「僕は精神が好きだ」と言う大杉栄をわたしは好きだ。精神とは理屈ではない爆発だ、というのが彼の考えだが、さらにつづけて「思想に自由あれ。しかし又行為にも自由あれ。そして更には又動機にも自由あれ」と言う。これにわたしは共感する。なによりも、精神一到何事か成らざらん的な説教臭さや悲壮感がないのがいい。
大杉栄的な精神をわたし流に言い換えると、自分の好き嫌いに徹底的にこだわるということになる。嫌なことはいやだ。どんなに正義を説教されようと、どんなに真理をかかげられようと、嫌なものはいやだ、を押し通す。
だいぶ前のことだが、私は自分の好き嫌いの感情に徹底的にこだわろうとこころに決めた。ふりかえると、理屈によって感情を押し殺した結果、ろくでもない選択をしたとほぞを噛むことがあまりに多いのに気づいたのである。こういうのは嫌だなと思いながら、理屈に説得されて、あるいは自分で自分を説得してえらんだ行為が、とんでもない間違いだったことがすくなくない。一般には感情よりも理路整然とした理屈のほうが、高度で間違いがないと思われているようだが、それこそ間違った考えだと思う。感情や感覚は理屈ほどは間違わないのである。
「だれでも戦争はいやですよ」と小泉純一郎は言いながら、すぐに「しかし」とつづける。「日本の国益、アメリカとの同盟関係、国際社会への責任をかんがえると、自衛隊のイラク派遣は必要だ。」――戦争はいやだ、というのは圧倒的に多くの人が持っている感情だ。そして「しかし」以下は理屈である。この理屈は間違っている。だからそれを理屈のレベルで批判することはもちろん必要だ。そのことをわたしは少しも軽視するつもりはない。しかし運動の主戦場はどうもそこにはないような気がする。もっと大切なことは、人びとが持っている「嫌だ」という感情に、もっともっと広く、多様で、強力な表現の場を作り出すことだと思う。
敵の方がはるかによく学んでいるのだ。だからワンパターンや繰り返しでは、彼らに勝つことはできない。マスメディアの流す「理屈」にさからって、「嫌だ」という自分の感情を直接的に表現するあたらしい形態や場を、どれだけたくさん生み出せるか、それがカギだ。それなしには、「嫌だ」という圧倒的多数の感情を、真の多数にすることはできない。反戦も社会変革も多数者の仕事だということを肝に銘じたいと思う。文化のあり方自体が問われているのである。
(『市民の意見30の会・東京ニュース』81号、2003年12月1日刊)