柄谷行人著『倫理21』を読む

 著者はまず、「数年前から私は戦争責任という問題について考えていましたが、それについて本質的なことをいうためには、責任とは何か、倫理とは何かということについて、根本的に考えなければならないと感じていました。その時、私はカントの『批判』が今もって最も根本的だということに気づきました」と語り始めている。
 マルクスがある社会の生成・発展・没落の過程を「一つの自然史的過程」と呼んだことはよく知られている。それでは人間個人はその客観的な過程にどのようにかかわるのかという問題は、さまざまな局面でさまざまな角度からくりかえし問われてきた。その根本にあるのは、客観的な法則性(必然性)の認識と、そのなかにおける個人の実践(倫理)との関係如何という問題である。
 プロレタリアートの解放に役立つものはすべて「善」である、というレーニンの功利主義的倫理に危うさを見たマルクス主義者のおおくが、カントによってこの問題を解こうとした。二〇世紀初期のマックス・アドラーやカール・フォルレンダーらいわゆる「新カント派マルクス主義」にはじまり、戦後のフランクフルト学派にいたる歴史がそれを示している。
 近年の柄谷行人が『トランスクリティーク――カントとマルクス』や『可能なるコミュニズム』でつづけている、カントによってマルクスを読みかえ、マルクスによってカントを読みかえるという作業も、このような文脈におけば新しいカント派マルクス主義の試みといえなくもない。しかしこれらで問題になっているのはそのような思想史的回顧でないことはいうまでもない。ここには一種の実践的なプログラムが、原理論から「生産―消費協同組合のグローバルなアソシエーション」による資本と国家にたいする対抗運動の展望まで含めて展開されているのである。そして本書『倫理 21』はこのような展望がどうして可能なのかを、そのもっとも根底にまでさかのぼって明らかにしようとしている。
 ではそれがどのような文脈で語られているのかを紹介するには、十二章におよぶ目次の項目を書き写すのが簡便である。そこで語られているのは、――親の責任を問う日本の特殊性、人間の攻撃性を認識すること、自由はけっして「自然」からは出てこない、自然的・社会的因果性を括弧に入れる、世界市民的に考えることこそが「パブリック」である、宗教は倫理的である限りにおいて肯定される、幸福主義(功利主義)には「自由」がない、責任の四つの区別と根本的形而上性、戦争における天皇の刑事的責任、非転向共産党員の「政治的責任」、死せる他者とわれわれの関係、生まれざる他者への倫理的義務、――である。
 この本はわたしたちに自由と必然について考えさせる。われわれは必然のなかにおかれているということと、われわれは、サルトル流にいえば「自由という刑に処せられている」ということとの二律背反のなかで、われわれははじめて倫理あるいは責任という問題にぶつかる。つまり責任とは自分が自由である、自分が原因であると想定した場合にのみ存在する。だから天皇制という自由を吸い込んでしまう装置(たとえば「軍人勅諭」の「上官の命を承ること実は朕が命を承る義なりと心得よ」)のもとでは、責任の意識は生まれない。ただこのような装置を相対化し、その構造を認識した場合にのみ人はそこから自立して自己の責任を引き受けることができるのである。
 「では、どのように責任をとるのか。それは、謝罪や服役、自殺というようなことだけではないと思います」と著者は言い、次のようにつづける。「望ましい責任の取り方は、この間の過程を残らず考察することです。いかにしてそうなったのかを、徹底的に検証し認識すること、それは自己弁護とは別のものです。」この著者の主張に私は全面的に賛成だ。そのうえでさらに、その「過程」を生み出した原因の実践的な解消、つまり誤りを繰り返さないための保証という要求をつけくわえたい。
 著者は結論の部分でつぎのように述べる。――「賃労働の廃棄ということは、『他者を手段としてのみならず、同時に目的として扱う』ということの現実的な形態にほかなりません。マルクスにとっては、それは『至上命令』でした。このことは、けっして自然史的必然ではありません。むしろ、自然史的に見れば、資本主義的経済は永続するでしょう。それを廃棄するのは、倫理的な介入です。つまり、『自由』の次元からのみ、それは来るのです。」
 マルクス主義からの距離によって、この結論には賛否がわかれるだろう。しかし刺激的な問題提起であることにかわりはない。