本出版社刊)を発表した。これは野坂をソ連への内通者として弾劾すると同時に、志賀義雄や神山茂夫らの「日本の声」派をもソ連から資金援助を受けて反党活動をおこなった内通者として暴露したのであった。
これらが基本的には野坂参三を主人公として加害者=野坂、被害者=山本という構図で描かれているのに対し、加藤哲郎の『モスクワで粛清された日本人―30年代共産党と国崎定洞・山本懸蔵の悲劇』(一九九四年、青木書店刊)は、一歩進めて野坂を当時(一九三〇年代)のモスクワ在住日本人共産主義者の集団の中でとらえ、加害者が被害者であり、被害者が同時に加害者でもある密告社会のなかで、この集団が文字どおり粉砕され壊滅していく過程を発掘された資料にもとづき克明に分析している。これは在ソ連日本人共産主義者の粛清史を、秘密文書の発掘と解読により包括的に叙述した最初の研究で、ベルリン在住の左翼日本人グループとドイツ共産党日本語部の活動までを視野に入れた貴重な成果である。
アルヒーフの公開が、まず「粛清」という血生臭い部分にジャーナリスティックな関心を集めることになったのはある意味では当然だったと言える。ましてその中心に日本共産党の現存(当時)の最長老・野坂参三がいるとなれば、話題は週刊誌的に展開するのは当然だった。しかし小林たちの仕事はたんに週刊誌的というところにとどまらなかった。単行本化にあたって大幅に加筆・訂正をされた『闇の男』では、立花隆の『日本共産党の研究』が宮本顕治の「リンチ事件」というセンセーショナルな話題で始まりながら共産党史研究のあたらしい水準を拓いたように、コミンテルンと日本共産党の関係史を学問的に研究するための突破口を開いたのである。『闇の男』なしには加藤の『モスクワで粛清された日本人』という研究はありえなかっただろう。
このことは日本のソ連研究が、結局のところフジ・テレビや文芸春秋のような資金をもつマス・メディアの「おこぼれ」によってかろうじて支えられているという現状を示すだけでなく、親ソにせよ反共にせよ、政治家たちの思想的信条と称されてきたものがいかにご都合主義的なものであり、いかに知的に貧困なものでしかないかを暴露している。いち早く調査団をモスクワに送った日本共産党が唯一の例外だが、彼らが収集した資料は公開されず、もっぱら宮本体制の正統性を宣伝するためにだけ利用されたにすぎない。
当初の研究が粛清に集中したことは、もちろんたんにそれらがジャーナリストによって切り開かれた道の延長上にあったからというだけではない。五十人を越えるだろうと予測される日本人の被粛清者の事績をまず明らかにするということは当然であるだけでなく、運動史の研究にとって不可欠の部分である。しかしアルヒーフの資料が語るものは粛清だけではない。たとえば、コミンテルン=ソ連は「満州事変」以後の日本の情勢をどう見ており、どのような手をうっていたのか。それは果たして「三二年テーゼ」や「日本の共産主義者への手紙」というような表の文献だけで尽きているのか。あるいはゾルゲ・グループの諜報活動にしか依拠する手段もないほどに手詰まり状態だったのか。もしそうだとすればその状態と日本人モスクワ・グループの粛清とのあいだに何かの関連はなかったのか。……というような問題。あるいはもっと遡って、一九三〇年の全協刷新同盟をめぐるプロフィンテルン第五回大会の決議と山本懸蔵の「指導」の問題。刷同のなかには当時から山懸=挑発者説があった。……というような問題。などなど、この資料の山を前にして解き明かさなければならない問題はあまりにも多い。
このような問題状況の中でとくに注目されるのが、国崎定洞との関連でのベルリン在住日本人左翼グループへの加藤の言及である。このグループには国崎をはじめ千田是也、和井田一雄、小林陽之助、喜多村浩、野村平爾、大岩誠らドイツ共産党日本語部のメンバーに、堀江邑一、平野義太郎、三宅鹿之助、三枝博音、服部英太郎、与謝野譲、藤森成吉、勝本清一郎、島崎蓊助、佐野碩、嬉野満洲雄、山田勝次郎など日本人社会科学研究会の文化人グループ、また多くの、いまではアイデンティファイできない人名を含む左翼青年たちがいた。ナチス政権成立後には彼らの中からソ連に逃れた者も少なくなく、その多くは粛清された。「こうしたヨーロッパ経由でモスクワ入りする(ソ連秘密警察や山本にとって)『不審な』日本人・アジア人と国崎定洞(および野坂参三?)とのつながりこそ、この期のモスクワ日本共産党代表山本懸蔵からは、『大物スパイ』活動と疑われ、監視されていた。反ファシズム統一戦線・人民戦線や反戦平和の運動も、コミンテルンと『前衛党』の組織的指導下になければ、安心できなかったのである」と加藤は書いている。
わたしがとくにこのベルリン・グループに関心を持つのは、それが当時の日本の運動にとってほとんど唯一の外への窓であったこと、そしてこの窓の役目を担った日本人留学生にとって、伝統的にフランクフルト大学の社会研究所とは深い関係があったことである。フランクフルト大学は言うまでもなく福本和夫や三木清が留学したところであり、その研究所は後にコミンテルンの福本批判やプロレタリア科学研究所からの三木の除名に至るような、ロシア・マルクス主義とは異なった西欧マルクス主義の発信源であった。政治的には多分にローザ主義の影響を受けていたこの研究所が、ボリシェヴィキー化以後のドイツ共産党の中でどれほどの影響力をもっていたかはわからないが、しかし一九三一年、つまり社会ファシズム論の全盛の時代に、芸術運動のボリシェヴィキー化を主張する蔵原惟人の組織論に対して、勝本清一郎が代表してより幅の広い結集を呼びかける「ベルリンからの緊急討論」を寄せたり(『ナップ』一九三一年一一月号)、プロレタリア科学研究所の科学者同盟への改組に際して寄せられた「科同に対するベルリン支所の意見」(『プロレタリア科学』一九三二年一〇月号)というような文献のバックグラウンドがより明らかになるときもくるに違いない。
ところで現在のところ、モスクワの「秘密文書」をもっとも有効に歴史研究に駆使したのは和田春樹の「歴史としての野坂参三」(『思想』一九九四年三、四、五月号)である。加藤の研究が、平野謙が『「リンチ共産党事件」の思い出』で採用した「事件」を渦中の女性に焦点をあてて「人間の劇」として見るという手法を踏襲した結果、物語性の濃い叙述になって運動の歴史研究としてはやや拡散したうらみを残したが、和田の研究はそのような個人への関心を極力排し、もっともオーソドックスに野坂参三を「歴史」として読み解いた労作である。ここにはもっぱら党派的な利害から野坂を糾弾・排除することに汲々とした『日本共産党の七十年』や週刊誌的な興味で狡猾な悪者に仕立てた暴露ものとはまったく異なった、国際共産主義運動の歴史を体現した歴史としての「野坂参三」が描き出されている。
和田は研究の意図を、「これまで発表された資料を自分が入手した資料と突き合わせて、歴史家としての観点から、問題を歴史の文脈に置き直して再検討してみようと思う。まず三〇年代のモスクワの状況を明らかにしながら、その中で野坂の行動を分析し、ついで四〇年代前半の延安での野坂の活動とそこで生まれた新路線を総括し、それとの関連で四五年のモスクワでのソ連共産党との交渉の過程を分析し、最後に帰国後の日本での活動を五〇年コミンフォルム批判まで跡づけ、その意義を考えてみたい」と書いているが、まさにこの長篇の研究論文は党の壊滅した一五年戦争期から戦後再建期を包括する、日本共産主義運動史のきわめてヴィヴィッドな叙述となっている。モスクワの秘密文書の解禁が生んだ画期的な研究と言ってよい。
歴史としての「野坂参三」は典型的な「国際共産主義者」である。彼にとって日本共産党は国際党の一支部でしかない。この考えは野坂のなかでコミンテルン解散後も変わらなかった。それに彼ら「国際共産主義者」にとってはコミンテルンとソ連は別のものではなかったのである。だから延安からの帰国の途中にモスクワに立ち寄って路線上のアドヴァイスを受け、米軍占領下でのソ連との連絡について取り決めをしたことは、なんら奇異なことではない。また帰国後もその取り決めに忠実にソ連に報告を送っていたことも、驚くべきことではない。もしこれらの行為を日共のように「内通」と称して政治的、倫理的に弾劾するのだったら、それは野坂を個人としてではなくあくまでも国際共産主義運動の歴史の体現者として、その運動の構造自体の批判にまで及ばなければ意味がないのである。党の中にこのような国際主義者(!)がいることは、たしかに我慢のならないことかもしれない。しかしおなじような構造は、一国のなかでも大衆団体と党員との関係としていたるところに存在しているのである。
たしかにパンドラの箱は開いた。そして物語の通りにそのなかからはあらゆる悪や憎しみや不幸や悲嘆が飛び出してわがもの顔にふるまっている。物語によればそれらのものが飛び出した箱の底には、希望と書かれた小さな玉が残っているはずだ。しかしこの箱にはそんなものは残っていない。マルクス主義者エルンスト・ブロッホは言っている。――「洞察的な、真にオーソドックスな幻滅もまた、希望に属している。」
(『月刊フォーラム』1995年2月号)