一九二〇年代、社会意識の高揚を背景に登場した労働文学からプロレタリア文学にいたる新しい潮流は、日本文学の視野を外に「辺境」に向けて、内に社会の「底辺」に向けて飛躍的に拡げた。葉山嘉樹、金子洋文、山川亮、今野賢三、黒島伝治、里村欣三などなど、『種蒔く人』から初期『文芸戦線』に登場したこれらの潮流を代表する作家たちのうちで、とくにその問題性あるいは「運命」を一身に体現してしまった一人が、この本の主人公である前田河廣一郎(まえだこう・ひろいちろう)である。
前田河の名は、急速に忘れ去られた。今日では彼の作品を記録にとどめる文学史は少ないといっていい。しかし彼は、昭和の初めに「新選名作集」全四五巻が改造社から出版されたとき、一人で正続二冊を収録されるという破格の扱いを受けた菊池寛ら四人の「流行作家」のひとりだったのである。いまわたしの手許にある『新選前田河廣一郎集』の奥付によると発行後一年半で二四版をかさねている。わたし自身にとっても、戦争の末期に改造社版「現代日本文学全集」の『新興文学集』で、彼の「三等船客」や「太陽の黒点」を読んだときの衝撃は忘れがたいものがある。
本書はこのいわば「忘れられた作家」の七十年の生涯をたどり、ひとりの作家の誕生と挫折を明治時代後半から昭和の戦後に至る歴史のなかに描き出した貴重な研究である。著者はまず前田河の生涯をつぎの十二項に分節化して提示する。――「(一)郷里宮城県における小学校、中学校時代、(二)上京して徳富蘆花や石川三四郎に出会い、渡米するまでの二年間、(三)シカゴ時代、(四)ニューヨーク時代、(五)帰国して「三等船客」などで世に知られる時期、(六)アメリカもの「麺麭」などの成果を残した大正十二年、(七)引き続きアメリカものを書き、「大暴風雨時代」をものした大正十三年、(八)アプトン・シンクレアの『ジャングル』翻訳に始まり、『文芸戦線』とともに戦い、「太陽の黒点」を発表した時期、(九)中国ものや「セムガ」などで新境地を模索した時期、(十)やはりアメリカものを手掛けた、帰国十年目の昭和五年からの何年か、(十一)蘆花や自分自身について書くことで「生きなおし」を試みた年月、(十二)病いで不自由であった最後の日々。」
前田河を作家たらしめたものはいうまでもなく十三年に及ぶ米国での移民労働者としての体験である。それ以前に徳富蘆花への弟子入りということがあり、文学への野望は少年時代からのものであったとしても、米国体験こそが作家・前田河廣一郎の背骨である。そしてその米国体験とはとりもなおさず「ジャップ」という蔑称が支配する移民労働者の世界における日米関係を身をもって体験することであった。とうぜんそこには日本を脱出しようとする力と、日本に回帰しようとする力が交差する。このような海外旅行者とも海外留学生ともちがうところで生活した日本人の作家は、前田河いがいにはいない。
ややもすればプロレタリア文学史の文脈のなかでのみ論じられがちな前田河を、彼の米国体験を中心に据え、また米国における彼自身の創作活動を丹念に発掘して、文学における日米関係史という新鮮な角度から論じたこの本は、従来のプロレタリア文学研究の盲点を鋭くつく結果となっている。また「三等船客」から「蘆花伝」三部作にいたる彼の代表作については、同時代の批評が丹念に調べられており、時代の雰囲気がよく伝えられている。
前田河廣一郎が帰国するのは一九二〇年、このときこの国の文学・思想界では、労働文学や第四階級の文学論が盛んで、翌年には小牧近江たちの『種蒔く人』が創刊される。彼はまさにタイムリーに帰国した。彼は震災後には『文芸戦線』を中心とするプロレタリア文学運動の中心的な人物になるが、おりから福本イズムをめぐる分裂さらには労農派と共産党支持派との対立の激化のなかで、急速に影を薄くしてしまう。ボリシェヴィキ化以前の米国の社会主義思想で育った前田河にとって、イデオロギー的な党派闘争はおよそ身にそぐわないものであった。それでも彼は一九三四年一二月の『新文戦』の終刊まで葉山嘉樹や里村欣三ら旧文芸戦線の同志たちと行をともにした。
多くのプロレタリア作家たちが転向を表明したなかで、前田河廣一郎はとくにそのような思想の変化を表明するようなことはしなかったようである。そのかわりに彼は『蘆花伝』一冊を書きあげた。それは戦時中の『蘆花の芸術』、戦後の『追はれる魂―復活の蘆花』の三部作となるものであった。
著者は最後の部分で、「前田河には自分の文学の方法について探求らしい探求がなかった」、それでは他の悪条件が無かったとしても「小説は書きつづけられるものではない」と批判しながらも、「時代の勢いに乗ってその才能を作品に流し込んだ作家」「そのすべてにおいて逞しく、振幅がひろく、簡単な尺度では容易に割り切れないケオス(混沌さ)を内に蔵していた」希有な作家と評した青野季吉の言葉を結論的に引用し、さらに「前田河氏の仕事が三十年以上学ばれることなしにきた事情の批判検討とともに、氏の全業績を基本的に研究しなおそうと考えています」という葬儀にあたっての新日本文学会(中野重治)の弔辞を紹介している。そのような「研究」の端緒が本書によって拓かれたことをよろこびたい。
(『図書新聞』2001年2月10日号)