伊藤晃さんの共産主義運動を軸にした運動史研究としては、いままでに、一九八八年に刊行され今回インパクト出版会から再刊された『天皇制と社会主義』、それから一九九五年に刊行された『転向と天皇制』(勁草書房)という二冊の本があります。そして今回、『日本労働組合評議会の研究』が社会評論社から刊行され、全体として、一九二〇年代から三〇年代の後半、つまり大転向時代に至る時代の、共産主義運動を中心にした日本の社会・労働運動におけるさまざまな問題と、それを導いた思想の詳細な研究が、いわば三部作としてひとまず完結したわけです。
私がこの三部作を読んで一番感じたことは、やっと日本の共産主義運動を中心にした社会運動の歴史が「科学」になる時代が来たということです。というのは、それまでの歴史は、常に日本共産党との緊張関係の中ででしかできなかったからです。
次に発言される田中真人さんの『一九三〇年代日本共産党史論』(三一書房)という本の序章は「日本共産主義運動史研究の現段階」というサブタイトルが付いているんですけど、そこで田中さんは、日本の運動史研究が置かれていた状況について非常に詳しく回顧しておられます。先駆的なものとして、例えば小山弘健さんであるとか、渡部徹さんの仕事が挙げられています。伊藤さんもこのお二人の仕事について触れておられますが、この二人はともに共産党を除名されているわけですね。私事になりますけれども、この渡部さんの『日本労働組合運動史』という本は、私が青木書店にいるときに編集した本なんですが、一九五四年に私が共産党を除名されたときの罪状のひとつとして、この本を編集したということが挙がっている。今となっては、ちょっと信じられないようなことかもしれませんけれども、そういう状況の中で運動史の研究が行われていたということを、ここで思い出しておきたい。そういう制約をうち破って、あるいはまた、そういう制約をほとんど意識しないで、科学的、つまり厳密に資料を基にした実証的な研究が実を結んでいるということについて、私は感慨深いものがありました。
伊藤さんの研究の大きな特徴として、聞き取りを非常に重視しているということが指摘できるだろうとおもいます。もちろん聞き取りという方法は、これまでも多くの、とくにいわゆるノンフィクション・ライターと呼ばれる人たちによって採用されてきました。例えば立花隆の『日本共産党の研究』(講談社)があります。これは聞き取りと官側の資料、つまり弾圧する側の資料を軸にして作られた日本共産党の研究です。この本自体は私は大きな意味を持っていたと思いますけれども、しかし学問的な運動史の研究ではありません。最近はオーラル・ヒストリーということがいわれて、「語り」などという聞き慣れない言葉がはやっているようですが、単なる聞き取り自体にものすごく意味があるというふうには、簡単に言うことはできないと私は思っています。それらと伊藤さんの仕事における聞き取りとは、大きな違いがあります。伊藤さんの聞き取りにたいする態度を要約しますと、まず第一に、運動の現場にいた活動家を対象にした聞き取りがなされているということですね。指導者の聞き取りではなくて、現場の活動家の聞き取りであるということが、ひとつ大きな特徴です。それから聞き取りをそのまま鵜呑みにしていない。非常に細かい、客観的な資料をそれと突き合わせて、本当にそのようなものであったかという検証をずっとしているという点で、大きな特徴があります。
運動にかつて参加した人の聞き取りというのは、やはりどうしても思い込みもありますし、自分自身のやってきたことについての誇りのようなものもあるだろうと思うんですが、往々にして間違った記憶が語られているケースが多いんです。一番ひどいのは田中清玄の聞き取りです。これはもうほとんど九〇%嘘っぱちです。単純に、聞き取りはいいものだというふうには言えない。その点についての伊藤さんの警戒と言いますか、非常に厳密な検討の姿勢に、私は感銘を受けました。五〇年代から六〇年代初期には、聞き取りをしようにも、聞き取りをする対象の人は多くが転向者ですから、転向者と会って意見を聞くなんていうのは、それ自体が党にたいする犯罪行為だったわけですね。そういう制約が全部なくなった段階で、伊藤さんの非常に緻密な聞き取りがなされた。それが、この三部作に全面的に生きているということを感じるわけです。
つぎにあまり時間がありませんので、運動史を研究していく上での伊藤さんの基本的なカテゴリーについて、いくつか取り上げながら、私の意見も合わせて述べさせていただきたいと思います。私がこれから述べる天皇制とか共産党というのは、特に戦後の、と断らない限り全部敗戦までのことだというふうにご理解下さい。
日本の社会主義運動、――単に共産主義運動だけではなくて社会主義運動・社会運動にとって一番大きな問題は何だったのか。それは天皇制にどのように対するかということだったと伊藤さんは述べています。その点でもっとも明確な立場をとっていたのが共産主義運動であったことは言うまでもありません。ところがその共産主義運動でさえ、天皇制と闘うという目標を掲げながら、実は天皇制と闘うということがどういうことなのか最後まで分からなかったんだと指摘しておられる。結局、政治スローガンとしての天皇制打倒と、実際の大衆の日常生活における天皇制に起因する抑圧やそれにたいする反抗の原初的な形態を、結びつけることができなかった。そのギャップが運動の孤立化を生み、一九三三年の大転向時代を迎える原因になったという。それならば天皇制と闘うとはいったいどういうことだったのか。これが、この三部作の一番中心的な問題だというふうに私は読みました。この問題意識に私は深く共感します。というのもそれが、私がいままで神山茂夫や中野重治の仕事を通して学んできた私の問題意識とぴたりと重なっているからです。
日本共産党の創立から壊滅に至るまで、君主制のちには天皇制の廃止という目標ははっきり掲げられていた。しかし同時に、その天皇制とは何なのかという問題をめぐって、初期の共産主義運動、社会主義運動は分裂していくわけです。
しかしここで、一九四五年一〇月四日に一連の弾圧法規が占領軍の指令によって廃止されるまで、日本で天皇制をめぐる言論がどのような状況におかれていたかを知っておくことがとても大切です。理論は真空のなかから生まれるわけではありませんから。
一例をあげますと、大日本帝国憲法の起草者である伊藤博文が、その解説を書いた『憲法義解』という本があります。その中で、「天皇は神聖にして侵すべからず」という件りの解説として、こういうことを言っているんですね。「独り不敬を以て其の身体を干涜すべからざるのみならず、併せて指斥言議の外に在る者とす」。つまり天皇というものは、身体を侵してはならないのはもちろん、そのものとして名指しで批判をしたり、かれこれ議論してはならないのだという憲法解釈です。
これは単に憲法解釈としてこういうことが言われただけではなくて、それを法的に保障するものとして、例えば出版法であるとか、あるいは新聞法であるとか、後には不敬罪だとか治安維持法とか、さまざまな法規によって非常に強く規制されていたわけです。ですから戦前の出版物を見ると、共産党の「赤旗」、あるいはそれに類する非合法出版物を除けば、天皇制という名前は一切使われていません。さまざまな法的な規制を破らない限り、天皇制について論じることができないという状態だったわけです。その中で天皇制とは何かという議論をしなければならないという、そういう非常に限定された中での議論であったわけです。
日本の共産主義運動というのは不思議な運動でして、それじゃあ非合法文献でそういう議論をやればいいじゃないかと、当然私たち思うわけですけれども、それを非合法文献でやったという実例は、太平洋戦争の前夜、神山茂夫が『君主制に関する理論的諸問題』(戦後、『天皇制に関する理論的諸問題』として三一書房より刊)というのを書いた、それがほとんど唯一の例外ですね。あとは全部、合法的な形でやろうとしていたわけです。そこでどういう抜け道があったかと言いますと、例えば天皇制が絶対主義だとすれば、それに対応する経済的基礎があるはずだ。それは何だ、封建的土地所有だ。それじゃあ、土地所有が資本主義化していないということが実証されれば、天皇制が絶対主義であるということが証明されるんだと。また天皇制がブルジョワ君主制だとすれば、土地所有は当然、資本主義化しているはずだと。土地所有の資本制化が実証されれば、天皇制のブルジョア化が証明されるんだという、非常に単純な、つまり下部構造と上部構造が直接に対応してしまうような単純な機械的な史的唯物論の理解に立って、もっぱら経済構造の分析に突っ込んでしまう、というのが天皇制の論じ方であったわけですね。天皇制は絶対主義なのか、ブルジョア的な君主制なのかというような議論の枠、これは戦後もずっと続いてきました。この枠をさまざまな試みの中でいろんな人が破ろうとしたわけですが、私はやはり伊藤さんのこの問題に対する対し方に共感しました。
伊藤さんは天皇制問題を、絶対主義か立憲君主制かというふうな枠組みで論じるのではなくて、また下部構造に対応する上部構造として捉えるのではなく、一つの歴史ブロックとして捉えようとする。歴史ブロックという言葉は、もちろんグラムシからきているわけですが、この歴史ブロックとしての天皇制を、彼は天皇制民族社会というふうに規定するわけです。そして天皇制と闘うということは、この天皇制民族社会をいかに解体し、民主的な市民社会として再編成するかという課題だったんだというふうに主張しているわけです。そういう認識に至るプロセスは伊藤さんとは若干違うかもしれませんけれども私も同感します。
それはどういうことかと言いますと、まず第一に経済と国家あるいは国家と市民社会という関係だけで、日本の社会を捉えるのでは足りない。あるいはそれでは、ほんの一面しか捉えられない。やはり国家と経済的基礎との間にある領域、つまり市民社会という領域、あるいは文化という領域、イデオロギーという領域、こういうもの全体をひっくるめて歴史ブロックとして捉え、そしてそれをいかに解体していくかという課題が共産主義運動、ないしは社会主義運動の課題だったんだというふうに、伊藤さんは主張しています。その点についての私の共感を、まず最初に確認しておく必要があると思うんですね。この三部作の中心をなしているのは労働運動の問題ですが、天皇制民族社会を構成している人間、特に労働者の中に強固に存在しているナショナリズム、あるいは差別意識、というようなものをどう克服していくかということが、この天皇制民族社会を解体していく上で非常に重要な意味を持っているという指摘に、それはつながっていくわけです。
私が今度の本で一番おもしろく読んだのは、東京市従業員組合の章です。この本の中で伊藤さんは、全体として、一九二〇年代に日本の資本主義はフォーディズムの時代に入ってきた、日本型フォーディズムの時代に入ったという指摘をしておられるわけです。その分析は私は貴重なものだと思いますけれども、一九二〇年代から三〇年代にかけて、日本で果たしてフォーディズムが問題になるような大企業の労働者の数は、労働人口全体の中で何パーセントあったのか。これは非常に微々たるものだっただろうと思うんですね。そういう中で私がおもしろかったのは、東京市の従業員の大部分が大工場労働者では当然なく、ある意味では自由労働者に近いような労働に従事する人が非常に多かった、そういう組合であったということです。
今、ゴミ収集車というのが来ますけども、私の幼い頃の記憶を考えてみましても、そのころはゴミ屋というのがくるわけです。これは大八車に大きな箱を乗っけて、だいたい麦わら帽子をかぶっていたという記憶があるんですけど、そういう人がこれを引いて街中を歩いて、それぞれの家の前にある木でできたゴミ箱を開けて、そしてその中のゴミをさらって、その大八車の上の箱に入れて、それをガラガラ引いて歩く。これが東京市の従業員であったわけですね。伊藤さんの分析の中でおもしろかったのは、この人たちが本当の自由労働者、いわゆる日雇い労働者、評議会系の労働組合に組織されていないような日雇い労働者に対して、やはり差別意識を持っていたということが出てくるわけです。差別意識と言っても非常に多様で、しかもごく一部の労働貴族だけが差別意識を持っていたというんじゃなくて、底辺労働者の中でもまた差別意識がある。そういう差別の非常に複雑な入り組んだ構造の中で、それが実は天皇制民族社会というものの、一番中心のところにあった、それをどうやって克服していくかという課題が、彼らの労働運動の課題としてあったという指摘がある。そこのところは非常におもしろかったと私は思っています。
伊藤さんはここで、労働組合運動の組織論にあたるような問題を提起しています。評議会、その後の全協では、統合型の組織論が圧倒的に支配していた。労働者は本来、均一の階級意識を持った存在なんだから、それを一つに統合していくべきだという考えですね。労働者のなかに雑多な意識があるのは、彼らがまだ階級的に未成熟だからで、だから単一の階級的組織のなかで陶冶して真の階級意識の保持者に高めなければならない。そういう考えの前提は、レーニンの階級意識外部注入論につながっていく考えだと思います。つまり本来労働者であるということは、階級意識の入れ物のようなものだと。それに対して外部から、前衛的なものから階級意識を注入していくという、そういう考えですね。
そうではなくて、天皇制民族社会の中では、人々の自由とか民主主義とか、あるいは人権とか、そういうものに対する目覚めが、さまざまな階層、さまざまな職業、ジェンダー、エスニシティー、そういう違いの中で、さまざまな形での目覚めがあるんだ。それを一つにいきなり統合してしまうことはできないはずだ。であるとすれば、そういうさまざまな目覚めをどのように接合していくかということが、労働運動にとっての一番大きな課題だったんじゃないか、しかもそれだけが天皇制民族社会の中でのさまざまな目覚めを結集することのできる運動形態だったと、伊藤さんは一貫して述べておられます。私もまったく同感です。
そこで、私は伊藤さんにひとつ注文があるんです。一九二〇年代の日本の労働運動の中で、アナ・ボル論争が大きなテーマだった。アナキスト系の人たちは自由連合論を掲げていた。一種の接合的な運動論です。自由連合論・対・集中制の論争が、アナ・ボル論争だったわけですね。そういう意味で、この問題は新しいように見えて非常に古い問題だったというふうに私は思っています。このアナ・ボル論争を含めて、サンジカリズム系統の労働運動を一つの対照軸として立ててみたらどうだろうかなというのが一つの注文なんです。ご承知のようにアナ・ボル論争ではボルが完全に勝っているわけですね。アナキスト系の運動は一九二〇年代後半には力を失ってきています。しかし私は、勝ったか負けたかということで、ある運動理論なり、あるいはある思想なりの評価はできないと思うんですね。やはり負けた思想なり運動の中に、現在生かされるような可能性があったんじゃないか。それを絶えず振り返って掘り起こすことが現在の運動と歴史研究をつなげる大きな環になるんじゃないかというのが私の考えです。負けたんだからこれはもう歴史的にその誤りが証明されてしまったんだというふうな考え方を私は取らない。
伊藤さんに言わせると、私は五〇%アナキストだということになっているわけですが、それに対して私はあまり異論はないんですね。そういう立場から言いますと、このアナキスト系の運動を一つの軸として評議会から全協に至る運動を照らす鏡として立ててみるということも有効なんじゃないかということをひとつ申し上げたい。サンジカリスト系の江東自由労働者組合が「ボル」に転換して東京自由となりさらに全協加盟関東自由となりながら、全協刷新同盟の中核になっていく過程には、たとえば画一的な全国単一労働組合化に反対して独立労働組合を認めろとか、日常の要求(たとえば「氷よこせ闘争」)の位置づけの問題とか、あるいは自由労働者(寄せ場労働者)の組織の問題とか、伊藤さんがこの本で提起された問題に重なるような問題が、具体的な実践の場で提起されているわけです。それらをふくめて伊藤さんがさらに全協の歴史にまで研究を展開していただきたいと期待します。
それからもう一つは、民主主義の問題です。伊藤さんは、民主主義的な要求というものは社会主義よりも低いものだというふうに日本のマルクス主義者は考えてきたけれども、これは誤りだと明快に言われる。例えば女性の解放、あるいは民族差別を含めたさまざまな差別は、社会主義が実現すれば解決するんだというふうな考え方は間違っていると。これも現在の我々にとっては、おそらく共通した認識だろうと思います。しかし同時に、私のような五〇%アナキストじゃなくて、一〇〇%マルクス主義者の伊藤さんにとっては、民主主義的要求が資本制の下でどこまで実現できるのかという問題は、やはりどうしても解決しなきゃならない問題じゃないかと思うんですね。民主主義的な要求がそのまま資本制を克服していく原動力になるのかどうか。あるいはどの点でそれが資本制を克服する契機になり得るのかということについては、もう少し突っ込んだ分析が必要なんじゃないか。
鈴木裕子さんもいらっしゃるので、後でご意見を伺いたいと思いますけれども、女性の解放というものが資本制の下でどこまで可能なのかという問題はやはり、例えばフェミニズム運動の中でも大きな問題なんじゃないだろうか。今、資本主義と闘うということが何となく古くさい、そういう言動が古くさいように思われる時代にいますけれども、民主主義的な要求が資本制の下でどういう形で貫徹されるのかという問題は、避けて通ることができない問題だろうと思います。そうでないと、今の共産党が言っているような資本主義の下での民主的改革をやればいいんだというふうな、そういう政治論になってしまう。これはおそらくほとんど力を持たないだろうと思います。特にグローバリゼーションというものが大きな問題になっているこの時代にですね、資本主義をどうするかという問題を抜きにしては、民主主義の問題は明確な像を結ばないんじゃないかというふうに思っております。これから本来でしたら細かいところに入らなければいけないんですけれども、後はお二人にバトンタッチすることにして、私の最初の問題提起はこれで終わりにさせていただきます。
(『運動〈経験〉』6号、2002.夏)