エルンスト・プロッホは『この時代の遺産』(池田浩士訳、三一書房刊)の序言のなかで、「革命に対抗するために窮乏化しつつある市民にさしだされているもろもろの方策を理解し、それにうちかとうとするなら、ひとは――市民の国へ乗り込んで行かねばならぬ。あるいはむしろ、市民の船に乗り込んで行かねばならぬ」と言っている。そしてこの真の戦場でのたたかいでその場を「占拠」し、勝利しなければならぬ。その勝利における「戦利品とは、不安におちいった人間たちであり、しばしば両義的な、いやそれどころか、両義的であるがゆえにのみ『反資本上義的』瞞着に奉仕しうる革命的な素材である」。
池田浩土はこの「この時代」のもっとも示唆に富む本を精緻な日本語にしてわれわれに贈ってくれただけではない。彼自身が『大衆小説の世界と反世界』(現代書館刊)から現在進行中の『〔海外進出文学〕論・序説』(『インバクション』連載中)にいたる転戦のなかでもっともプロッホ的な戦闘をつづけてきたのである。本書は「市民の船」という戦場での戦闘の記録――ではなく、戦闘そのものであり、そこを占拠する試みである。
いま自分が生きている「現実」は、なぜこのようなものでしかありえなかったのかり? いまとは違う「現実」もまたありえたのではないか?
という疑問あるいは感慨は、なにも高尚な哲学的反省の結果からだけ生まれるわけではない。あらゆる庶民の嘆きのなかにながれる底音が、じつはこの間いかけをふくんでいる。池田浩土は言っている。――「いまある現実だけがありうる現実ではない、という思いこそは、あらゆる小さな試みの出発点であり、基点でもある。大衆的な文学表現に描かれた夢も、歴史をとらえなおそうとするこだわりも、この思いによって裏打ちされている。この思いにとっては、こうしてあえて試みられる表現が虚構なのではなく、いまある現実のほうがひとつの虚構にすぎない。」
「もう一つの現実」あるいは「いまとは違う現実」をもとめる精神のはたらきは、さしあたってはユートピアとしてあらわれる。 池田浩士は中里介山の
『大菩薩峠』をお銀様と駒井甚三郎を主人公とする雄大なユートピア小説として読みとき、その挫折のもつ意味を日中戦争から「大東亜戦争」へとつながる時代背景のなかで解明する。それは庶民の夢が「大東亜共栄圏」という疑似ユートピアに簒奪されろ過程でもあった。およそ現時点では実現すべくもない夢を描くことこそか、大衆文化と呼ばれる表現行為のもっとも基本的な特質だと指摘して池田浩士はつづける。「大衆文学を含む大衆文化は、現実生活のなかでの逸脱の実行を空想の世界のなかへと導き入れて破局を回避し、それと同時に逸脱による解放を美化し理想化した。だが、逸脱の夢そのものは、つねに、両義的であり多義的なのである。」
真の戦場である「市民の船」とは、この逸脱の夢がさまざまな表現を獲得して息づく両義性の場なのである。この本に収められた諸論考において、池田浩士がとりあげている深沢七郎(「権力を笑う表現の困難について・『風流夢譚』三十周年に」)、田村秦次郎(「『春婦伝』を読む・いま、従軍慰安婦「問題」とは?」)、江戸川乱歩と泉鏡花(「幻想としての日常・大衆文学史の一断面から」)、そしてマルクス(「ファシズムの先駆者、マルクス・没後百年によせて」)、アルノルト・ブロンネン(「表現主義とあとに来るもの」)、ハンス・グリム(「帰属意識の文学」)、オットー・ディックス(「オットー・ディックスとその時代」)などが、いずれもこの両義性の場を生きた表現者たちであることは言うまでもない。
両義性の場にはひとのこころをかき立て蠱惑する魔力が息づいている。それを池田浩士はかれにとっての一つの「専門領域」である表現主義の歴史のなかで具体的に検討する。そこでのかれの問題意識はかつてかれが先駆的に紹介した一九三五年前後の「表現主義論争」をはっきりと越えている。かれは表現主義のなかに、後にファシズムによって体現されるような契機がはらまれていたことを少しも否定しない。それは表現主義のなかに真に人間の解放につながるはずの理念や言葉やイメージの疑いもない発見があったのとまったく同じように、否定できないことだと言いこうつづける。「問題は、では、なぜその表現主義のうち、ファシズムへとつながる要因が、さしあたり(そしていま尚)、ドイツで(そして世界中のいたるところで)、現実の力として世界と人間とをとらえたのか?――
ということだったのだが、これは問われぬままだった。 そして、いまなお、表現主義にたいする問いのうちでももっとも大きなもののひとつであるこの間いは、最終的な答を与えられていないどころか、充分に問われてさえいないのである。」
表現の問題としてみれば、思想的内容と表現形式を区別し弁別することなどできないという原理をとことんつきつめ自明のものとしたのが表現主義であった。そしてこれはまたファシズムの原理でもあったのだと池田浩士は指摘する。「表現形式そのものが、またファシズムの思想的・イデオロギー的内実なのである。『政治の美学化』というファシズムの豪語の意味は、じつはここにある。これにたいして、たとえばベンヤミンのように、『美の政治化』を対置することの無力さを、考えてみなければならない。
……ファシズムによる 『政治の美学化』はイタリアでもドイツでも、そして日本ですら、表現そのもののなかにある自己解放の契機を、あますところなく組織した。搾取し収奪した、と言うべきかもしれない。しかし、この搾取と収奪は、ただ単に暴力的強制によってだけ実行されたわけではなかった。」
なぜ人はファシズムに魅せられた(魅せられる)のか? という問いは池田浩士の関心の中心にある。この一冊の本はその解明の試みのための序説であると何時に、その共同作業への呼びかけでもある。(社会評論社刊)
(『月刊フォーラム』1994年4月号)