9・11の出来事について池田浩士は「聖戦によって殺されたすべての人びとに」(『インパクション』二〇〇一年一〇月号)という文章を書いている。「いまこそアメリカ帝国主義の破滅の始まり、地獄の一丁目!」という短いフレーズを百三十三回くり返した後に、「いまこそアメリカ帝国主義とその従僕たちの破滅の始まり、地獄の一丁目!」と三回くりかえし、「明日こそはアメリカ帝国主義とその従僕たちの破滅の進行、地獄の二丁目! 明日こそはアメリカ帝国主義とその従僕たちの破滅の進行、地獄の二丁目! この歩みを阻止するのではなく退路を断つのが私たちの仕事だ」という呼びかけで閉じられた三段組三頁の文章は、挑発者・池田浩士の思惑どおり、われわれの仲間のなかでも多少の物議をかもしたようだ。わたしに解説を要求した者、「池田さんはテロを支持しているんですか」と問いかけた者……。
もちろんわたしは池田センセイのように高邁な思想家ではないから、この単純な文章の奥にどんな崇高な思想が鎮座しているかなどと解説する資格はまったくない。ただわたしのように単純なアタマの人間が言えるのは、単純な文章はその単純さにおいて読み理解すればいい、ということだ。池田浩士が言っていることは9・11の出来事によってアメリカ帝国主義とその従僕たちの破滅が始まったという、まことに当を得た認識にほかならない。そんなことは福田和也でさえ言っている。(「『覇権国アメリカ』その終焉の始まり」、『正論』二〇〇一年一一月号) それを池田浩士がいささか挑発的に表現したのは、その認識を他からあたえられた言葉としてすんなりと受け取るのではなく、反撥・疑問・格闘をとおして読者自身が発見するようにと挑発したのである。さすがに教育者である。
ではテロはどうか。アメリカ帝国主義を消滅させることなしにテロをなくすことができるという考えはほとんど空想にひとしい。テロはアメリカ帝国主義のドッペルゲンガーだということぐらい、わたしのような怪奇・幻想小説好きでなくても、ちょっと想像力をはたらかせればすぐに分かることではないか。ここでも池田センセイは、「テロにも報復戦争にも反対」というまことにもっともなスローガンにとどまって、9・11以後の世界がどこへ向かっているのかという探究を放棄してはならないと教えているのである。
しかし、とは言っても、池田浩士の想像力はいささかショート・レンジにとどまっているというのが、わたしの不満である。地獄に堕ちるのはアメリカ帝国主義とその従僕たちだけなのか。わたしたちはどうなのか。わたしたちは彼らの地獄堕ちに手を貸し、水に落ちた犬を打つように蹴落とせばいいのか。どうもそれは甘すぎるようにわたしは思う。かれらが強大だからではない。わたしたちもじつは地獄に堕ちるのだ(堕ちたのだ)という思いを否定しきれないからである。もちろんこれは倫理的な意味で言っているのではない。わたしの地獄堕ちの予感はもっと他の所から来ている。それをわかってもらうには、わたしと例の世界貿易センターのツイン・タワーとの出会いから語らなければならない。
わたしがはじめてニューヨークに行ったのは一九七三年のことだった。それまでつねに拒否されてきた米国の入国ヴィザが、ものは試しとパリの米国領事館で申請したところすんなりと出たのである。「米帝」のメトロポリスを徹底的に見てこようというのが旅の目的だった。五〇年代反米闘争と六〇年代ベトナム反戦闘争の総決算としての旅と自分では位置づけたが、なんのことはない田舎者の観光旅行とかわりはなかった。そして観光旅行である以上、その年に完成したばかりのツイン・タワーは、もちろん最大のスポットだったのである。エンパイアステートビルには、禁酒法とギャングとジャズの一九三〇年代という、わたしの秘められた嗜好にうったえるなにかがあったが、ツイン・タワーにはそんなものはなにもなかった。下から見上げるツイン・タワーのショットは、9・11の夜のテレビでいやと言うほどくりかえし見ることになったが、事件がおこっていない平常のタワーは、ただノペっとした馬鹿でかく馬鹿高い白い壁のようなものだった。こんなものの下で、住民はどんな気持ちで生きているのだろう、オレだったら一日もいやだね、とわたしは思った。
数日後にわたしは対岸のブルックリンへ足をのばした。あらためて言う必要もないことだが、ニューヨークの中心部分はマンハッタン島にあり、世界貿易センターはその突端にある。その対岸のブルックリン側からわたしはあらためてツイン・タワーを見ることになったのである。ところが、そこから見るそれは文句なく美しかった。わたしは金縛りにあったようにそれを眺めた。その後、WTCが完成するにつれて、ツイン・タワーの周辺には見るも無惨な高層ビルが林立してこの景観は失われたが、その頃はまだツイン・タワーだけがひとり立つという感じだった。それを見るわたしのなかに「頂点」という言葉が自然に浮かんできた。それからしばらくのあいだ、わたしはこの「頂点」という言葉を反芻しその意味を考えることになる。
ニューヨークは古い街である。一九世紀末から二〇世紀初頭にかけての建築がたくさんある。むしろそのような建物が街の骨格を構成していると言っていいのかもしれない。だから街なかを歩くとアールヌーヴォー風やアールデコ風の装飾がけっこう目につく。ところがツイン・タワーは、いっさいの装飾をそぎ落とし、建造物そのものという感じで屹立しているのである。しかもまったく同じもののツインとして。それはモダニズム様式の極限のようにわたしには思えた。「頂点」である。なぜそれが「頂点」かといえば、もうその先はないからだ。しかもそれは「ツイン」だ。お互いがお互いを映し出すような関係での「ツイン」である。そこには他者はもはや存在しない。高さの競い合いなどもはやなんの関心もひかない。……
いかに自分の体験を語るのだと言っても、建築について無知な人間があまり長広舌を弄しては顰蹙を買うからやめるが、わたしがこんな思い出話をはじめたのは、9・11の夜にブルックリン側から映された映像――くりかえし、くりかえし放映された、厚い煙におおわれたマンハッタン島の、もはやツイン・タワーの影もない映像が、どれほどの衝撃をわたしにあたえたかを知ってもらいたいからである。わたしにとってツイン・タワーは、近代そのものの象徴であった。それをわたしは美しいと感じた。それはわたしのなかのモダニズムを徹底的に照らし出した。しかしここで、そうだ、どうせオレはモダニストだよ、と居直らなかったところが、まあ、許されるといえば許されるところかもしれない。わたしがそこに幻視したのは、ツイン・タワーの崩落でも、アメリカ帝国主義の瓦解でもなく、わたしがいま生きているこの世界の崩壊であった。コロンブス以後の近代世界の崩壊である。わたしは一四八四年、セビリヤ生まれの修道士ラス・カサスの『インディアス破壊を弾劾する簡略なる陳述』(現代企画室刊)にしばし読みふけった。終りの時期に生きているわたしたちは、なによりもその始めを知らなければならない。
世界は地獄となった。そこに住むわれわれすべての地獄めぐりがはじまるのである。
我を通りて嘆きの街へ
我を通りて永遠〔2字ルビ→とわ〕の罰
我を過ぎれば罪多き、地獄の民の集う街
何も我より先に無く
何も我より後に無く
一切の希望を捨てよ
我が門を過ぎる者 (ダンテ『神曲』)
ダンテにはヴィルギリウスという先導者がいたが、二一世紀の地獄めぐりにはそのような先導者はいない。前衛はとうに失格を暴露してしまったのだ。われわれはただ、いたずらに希望ももたず、またいたずらに絶望もせず、自分たちの目と自分たちの足に頼るほかないのだ。いや、ただひとつ、ダンテになくわれわれにある大きな援軍があった。それは歴史である。われわれの経験と言ってもいいかもしれない。あるいはわれわれの死者たち。失敗の、あるいは敗北の、つまり「地獄の民」である。
さて、えんえんと遠回りをしてわたしはやっとこの小論の主題である池田浩士編・訳「ドイツ・ナチズム文学集成」について論じる地点にたどりついた。あらためて言う必要もないだろう。この「集成」は、現にこれからはじまるわれわれの〔→5字傍点〕地獄めぐりに欠くことのできない経験の一部分なのである。それは地獄において、人はどのような錯誤を犯すかという体験的な報告である。池田浩士はこの「集成」の「刊行にあたって」つぎのように書いている。
「ナチズムと、ひいてはまたファシズム総体と真に対決するためには、それが誤りであったという確認のいわば手前まで引き返し、事後の結論以前の生きた現場で、その現時点での人びとの感性や心性を追体験することが、不可欠だろう。いったいナチズムの何が人びとの心情をとらえたのかを探ることが、必要だろう。この作業のための重要な手がかりを与えてくれるのが、いわばナチズムのメガフォンでありまた琴線でもあった文学表現である。現在の目から見れば否定的にしか受け取られないような信念や価値観や感情が、そこには息づいているかもしれない。いわゆる芸術的水準が劣ると見なされる表現も、少なくないかもしれない。しかし、それら文学表現のなかにあるのは、まさしくファシズムの現場であり、その現場に生きた人間の姿である。そして、これを直視することなしには、ファシズムにたいする現実的な批判も、ナチズムを真に過去たらしめる方途も、見出しがたいのではあるまいか。」
歴史をただの断罪の対象に終わらせてはならない。それがどのように極悪非道なものであれ、人の経験に有罪を宣告するだけで弊履の如く捨て去ってはならない。あまりにくりかえしたので気がひけるが、あえてもう一度言えば、「なぜ」と問いつづけなければならないのである。
池田浩士は第一回配本『ドイツの運命』の「解説」のなかで、「ナチズムという歴史的なテーマと向きあうとき、それが主観的には革命を目指す社会運動だったという事実を、看過することはできない。そして、この革命というのが、破壊と殺戮と抑圧支配との代名詞などでは決してなく、抑圧からの解放と豊かさの実現を、新しい秩序と新しい倫理との建設を、目標として掲げるものだったことを、まず直視する必要があるだろう。そしてまた、この運動の担い手たちの姿を、もっぱら嗜虐的な人格破綻者や殺人狂やゴロツキや暴漢たちとしてのみ思い描くとすれば、それは実像とはほど遠いと言うべきだろう。権力の座にあった十二年半のあいだにかれらが行なった所行のおぞましさを、あらかじめ多くの有権者が予測しえたわけではまったくなかった。それどころかむしろ、ヒトラーとその運動は、ヴァイマル共和国末期のナチ党のポスターのキャッチフレーズ、「われらの最後の希望、ヒトラー」という文句そのままに、あらゆる幻滅と政治不信のあとの唯一の希望とさえ考えられたのだった」と言っている。
この指摘の正当さは、この巻に収められたヨーゼフ・ゲッベルスの『ミヒャエル――日記が語るあるドイツ的運命』とハンス・ハインツ・エーヴェルスの『ホルスト・ヴェッセル――あるドイツ的運命』の二篇の長篇をみれば即座に納得できる。
ナチス政権の宣伝相として、あの時代を生きた世代の日本人にもなお鮮明にその名を記憶されているゲッベルスが、ヒトラー政権成立以前の一九二八年に発表したのが『ミヒャエル』である。虚構の書き手として、若くして炭鉱事故で死んだゲッベルスの親友リヒャルト・フリスゲスをおもわせるミヒャエルを創造し、それにゲッベルス自身の思想と生活を重ねてつくられたこの日記体小説は、作者がそのときナチ党宣伝局長という地位にあったにもかかわらず、ナチ党の公式的な宣伝はほとんど見られない。池田浩士の緻密な考証によれば、この日記のはじまる五月二日とは一九一九年であり、日記はそれから足かけ三年のドイツを舞台にしているのである。作者は「現在」の思想的な到達点からではなく、敗戦直後の混沌のなかで理想をもとめ、ほとんどドイツ浪漫派の心情と呼べるような憧憬に身を焼く青年の彷徨を、その内面から描いたのである。
浪漫派的心情という点では、幻想作家エーヴェルスの描くホルスト・ヴェッセルの像も共通している。「ミヒャエル」の時代から十年後、ナチ党は組織的にも拡大し、その突撃隊(SA)と共産党の赤色戦線との街頭闘争の時代にはいっている。ゲッベルスはすでにヴェッセルの深く崇拝する指導者である。ホルスト・ヴェッセルもまた、あの時代を生きた世代の日本人にとって、いまなおどこかにその残響をとどめている「ホルスト・ヴェッセル」あの「旗を高く掲げよ」の作詞作曲者である。彼もまた理想・義務・献身という観念に憑かれた彷徨する青年だった。彼が赤色戦線の襲撃をうけて死んだとき、ゲッベルスは「まるでドストエーフスキーの小説のようだ。白痴、労働者たち、娼婦、ブルジョワ家庭、絶えまない良心の苦しみ、絶えまない苦悩。これがこの二十二歳の理想主義的な夢想家の生涯だ」、「第三帝国のための新たな殉教者。二つの世界の間をさすらう旅人」と日記に書いた。
作品評をするのがこの小論の目的ではないので深入りはさけるが、この二篇の小説は、ナチス揺籃期に誠実に生きようとした青年たちが、どのような心情をもってナチスに吸引されていったかを如実に描きだしているのだ。彼らの危機意識を義務と献身という行動の倫理にまで誘導したものは、何だったのだろうか。彼らは反動ではない。社会主義者なのだ。その社会主義についてミヒャエルは、「社会主義者であること、それは、私をお前に従属させること、個人を全体の犠牲にすることである。社会主義は、もっとも深い意味においては奉仕なのだ。個々人にとっての断念、全体のための要求なのだ」とその日記の一節に書く。しかしこのような倫理的な社会主義は彼らに特有のものではなかった。その源流はロシアのナロードニキであり、ロシアの初期ボリシェヴィキに共通した心情でもあった。シャボワロフの『マルクス主義への道』やピアトニツキーの『革命の陣頭に起ちて』などにわれわれはその活きいきとした形象をみることができる。だから彼らと共産主義者とを分かつ分岐点は、ここにはない。分岐点はミヒャエルの言う奉仕すべき対象としての「全体」にあった。彼らにとって「全体」とは国家であり民族なのだった。国家と民族を超えた国際プロレタリアートの解放という理念において、たとえ反資本主義とブルジョワ的世界の否定という点で共通していたにせよ、この二つの潮流はするどく対立したのである。
ミヒャエルの日記にはミュンヒェン大学の哲学科に留学しているイヴァン・ヴィエヌロフスキーというロシア人が登場する。ミヒャエルは彼が貸したドストエーフスキーの『白痴』に魂をゆさぶられる体験をする。彼ら二人の交友と討論はゲルマン的なものとスラブ的なものの対立とともに、ロシア的社会主義とドイツ的社会主義との対立としてくりかえし日記のなかにあらわれる。やがてイヴァンは「あなたの世界とぼくの世界は、もう一度、究極の存在形式をめぐって闘わなければなりません。はたして綜合〔2字ルビ→ジンテーゼ〕は見つかるでしょうか? ぼくはそれを希望しますが、ほとんど信じてはいません」と手紙に書いてロシアに帰り、腐敗した官僚とたたかう秘密組織を結成して革命のなかの革命を意図するが暗殺される。――日記のなかのこのエピソードは、第一次大戦直後の、つまりロシア革命の成功とドイツ革命の失敗の直後の、青年の内面における共通するものと対立するものを、あざやかに描き出している。
しかし『ホルスト・ヴェッセル』の時代になると、もはやそのような友情も討論も彼らの間には存在しえなくなっている。一国社会主義以後の共産主義もまた、その国際主義から社会主義国家防衛に転じ、相似形をなすナチスのライヴァルになってしまう。彼らもまた献身の対象として「党」という「全体」を浮上させるとともに「唯一の指導者」としてスターリンをいただくことになった。その相似形はほとんど言葉を失うほどだ。だから、そもそもは第一次世界大戦という大量死の時代の始まりを告げる出来事に震撼された人びとが、そのような時代にまで到った近代を地獄と感じ、その地獄からの脱出に望みを託した二つの運動――共産主義とファシズムの全経験を、われわれはわれわれの地獄めぐりの糧としなければならないのである。それは、地獄にはどのような陥穽があるかをしめすだけでなく、人びとはその陥穽にどのようにして呑みこまれるかを示唆深く語っているのだ。
政治的な理念や思想や理論というかたちで表現されたものだけでなく、それをささえた人びとの内面や感性に、あらためて照明があてられなければならない。そういう意味でも、この時代の文学的表現の数々は汲みつくせぬ宝庫である。そして相似形をなすもう一つの極であるボリシェヴィズムの運動についても、同時並行の比較史的な研究がなされることが不可欠である。そのとき、当時はプロレタリア文学と呼ばれたボリシェヴィズム文学の再評価はその重要な一部になるだろう。
池田浩士のファシズム文学の研究が、他のファシズム研究と根本的にことなり、現在のわれわれの地獄めぐりに不可欠の糧となりうるのは、それがもうひとつの極としての共産主義的革命運動の思想と実践を、明示的にであれ暗示的にであれ、つねに参照しているからである。一方に「旗を高く掲げよ」〔7字ルビ→ディ・ファーネ・ホッホ〕(ホルスト・ヴェッセル)がひびけば、他方は「高く立て赤旗を」(赤旗の歌)と応じ、旗はベルリンに、モスクワに林立し、そして今日も旗はニューヨークを埋め尽くしている。「旗を立てよ」〔5字ルビ→ショウ・ザ・フラッグ〕と言われれば汲々として派兵するこの国も例外ではない。地獄は旗におおわれているのだ。
池田浩士は彼のファシズム文学研究の最初の成果である『ファシズムと文学――ヒトラーを支えた作家たち』(一九七八年、白水社刊)のなかで、つぎのように言っている。
「新しいファシズムを、われわれもまた、見誤るのかもしれない。あるいは、すでに見誤っているのかもしれない。そのいま、過去のドイツの文学現象を、しかも限られた視点から見なおすことが、この誤りに歯止めをかける一助になりうるなどとは、およそ望むべくもないかもしれない。だが、矛盾が深ければ深いほど、対立が激しければ激しいほど、現実はさまざまな反対派を生む。ナチズムもまた、それらの反対派のひとつであったことは、いまさら言うまでもない。われわれにとっての問題は、いかなる反対〔2字→傍点〕をわれわれのものにしていくか、ということにある。〔……〕現実にたいする反対〔2字→傍点〕がどのようなかたちでなされ、どのようにヒトラーを支える基盤と行動とに変質していったか――これを見なおすことは、われわれの《いま》とわれわれの《反対》とにとって、無縁な作業ではないだろう。いずれにせよ、反対派がつねに敗北を喫し、つねに体制に順応していった歴史を、ただ単に《ドイツ的みじめさ》として片づけているわけには、もはやいかないのだ。」
わたしたちは池田浩士の解説や論に学ぶだけではなく、彼がこれからも続々と送りだしてくれる作品そのものを読むことをとおして、自分自身で「なぜ」を発見しなければならない。なぜなら人びとの人生が多様であり、その人生はひとつの「全体」をなしているように、小説もそのような人生を創り出すからである。わたしたちはそれを読むことによって、あの地獄を生きた先人たちの人生を批判的に追体験することができる。そのときはじめてわたしたちは、わたしたち自身の地獄めぐりのためのたしかな目と足を獲得することになるだろう。
(『運動〈経験〉』4号、2002年冬号)