《本書の目的はまさしく、どれほどたくさんのドナルド・ダックが、チリの社会階層すべてのなかでいまだに生きつづけているかを検討することにある。ドナルドが陽気な顔をして無邪気にチリの街頭を歩きまわっているかぎり、彼が権力を象徴し、私たちの集合表象でありつづけるかぎり、帝国主義とブルジョアジーは、安らかにまどろむことができる》と著者たちが書いているように、この本は一九七〇年のアジェンデ政権の成立によるチリの社会主義革命の過程で、一九七一年に文化闘争の緊急の必要にこたえて書かれた。
そして一九七三年、ピノチェットの反革命クーデ夕によって革命の短命な第一幕が閉じられた後も、本書は、ポスト工業化社会における大衆文化のイデオロギー的分析の範例として、また、新植民地主義の文化侵略にたいする第三世界からの根底的は反撃の書として、今日まで世界中で読みつがれ、すでに古典と呼ばれるにふさわしい評価をあたえられているものである。
多くの人びとに愛され親しまれているディズニー漫画のキャラクターたちが、なぜ帝国主義的文化侵略の尖兵なのか。彼らはなぜ人びとを魅惑するのか。彼らが語りかける”夢”は、いったい何なのか。――著者たちは、従来の大衆文化批判かそこで立ちどまってしまった地点、すなわち、「米国式生活様式のプロパガンダ」というような表層の政治的批判をはるかにこえて、作品そのもののなかに深く立ち入り、その世界がどのような構造をなしており、それはどのような思想によって支えられているかを、詳細に分析する。
そして《真の脅威は、彼(ディズニー)が米国的な生活様式のスポークスマンであることにではなく、彼が米国的は生活の夢を代表していることにある》と結論する。なぜならその夢は、低開発諸国は米国の救済のためにのみ存在し、中心と周縁の関係、つまり低開発とそれにもとずく不等価交換こそ、世界のもっとも望ましい姿であると告げているからである。
米国ブルジョワジーにとってもっとも望ましい世界とは、階級闘争が消滅し、第三世界には無知でお人好しで反抗など夢にも考えないような「原住民」が住んでいる世界である。だからディズニーの世界には、〈生産〉は一切存在しない。モノは自然が自然に生み出すので、人間はただそれを手に入れるだけだ。富は地中に埋められており、幸運な者がそれを発見して金持ちになる。この世界には善人と悪人しかいない。そしてその悪人とは、私有財産制を侵すもの、既得の特権をあやうくするもの、総じてこの世界にやっかいごとを持ち込むもののことである。
しかしこの世界にも公害があり、交通渋滞や都市化にともなうさまざまな問題がある。だから住人たちは田園での余暇を唯一の生きがいとする。ディズニーの世界とは、この田園ですごされる余暇の世界にほかならない。そして田園とは第三世界であり、余暇とは情報社会化によって、ますます直接的生産過程を見えにくくされたポスト工業社会の住人の消費という名の労働にほかならない。彼らは第三世界で善良な野蛮人と出会い、彼らのもっている財宝を、安ものの金ピカ製品と引きかえにまきあげる。もちろんその行為はなんらやましいものではない。なぜなら波らは善良な野蛮人たちを〈お金の強力〉から護ってやったのだから。……《ドナルド・ダックを権力につかせることは、低発発を促進することであり、第三世界の人びとの日々の苦悩を、ブルジョア的自由のユートピアのなかで、永遠の享受対象にすることである》。
この本が提示しているもう一つの大きな問題は、《本当に批判的な作業はすべて、現実の分析であると同時に、作業結果の伝え方についての自己批判をふくむものである》という著者たちの言葉に端的に示されているように、著者たちの国営出版社キマントゥにおける人民的コミュニケーションの形成をめぐる経験がふまえられていることである。
今日では、チリ革命のなかに、いわば上からの道と下からの道とでも呼べるようは二つの志向性が、からみ合い時に対立していたことは、ほば明らかになっており、とくに文化の領域でのその具体的な姿は、本書の著者の一人であるアルマン・マトゥラールの「マスメディア・イデオロギー・革命運副」」(『新日本文学』八月号に里見実による紹介がある)で明らかにされているが、著者たちの問題意識が、一定の見解を大衆に一方的に伝達し啓蒙することではなく、発見の過程を共同作業(対話)化しつつ、革命の真の課題として相互主体的な関係の創出にあることは明らかである。
私に本書をロをきわめて推奨したのは、三年前にアジフ・アフリカ・ラテンアメリカ文化会議に出席のために来日した漫画家のリウスだった。そして今年一一月に開かれる第二回AALA文化会議には、本貴の薯者であるドルフマンが参加する。偶然とはいえ、時宜を得たこの訳書の出版をよろこびたい。(晶文社刊)
(『日本読書新聞』1984年10月15日号)