革命家に毀誉褒貶はつきものだが、神山茂夫の場合、それは尋常のものではなかった。一方に彼を日本における最高のマルクス主義者・革命家とたたえる人たちがおり(何を隠そう、かつては私もその一人だった)、他方に、度し難いコミンテルン権威主義者、三二年テーゼの訓詁解釈に憂き身をやつした教条主義者、はては党の統一を破壊する分派主義者と攻撃する人たちがいた。そのような政治思想風土のなかで、『天皇制に関する理論的諸問題』という彼の主著もまた、十分な評価・批判にさらされることもなく、今日に至ったのである。
カール・コルシュは『マルクス主義と哲学』の再版の序説を「書物にはそれぞれの運命がある」という箴言を引くことで書き始めているが、この言葉は本書にもふさわしい。本書の原本『君主制に関する理論的諸問題』は、太平洋戦争の前夜、一九三九年に執筆され、数部のカーボン・コピーとして当時、共産党の再建運動に取り組んでいた同志の間で回覧された。一九四一年五月に神山は検挙されたが、彼は獄中でこれをさらに推敲し、それは官側の極秘資料『思想資料パンフレット〔特輯〕』第三三輯、『絶対君主制に関する理論的諸問題――神山茂夫手記』として四二年六月に印刷に付された。そして敗戦と治安維持法の廃止によって獄中から解放された後、本書ははじめて合法的に出版された。
帝国憲法の起草者である伊藤博文によって「独り不敬を以て其の身体を干涜すべからざるのみならず、併せて指斥言議の外に在る者とす」(『憲法義解』)とされ、治安維持法や不敬罪、出版法などによって二重三重に禁圧されていた天皇と天皇制にかんする政治的・理論的追究は、こうして一人のマルクス主義革命家の戦争中を一貫した不屈の営為によって遂行されたのである。
今日の研究水準から見れば、本書の天皇制論や絶対主義論の欠陥を指摘することは難しいことではない。また、神山理論の中核をなす軍事的・封建的帝国主義と近代的帝国主義の代位・補充関係、いわゆる「二重の帝国主義」という主張も、最近数年間に飛躍的に深まった総力戦体制の実証的研究に照らせば、訂正されなければならない点が多々あると思われる。
しかし神山茂夫が戦争の渦中でこの本を執筆したそもそものモチーフは、たんなる理論的な関心に発するものではなかった。日本帝国主義の特殊に侵略的な性格はどこから来るのか、なぜ日本資本主義はその初発の段階から戦争を不可欠の存立条件としたのか、そしてその脆弱性、倒壊の不可避性はどこに根拠があるのか、日本の民衆は戦争から抜け出すために何を為すべきか――それが彼の根本的なモチーフだったのである。
ややもすれば倫理的な追及と反省に終始しがちな戦争責任論では、「大東亜戦争肯定論」の亡霊を克服することは出来ない。私は本書が、われわれの戦争責任についての考えを深めるために、新しい読者に迎えられることを願ってやまない。
(『場』No.24、2003年6月)