法政大学の小田切秀雄ゼミ卒業生による追悼の意をこめた小田切論集である。しかしこの手の論集に多くみられる「師」にたいする顕彰の文に終始することなく、疑問や批判は遠慮なく書くという態度が各論にゆきわたり、読後は爽快であった。追悼論文集としては異彩を放っているということをまず言っておきたい。
戦後文学に於ける代表的な批評家は、中村光夫にせよ平野謙にせよ批評と文学史とが両輪をなしている点におおきな特徴があった。そのもっとも顕著な例が小田切秀雄であって、彼の残した業績をあらためて通観すると、彼の文学史家としての相貌がつよく浮き上がってくるが、しかしその文学史自体がきわめて批評性の強いものであることを痛感する。歴史研究が同時にアクチュアルな現実批判になっていて、その歴史はたんなる文学的事象の客観的な記述に終わらないのである。その特徴は戦時中の本居宣長論にすでに顕著で、そこには時局にたいする強烈な批評性が秘められていた。
このような小田切秀雄の批評家・研究者としての特徴を、ほぼその全生涯をたどりながら解明した立石伯の「終りなき青春――小田切秀雄の文学的出発と精神の根源」が総論として巻頭におかれ、この周到な論述によって小田切秀雄になじみのない読者も興味をもって以下の論文を読み進めることができるだろう。
立石も指摘しているように、小田切秀雄にとってのおおきな転換点は一九五三年の論文「頽廃の根源について」であった。この論文を書くことをとおして彼は、それまでの政治主義批判というかたちでのプロレタリア文学批判から、それを日本の文学の歴史と国家・社会の機構(天皇制)のなかでより根底的にとらえなおし批判するというところに進み出た。このことの意味は大きかった。なぜなら蔵原惟人に代表される戦前のプロレタリア文学理論を克服しないかぎり、文学史や古典の研究はほとんど不可能だったからである。小田切にとっての「両輪」はこのときに成立したと言ってもいい。
この「転換」はしかしこれだけにとどまらなかった。小田切秀雄の文学的出発であった戦時中の北村透谷への心酔をつうじて戦後にまでつづく「近代的自我の確立」という課題を、この「転換」は歴史的文脈のなかで論理化することを可能にしたのである。天皇制を絶対主義と規定し、民主主義的な近代の成立を「未完のプロジェクト」とする立場は、彼の「近代的自我の確立」論に歴史的論理的な「根拠」をあたえるものであった。
彼のこの立場は、六〇年代にはいり「近代」にたいする疑問があらゆる分野で噴出したときにも基本的には微動もしなかった。小田切秀雄は、古典的な批判的リアリズムからいささかも動くことはなかった。そしてそこに後続の世代の不満も批判もうまれ、それはこの論集の筆者たちにも多かれ少なかれ共有されているようにみえる。
黒古一夫の「『北村透谷論』――小田切秀雄文学観の基底」は、左翼運動の最末期に行動者の道にふみこんで挫折した小田切少年の、「政治から文学へ」という回心の過程に透谷がふかく影響し、終生、彼にとって透谷は「わたしの透谷」となったその初発の時期の透谷論から説きおこし、戦後の透谷論をたんねんに検討しつつ、その間に起きた平岡俊夫や色川大吉らによる小田切透谷像への批判の問題をとりあげている。そこには個的主体か民衆的主体かという問題が露呈していて、いまくわしく紹介はできないが、黒子の論も基本的には小田切を擁護しながらその弱点も指摘しており本論集中の力作である。
ほかにも紹介したい論文はすくなくないが、あと小林裕子「小田切秀雄と女性」にだけふれておく。小田切秀雄のみゆき夫人にたいする貞節ぶりはよく知られているが、そのあまりにも生真面目な女性観が作品評価に限界を生んでいるという批判が共感の笑いを誘う。彼の最晩年に「君は玉ノ井と洲崎が違うところだって知っているかね」と電話をかけてきて「そのくらい知っていますよ」と答えると「そうかね、ぼくは最近まで同じだとばかり思っていた」と、ふたりで爆笑したことなどを思い出しながら読んだ。
この論文集は小田切秀雄がすぐれた教育者であったことをあらためて痛感させる。彼はよく、「ぼくは若い人にはトレラントなんだ」と言ったが、おそらく彼のゼミもそのような雰囲気でおこなわれていたのであろう。その自由な雰囲気がつたわってくる論集である。(『週刊読書人』2001年11月30日号)