過渡期の群像――竹中労『黒旗水滸伝』解説


1975年10月号から80年7月号の『現代の眼』に連載された夢野京太郎(竹中労)著・かわぐちかいじ画『黒旗水滸伝』が、このほどはじめて単行本化され、皓星社から出版された。上下いずれも600ページに近い大冊。定価・各2,500円+税。以下はわたくしが付した「解説」である。

「大正とはいかなる時代であったのかというテーマを、すでに四年にわたるこの大河連載劇画で、作者は追及してきたが、結論はゆきつくところ『その人を見よ!』/大杉栄と、彼をめぐる無政府主義者たち、テロリスト難波大助、さらには彼らがこよなく愛した浅草一二階下の娼婦&やくざ・芸人。国賊と呼ばれ、あるいは世の塵芥のごとく差別されたT窮民・下層社会Uの中に、われらがですぺら先生・辻潤を置いてみると、諸相はおのずから立体的に浮び上がってくるのでアリマス」と、連載も終りに近づいたところで作者は言っている。
 当初、第一部「大正地獄篇」、第二部「昭和煉獄篇」、第三部「戦後浄罪篇」という三部構成で構想されたこの作品は、結局、第一部を完成しただけで終わったが、しかしこの「大正地獄篇」だけでもこの国の「過渡期」の世情とそこに生きる人びとの雰囲気をなまなましく今日に伝えることに成功したと言えるだろう。
「大正」(一九一二年〜二六年)とはどういう時代であったか。それは一口で言って「現代」という時代の始まりであった。「戦争と革命の時代」としての現代、資本の増大に比例してますます進行する貧困と抑圧と人間疎外、同時にそのまっただ中から噴き出す反逆と自由と解放への希求、――第一次世界大戦(一九一四から一八年)とロシア十月革命(一九一七年)は、このような絶望と希望がそのなかで激しく渦巻く大過渡期としての「現代」の幕開きだった。
 過渡期はそれにふさわしい〈場所〉をもつ。つまり、「黒旗水滸伝」という物語に即して言えば、その梁山泊は隅田川を挟んだ山谷ドヤ街、浅草十二階下の私娼窟、江東の日雇労働者の居住区……ということになる。資本主義の浸透によって農村を追われ、都市の大工場からも閉め出された男や女たちが、吸い寄せられるように流れ着く〈場所〉、それがここだった。
 幸徳秋水はその「東京の木賃宿」のなかで、「去る明治二十二年の末、時の警視総監三島通庸は、市街の体面を保つが為にと、そが営業の区域を限りて一定の場所に移らしめぬ。現在営業の場所と数とは、浅草区浅草……二十余戸、 本所区花町、業平町……七十余戸、 深川区富川町……六十三戸、 四谷区永住町……十八戸、〔中略〕にて、そのお客様をいえば歯代借の車夫、土方人足、植木人夫、そのほか種々の工夫人夫、荷車引き、縁日商人、立ン坊、下駄の歯入れ、雪駄直し、見世物師、料理の下流しなど、いずれもその日稼ぎの貧民ならぬはなし。昨年末の調べにてはこれらの客人九千七百四十六人に及べりとぞ」と書いている。これは「明治」末期の状態だが、それが第一次大戦の後になると、大戦を契機に飛躍的に発展した資本主義が戦後の不景気に直面して吐き出した大量の失業者が、新顔としてここに流れ着く。
 この過渡期を象徴する〈場所〉は、当然のことながらいままでの都市にない闇をもっていた。それは一種の迷宮にほかならなかった。追われるものはそこに逃げ込み、そこで出会ったものは陰謀を練る。その具体相は竹中労によってこの作品のなかに活写されている。
 しかしこの〈場所〉は、政治的陰謀家たちだけのものではなかった。どれほど多くの作家たちが、失業者が野宿する隅田公園の夜に魅せられ、その〈場所〉を作品のなかにとどめることになったことか、江戸川乱歩から埴谷雄高にいたるまで、数えればきりがない。
乱歩の「屋根裏の散歩者」の主人公は、「おもちゃの箱をぶちまけて、その上からいろいろのあくどい絵の具をたらしかけたような浅草の遊園地」に通い、「映画館と映画館のあいだの、人ひとり漸く通れるくらいの細い暗い路地や、共同便所のうしろなどにある、浅草にもこんな余裕があるのかと思われるような、妙にがらんとした空き地を、好んでさ迷」うのである。乱歩自身、戦後になって「青年時代、私は群衆の中のロビンソン・クルーソーとなるために浅草へ行った」(「浅草のロビンソン」)と回想している。
 浅草の歓楽街に登場した「群衆」、それを取り囲むように存在する極貧の日雇労働者や娼婦のドヤ街。ここにあるのはもはや幸徳秋水が描き出した「東京の木賃宿」とはことなった、近代末期の姿である。この群衆と貧困者のエネルギーを、誰がどのように組織するのか? すでに時代はこのような問いをつきつけているのである。
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 現状への激しい拒否と未来へのさまざまな夢は、過渡期を過渡期たらしめる不可欠の要因である。その拒否は徹底してラディカルでなければならず、その夢は空中にますます高く飛翔しますます多様でなければならない。それらの混沌を一つの政治党派や一つのイデオロギーが統制し管理するようになるとき、本来の意味での過渡期は幕を閉じる。しかしそれは終りではない。そのような政治や思想の独占が崩壊し後景に退くとまた過渡期が姿をあらわす。
 このように見れば、アナーキズムこそがこのような過渡期の感覚的、思想的、そして美的表現であることがわかるだろう。過渡期にはかならずアナーキズムが主役を演じる。この国の「大正時代」がそうであったし、それから五十年後に世界を巻き込んだ過渡期としての「一九六八年」もまたアナーキズム・リバイバルで彩られた。
 一九一〇年(明治四三年)、天皇暗殺計画の首謀者として宮下大吉が五月二五日に検挙されたのをかわきりに、六月二日には幸徳秋水も拘引され、逮捕者は数百名に及んだ。そして翌一一年一月二四日から二五日に、幸徳ら一二名にたいする死刑が執行された。いわゆる「大逆事件」である。社会運動はきびしい冬の時代にはいる。権力の弾圧・統制は過酷を極めたが、運動の側の萎縮はそれをうわまわった。そのなかで、あたらしい一つの炬火を掲げたのが、大杉栄と彼の編集・発行にかかわる『近代思想』の創刊であった。それが一九一二年、大正元年。「大正」という大過渡期の序幕がこうして大杉栄と『近代思想』によって切って落とされる。しかし周囲はまだ闇に閉ざされている。
 この『近代思想』は、毎号わずか三、四十ページの片々たる雑誌にもかかわらず、その一年の中断を含めた五年間にわたる刊行のあいだに、大過渡期を迎えるにふさわしい新しい思想の創造の場となった。そこで主役を演じたのは言うまでもなく大杉栄である。彼は同誌上に発表した「奴隷根性論」(一九一三年二月号)で、「主人に喜ばれる、主人に盲従する、主人を崇拝する、これが全社会組織の暴力と恐怖との上に築かれた、原始時代からホンの近代に至るまでの、ほとんど唯一の大道徳律であった」と主張し、「奴隷根性のお名残である」「服従を基礎とする今日のいっさいの道徳」にたいする反逆を呼びかけるのである。
 大杉栄の思想がもつきわだった特徴は、このような「支配」から人間を解放するためには、その支配のカラクリを「科学」的に解明しそれによって人びとを「啓蒙」するだけではだめで、なによりもまず、一人ひとりの民衆がその支配に反逆する自分の自我に目覚めなければならないとする。彼の思想は狭い政治論ではなく、人間の生き方全般にかかわり、したがって文化の変革をつよく意識したものであった。「新生活の要求」「人の上に人の権威を戴かない、自我が自我を主宰する、自由生活の要求」、この〈生の拡充〉のなかにこそ、新しい美も存在する。つまり「美は乱調に在る」と彼は主張した。
 ここには、〈歴史の法則〉に人類の未来を託すのではなく、目前の現実にはげしく反逆することを通して、人間それ自体が変わるのでなければ自由な社会は到来しないという確信がある。そしてこの反逆のなかでだけ人は社会を認識できると彼は主張するのである。だから大杉栄にとって、労働者の解放は、他の何者かによってもたらされるものではなく、労働者自身の事業にほかならなかった。
「かくしていわゆる新社会主義は、『労働者の解放は労働者みずからの仕事で在らねばならぬ』という共産党宣言の結語を、まったく文字通りの意味に復活せしめようとした。/そしてこの『労働者みずからの仕事』というところに、センディカリスト等は自由と創造とを見出したのである。過去とは絶縁した、すなわち紳士閥〔ブルジョワ〕社会の産んだ民主的思想や制度とは独立した、またそれらの模倣でもない、まったく異なった思想と制度とを、まず彼ら自身の中に、彼ら自身の団体の中に、彼ら自身の努力によって、発育成長せしめようとした。」
「運動には方向はある。しかしいわゆる最後の目的はない。一運動の理想は、そのいわゆる最後の目的の中にみずからを見出すものではない。理想は常にその運動と伴い、その運動とともに進んでゆく。理想が運動の前方にあるのではない。運動そのものの中に在るのだ。運動そのものの中にその型を刻んでゆくのだ。/自由と創造とはこれを将来にのみ吾々が憧憬すべき理想ではない。吾々はまずこれを現実の中に捕捉しなければならぬ。我々自身の中に獲得しなければならぬ。」(「生の創造」)
 大杉たちはこのような新しい社会運動の可能性をサンジカリズムのうちに見出した。彼は『近代思想』を刊行するかたわら「センヂカリスム」研究会を組織し、労働者にたいする働きかけを強めていった。そして一九一七年も押し迫った一二月に、ロシア一〇月革命の報道を聞きながら、家族を引き連れて亀戸の労働者街へ住居を移すのである。
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 この作品自体がこの時代のパノラマになっているし、適時に簡略な年表も挿入されているので、あらためてこの時代を概括する必要もないように思える。しかしディテールにこだわる竹中労の叙述からは読みとりにくいかもしれない時代の流れを、一筆書きふうにまとめておくのも必要かもしれない。
 この作品のなかで作者が繰り返し使用する言葉がある。そのひとつは「左右を弁別すべからざる」であり、もうひとつは「窮民大連合」である。社会思想と社会運動の「大正」時代は、いわばこの二つの言葉にあらわされるような「混沌」ないし「始源のエネルギー」が、マルクス主義の流入とロシア革命の影響によって、相互に融和できない対立物へと分離し凝固していく過程であった。竹内好は日本の革命思想が近代主義に堕してしまった原因を、社会革命とナショナリズムの分裂にもとめたが、このような分裂はなにも日本にだけ特有のものではない。そしてそのような分裂が拡大し固定したのは「大正」時代であった。
 また、後の労働運動が実態はともかく目標としては近代的な大工場を中心に構想されたのに対し、この時代の労働運動の中心は江東地域の中小町工場で働く職人的労働者であった。最初のサンジカリズムによる労働組合、日本印刷工組合信友会が結成されたのは一九一八年である。会員千名、その中心は名人気質の欧文工であった。そしてこの年はまた、米騒動の年である。そのおもな担い手は「お神さん」連であった。
 自由民権運動のなかでおこった国権主義と民権主義の分裂は、「大正」にはいるとデモクラシーと社会主義との分裂にすすみ、さらに社会主義のなかのアナーキズムとボルシェヴィズム(マルクス主義)に分裂し、そのマルクス主義もさらに共産党派と社会民主主義派に分裂し、時代が「昭和」にはいると、この分裂は凝固して今日にまで至る。
「窮民大連合」のほうも、「大正」にはいるとまず「民衆」があらわれ、つぎに「労働者」「第四階級」とすすみ末期には「プロレタリアート」へと純化し、その他の貧民はルンペン・プロレタリアートあるいは雑階級とおとしめられる。
 われわれはこのような分裂を、昨日まで、あるいは今日もなお、思想の進歩だと教えられてきたのである。しかし本当にこれは進歩なのだろうか。思想は進化論ふうに進歩するものなのだろうか。私は否と答えたい。
 なるほど大杉栄の思想は体系的でない。彼はクロポトキンを翻訳し、バクーニンを深く研究した。しかし彼のアナーキズムはけっしてそれらの直輸入でも祖述でもなかった。そしてなによりも彼は、オオスギ・イズムのようなものをつくろうとは夢にもおもわなかった。人間が思想を使うのであって人間が思想に使われてはならないのである。役に立つものはなんでも取り入れるという彼の思想的な営為は、だから多分に折衷であり、悪く言えば雑炊的である。ではなぜそのような彼が当時も大きな影響を若者にあたえ、今日もなお、読むものの思考を刺激してやまないのか。それは前に引用したような社会運動にたいする彼の考えが、ほとんど「現代的」である、つまり今日の問題意識にぴったりと重なっているというだけではない。彼の思想には彼の精神がまぎれもなく実在しているという事実にもとづくのである。「僕は精神が好きだ」と彼は言う。少し長いが引用する。
「僕は精神が好きだ。しかし其の精神が理論化されると大がいは厭やになる。理論化と云う行程の間に、多くは社会的現実との調和、事大的妥協があるからだ。まやかしがあるからだ。/精神そのままの思想は稀れだ。精神そのままの行為は猶更稀れだ。生れたままの精神そのものすら稀れだ。
 この意味から、僕は、文壇諸君のぼんやりした民本主義や人道主義が好きだ。少なくとも可愛い。しかし、法律学者や政治学者の民本呼ばわりや人道呼ばわりは大嫌いだ。聞いただけでも虫ずが走る。/社会主義も大嫌いだ。無政府主義もどうかすると少々厭やになる。/僕の一番好きなのは人間の盲目的行為だ。精神そのままの爆発だ。/思想に自由あれ。しかし又行為にも自由あれ。そして更には又動機にも自由あれ。」(『文明批評』一九一八年二月号)
 これで全文だ。大杉栄の面目が躍如としている。人びとは、大杉栄の書いたもののなかに彼の精神を発見し、その同時代に生きている精神を愛したのである。関東大震災のなかで大杉栄が妻の伊藤野枝、甥の橘宗一とともに憲兵によって虐殺されたとき、肉体だけでなくこの精神が殺されたのだった。何人もの青年が復讐のためにその生命をなげうつことになるその経緯については、この作品が微細に描いている。この作品は、こうして生命を復讐に捧げた青年たちの鎮魂のために書かれたと言ってもいいほどだ。
 しかし話をもどそう。
「大正」とはどういう時代であったか。一口で言えば混沌から秩序へ、精神から物質へと激流のように流れていった時代である。混沌の精神を一身に体現した大杉栄が殺されたとき、もはやこの時代の潮流のなかで混沌を呼び戻すすべは失われたのである。大震災は混沌を焼き払い、ある意味でその象徴であった浅草十二階を崩壊させた。
 さて、ところで、混沌から秩序へという場合のその秩序も、精神から物質へという場合のその物質も、そんなに簡単なものではない。この移行が全面化するのは「昭和」にはいってからだが、震災後の社会にすでにその大きな動きがあった。「秩序」とはこの場合、組織化であり、「物質」とは消費文明あるいは大衆社会化ということである。多くのアナーキストがボル〔共産主義)派に転じたのにはそれなりの時代的な背景があった。とくに労働運動の場面では、あくまでも個人に依拠してそれぞれの個性が自由に連合することを理想とするサンディカリズム系の組合に比べ、科学的な戦略・戦術によって武装し民主集中制を組織原則とするボル系の組合の党派闘争における優位は明らかであった。
 しかし事態はそれほど直線的に進んだわけではない。一面の焼け野原と化した東京の街に、ひとときのアナーキーが出現する。大震災の年の一月に、「詩とは爆弾である! 詩人とは牢獄の固き壁と扉とに爆弾を投ずる黒き犯人である!」と宣言して詩雑誌『赤と黒』が創刊される。同年七月には、「私達は先端に立っている。そして永久に先端に立つであろう。私達は縛られていない。私達は過激だ。私達は革命する。私達は進む。私達は創る。私達は絶えず肯定し、否定する。私達は言葉のあらゆる意味において生きている」と宣言して前衛芸術グループ「マヴォ」が誕生する。いずれもアナーキストあるいはダダイストを自称しつつ、古い道徳、古い芸術の破壊を課題とする。『赤と黒』同人のひとり岡本潤は戦後の回想のなかで、「こういうマニフェストを書いたぼくらのなかには、当時ヨーロッパから流入された未来派、ダダ、表現派、立体派、構成派、など新興芸術の交錯した刺激と、思想的には大杉栄などを通じて接したバクーニン、クロポトキンなどの断片、辻潤の訳出したマクス・スティルナーの『唯一者とその所有』などが、体系的でなくゴチャゴチャと混在していた」と語っているが、大震災を挟むごくわずかの期間に、この国の知的世界におこった地殻変動をよく示していると言えよう。作者・竹中労の父、画家・竹中榮太郎もそのなかから生まれる。しかしこの前衛芸術派の中心メンバーの多く、たとえば詩人の壺井繁治、美術家の村山知義、画家の柳瀬正夢らは、数年後にはボルに転じ、プロレタリア芸術運動の指導者として活躍するのである。
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 混沌は夢を呼ぶ。「大正」という過渡期が過渡期であったゆえんは、それが科学的と称する新思想に毒される前の、自由な夢を無数に産んだところにある。しかし自然主義という軛を脱して空想をはばたかせ、貧民と被差別部落民が活躍する泉鏡花の世界、武者小路実篤の「新しい村」、有島武郎の農民解放、民衆芸術などだけが夢であったわけではない。震災の後にもなお夢の残欠は随所にある。「世界のはずれで爆発したんか/おれの腑ぬけた頭/神経がロココ式になめっこく/思考力がけぶっている/どしん! と電車にひかれたが/ころころっと痛感が転ってゆき/ふらふらっと起ちあがって/桜がさいたんかな!」というような詩をダダイスト詩人・陀田勘助として書きながら、江東自由労働者組合の活動家として活動し、ボルに転じて共産党東京市委員長として獄死した山本忠平。東海道をリャクをやりながら上京し、この江東自由という梁山泊に流れ着いた黒色青年連盟の神山茂夫。かれもまたボルに転じるが、江東自由から発展したわが国自由労働者の砦、関東自由労働組合を牙城に全協刷新同盟を結成して全協指導部の官僚主義と戦い、最後まで反逆の心を忘れなかった。
 これらの、第二部「昭和煉獄篇」が書かれれば当然主役として登場したであろう人びとのなかになお夢つまり自由は残響をとどめるのである。
 竹中労のこの作品は、「大正」という時代をそのロマンの相においてとらえ返す試みである。当然そこには竹中じしんの強烈な浪漫主義が投影されている。だから彼はくりかえし口を酸っぱくして言う。「あたしゃ、どうでもいいの。そんな詮索にかかずらわぬ――、くりかえし記述しておるが、本篇はノン・フィクション・フィクション。筋立ての都合よろしきよう、百も承知で話しをつくり変えているンであるからして、気楽に読んで下さりゃ結構、何をいったってムダである。」「聞くならく、夢野京太郎のホラ話し、実以て信用が、できない、ありやまともに評価すべきシロモノじゃなくって、小説・巷談のたぐいであるという悪口を、しばしば耳にいたします。/小説・巷談でどこが悪い? あたくしまさに、T稗史Uを書いているんで、既成の左翼文献なんぞにはハナもひっかけぬ心意気。」
 ではここに書かれていることはすべて嘘っぱちかと言えばとんでもない。すべてというか、まあ、ほとんどが事実である。個々のディテールの真実には作者はおどろくほどの努力をはらっている。しかしそれらをぶつけ合わせ組み合わせて一つの物語を創る作者のモチーフは、公認の正史にたいする徹底した異議の申し立てに他ならない。それはもう一つの歴史を書くことではない。正史が押しつぶしてしまったあの時代の夢と精神を「いま」に向かって復権することである。竹中労は事実よりも精神を愛する。
 と言っても竹中的ハッタリは随所に顔を出す。しかしハッタリこそ講釈師・竹中労の張り扇、それなくしてどうして読者は、この作品のなかで彼と出会うことができようか。この作品のなかで彼はテロリズムを称揚していると勘違いする読者がいるかもしれないので一言付け加えると、テロリストというのは不言実行の人であって、彼らがものを書くのは死刑を待つ牢獄のなかと相場が決まっている。お喋りのテロリストなどいないのである。竹中もそこはよくわかっていたようだ。こんなことを言っている。
「無責任なことをいうな、お前やってみろって、夢野京太郎すでに中年、運動神経鈍磨しておる。かわぐちかいじは、非力で頼りにならない、〔人間、誠意だけで革命家になれるものではないのだが〕と大杉も留保している。やんぬるかな黒旗水滸伝、残念ながら言うだけ描くだけ、せめても威勢よく口演なあいつとめまする。」
(竹中労著『黒旗水滸伝』上巻、2000年9月1日刊)