ベルジャーエフほか著
ゴルバチョフがいなくてもペレストロイカは始まったであろう、コロンブスがいなくてもアメリカ大陸は「発見」されたであろうように。ペレストロイカは人権と民主主義に目覚めた指導者の「良き意志」の産物でもないし、まして「約束の地」への開門でもなかった。それは危機の産物であり、崩壊の合図にほかならなかった。そしてこの危機はソ連七十年の歴史の必然の到達点であったが、しかしこの崩壊の仕方までが必然であったわけではない。この崩壊の仕方にはきわめていかがわしいものがある。
いま、ロシアの一九〇五年革命の直後にあらわれた『道標』と一九一七年一〇月革命の直後につくられた『深き淵から』という二冊の論集を読み終えて、わたしの脳裏に居座ったのは、「始まり」と「終わり」の意識である。『道標』と『深き淵より』は始まりの時期に書かれた警世と予言の書である。そして、終わりの時期に立ってこの七十五年を透徹した目で見なおすことなしには、この「終わり」をあたらしい「始まり」に転化することはできないと信じているわたしたちには、この二冊の論集は特別の意味をもってくる。
「道標派」という言葉は、数年前までソ連ではただ百科事典のなかにいわば死語として存在するだけだった。わたしは五年ほどまえに、ソ連の批判的な知識人に片端から『道標』を知っているかときいたことがあったが、読んだことはおろかその名前を知るものさえ、ただ一人を除いていなかった。なぜわたしがそれほど『道標』にこだわったかというと、ラスプーチン、アスターフィエフ、ベローフというようなわたしの親しい作家たちの言うことが、あまりにも「道標派」そっくりだったからである。「終わり」の時期に『道標』とは関係なく、しかしほぼ同じような主張にこれらの才能ある作家たちがたどりついたということは、ソ連という土壌の底を流れるロシア―「道標派」的に言えはルーシー―の根強さをわたしに痛感させたのである。
レーニンが『道標』を「自由主義的背教の百科全書」と呼んだことは知られている。「『道標』は、ベルジャーエフ、ブルガーコフ、ゲルシェンゾーン、キスチャコーフスキイ、ストルーヴェ、フランク、イズゴーエフの諸氏によって書かれている。有名な議員、有名な背教者、有名な立憲民主党員たちのこれらの名前だけでも、すでにみずから十分多くのことを語っている。『道標』の著者たちは、哲学や、宗教や、政治や、評論や、解放運動全体とロシアの民主主義派の歴史全体との評価の問題についての一大百科全書を、圧縮されたスケッチの形であたえて、一つのまとまった社会的傾向の真の思想的指導者として登場しているのである。」「この自由主義的背教の百科全書は、三つの基本的な主題をふくんでいる。それは(1)ロシア(および国際)民主主義派の世界観全体の思想的基礎との闘争、(2)最近の解放運動の否定と、その運動に汚名をきせること、(3)十月党のブルジョワに対して、古い権力に対して、また一切の古いロシア一般に対して、自分たちの『従僕的な』感情(そして、それに照応する『従僕的な』政策)をあからさまに宣言すること。」(「『道標』について」)
レーニンの立場からすれば『道標』にたいする評価はこのようなもの以外ではありえなかっただろう。なぜなら「道標派」の批判を受け入れることは、ロシア革命についてのレーニンの構想の全体を否定することだったから。だから十月革命は良かったがその後の社会主義建設のやり方が悪かったとか、レーニンは良かったがスターリンが悪かったとかいう立場に立つかぎり、『道標』はいぜんとして「自由主義的背教の百科全書」でしかない。しかし、レーニンと十月革命そのものを疑うことなしには、この「終わり」をあたらしい「始まり」にすることはできないと信じる者にとっては、『道標』はまったく異なった相貌を見せはじめるはずだ。
政治的な次元だけで見れば、レーニンたちがツァーリズムの打倒による「下からの」革命を主張していたのにたいし、「道標派」は「上からの道」、つまり立憲君主制化を主張する自由主義の潮流に属していた。だからそれはしーニンが批判したように単純な「反動」ではなかった。「道標派」もまた改革を主張していたのである。しかしこの絶対主義の解体をめぐる二つの道のたたかいは、じつはつぎのステップをめぐるたたかい
――つまり当面の改革を社会主義革命につなげるか、あるいはそれを阻止するかのたたかいにほかならなかった。だからそれは双方にとって妥協の余地のない対立だったのである。
しかし妥協の余地のない対立であったとしても、レーニンの「道標派」にたいする憎悪はいささか異常である。その原因はおそらく、「道標派」の批判がレーニンたちボリシェヴイズムのアキレス腱を的確に突いていたという点にもとめられよう。
一九〇五年の革命の敗北から三年の後に論集『道標』がつくられたモチーフについて、『深き淵より』に収められた「ロシア・インテリゲンツィアの道と課題」と題する論文のなかで、ノヴゴローツェフはつぎのように書いている。――「私はロシア社会で『道標』がどのような一斉の非難の声で迎えられたかを述べた。これは『道標』の寄稿者たちが、ロシア・インテリゲンツィアの社会主義的・無政府主義的・ナロードニキ的信念と全く緑を切った原理を抱いていたことによって説明される。これらの信念を実現しようという一九〇五年の試みは上からの国家の行動によって中断せしめられた。ユートピア的幻想を抱いていた者は、彼らが目指したものは本質的には正しく、ただ権力の外的な暴力によって実現しなかっただけだとの確信をもったまま、舞台を退いた。ロシア社会の圧倒的大多数は、この見解にくみした。ユートピア主義という毒の種からはよい芽は出て来ないこと、これは破滅と死をもたらすだけであるということに、当時すでに気づいていたのは『道標』の寄稿者を含むごく僅かの人々だけであった。」
これが『道標』において、ナロードニキとマルクス主義者を一括して「ロシア・インテリゲンツィア」と呼び、かれらに導かれる革命の危険性を多角的に検討することになった時代的なモチーフである。そしてこの危機感をもたらしたのは、神を否定し、法意識を欠いたこれら革命の指導者たちの行為は、それらの代わりに何によって歯止めがかけられるのかという危惧であり、かれらの倫理とはいかなるものかという問いである。この間いは、やがて権力を手中にした「ロシア・インテリゲンツィア」の側から、つぎのように昂然と答えられる。――「われわれの倫理は全的にプロレタリアートの階級闘争の利益に従属している」(レーニン)、あるいは「要約すれば、プロレタリアートの独裁は、法律によって制限されず、暴力に立脚し、かつ勤労者および被搾取大衆の同情と支持とを得ているところの、ブルジョワジーにたいするプロレタリアートの支配である」(スターリン)。そしてその結果をわれわれはいま、目前にしている。「ポリシェヴィキは自らの実験を行い、われわれに神なき、宗教なき、正教なき人間を示した。彼らはドストエーフスキイが『もし神が存在しないとすれば、すべてが許されている』と述べたような状況のなかでの人間の姿を示した」(『深き淵より』)というわけだ。
「道標派」によるロシア社会主義の病状診断と警告は、この人間学的なレヴェルにおいて、今日なお傾聴にあたいし検討にあたいする。それはかれらの思想形成にとって多くを負っているチャダーエフ、ソロヴィヨフ、ホミャコーフ、そして誰よりもまずドストエーフスキイの思想が、今日ますます注目されるのとおなじ理由からである。
しかし「道標派」の病状診断が多くの点で正鵠を射ていたとしても、その処方箋までが正しかったと言うわけではない。かれらはニュアンスの違いをふくみながらも、神と民族への回帰、古いルーシへの回帰で共通した。それは社会主義を「西欧派」と決めつけたうえでのほとんど純粋「スラブ派」への回帰でしかなかった。そのロシア正教への思い入れの深さは、ニーチェから深い影響を受けたベルジャーエフにしてさえ、なお前ニーチェ的であった。十字軍の事蹟をふりかえるまでもなく、人間は神の名においてもまたすべては許されるという錯覚にとらわれるのである。であるとすれば、「道標派」の神もまた一つの幻想でしかないのではないか。ニーチェ以後というのはそのような意味で神なき時代なのだ。その時代にわれわれはどのような変革の倫理とあたらしい社会的規範を形成できるのか、それが「終わり」の時にいるわれわれに向かって「道標派」が問いかけている問いなのである。
「道標派」が主張したことは人間が変わらなければ社会は変わらないということであった。その立場からかれらは社会が人間をつくるという唯物論に敵対した。しかしこの時期、マルクス主義のなかでも人間への追究は従来の「唯物論」から踏みだしはじめていたのである。ロシアだけをとってみても、ボグダーノフの経験批判論は人間にとっての経験と感覚の意味を通して「主体」に迫ろうとしていた。そのボグダーノフはルナチャルスキーやゴーリキーを糾合して「創神主義」を主張し、社会主義にとって「超越者」とはなにかと問題を投げかけていた。その地点では、かれらは「道標派」の問題意識と通底するものをもっていたのである。だからレーニンは『唯物論と経験批判論』を書いてかれらを爆撃しなければならなかったわけだが、この爆撃によってマルクス主義は「現代」から乖離しはじめ、一九三〇年代にミーチンらによって『唯物論と経験批判論』のテーゼが哲学のレーニン的段階として聖典化されたとき、マルクス主義は現代のプロプレマティックから決定的に無縁の存在になったのである。
(『道標』、『深き淵より』、ともに現代企画室刊)
(『情況』1992年7/8月号)