「新左翼」は本当に新しかったか
              

 あの当時、新左翼を自称し自認していた集団がどれだけいただろうか。1960年代の二度にわたる高揚のなかで、学生運動も労働運動も、全共闘も反戦青年委員会も、自分たちを「新」とは考えず「真正」と考えていたのではなかったか。もちろん彼らは「旧」を克服することが、スターリン批判以後の時代に左翼を再建するための喫緊の課題だと考える点では一致していた。その意味では「旧」にかわる「新」であったことはたしかだったが、しかしこの「新」はいわば「原理主義」的な復古が基盤となっていたのである。
 ソ連の崩壊があたかも左翼思想の消滅であるかのような様相を呈している現在に比べると、スターリン批判後の状況はまったくことなっていた。ソ連の崩壊が人びとにほとんどなんの思想的なインパクトもあたえず、一部の左翼に保身的な「転向」の口実を与えたにすぎなかったとすれば、スターリン批判が呼び起こしたのは広範な左翼思想にたいする関心と活性化だった。既成の総合雑誌がそのためにひろく紙面を提供しただけではない。学生や労働者そして無名の活動家のなかから、無数のガリ版思想誌が誕生したのもこの時代だった。
 60年代の「新しい」運動を思想的に領導することになるこれらガリ版思想家たちの立場はさまざまではあったが、「根源へ」という志向ではまったく一致していた。それは、レーニンに還るにせよ、初期マルクスに還るにせよ、あるいはローザ・ルクセンブルグやルカーチを再発見するにせよ、グラムシを発見するにせよ、自己のアイデンティティーをルーツ探しで再建しようという志向であった。
 それはおそらく避けることのできない迂回路だったのだろう。スターリン批判以後の思想的再建は、この迂回路を通ることなしには不可能だったといまも私は思う。それほどボルシェヴィズム(ロシア・マルクス主義)の支配による左翼思想の荒廃は根深かった。そして、しかし、この「原理主義」的迂回路によっては、荒廃を克服することは不可能だったのである。なぜなら皮肉なことに、ボルシェヴィズムもまたひとつの「原理主義」いがいのなにものでもなかったからだ。原理主義によって原理主義を克服するという試みは、要するにセクト間の正統派争いでしかない。そして埴谷雄高がとうの昔に指摘しているように、異端もまた正統と対立する過程で、正統と同じ貌を身につけてしまう。60年代の高揚を担ったすべての「新しい」党派は、ボルシェヴィキであった。
 スターリン批判をくぐるなかで私たちは、時代が大きく変わり始めたということを実感した。しかしその時代はまた、キューバ危機にはじまりアルジェリア戦争にヴェトナム戦争がつづく時代でもあった。時代が変わり始めたという実感と、戦争と革命の時代は不変である、という実感が私一個のなかにも混在しぶつかり合った。
 おそらく私(たち)には、この国の、マルクスのいう意味での「交通形態」にどのような変化がおこっているのか、このときほとんどわかっていなかったと思う。五〇年代のすえに、当時は大判だった『ニューレフト・レヴュー』を私は読んでいたが、マスメディアや、とくにTVにつよい関心を寄せるその編集に、なんとなく馴染まなかった自分を思い出す。
 江藤淳は「『ごっこ』の世界が終ったとき」というエッセイのなかで、戦後の日本は「ごっこ」の世界で、全共闘も反戦青年委員会もベ平連も「革命ごっこ」をやっていたにすぎず、三島由紀夫の盾の会も「ナショナリズムごっこ」をやったにすぎないと揶揄した。それを読んだとき私は、なんとなく急所をつかれたようなイヤな気分になったのを覚えている。もちろん「ごっこの世界」を生んだのは、江藤がいうように自分の運命をアメリカにゆだねた「戦後」のせいではなく、スペクタクルの社会というこの国にとって未知の状況にわれわれが対応し得なかったことに理由があるのだが。
 スペクタクルの社会では、どんな急進的な行動も一片の情報として消費されてしまう。急進的な運動のなかにいながら、たえず徒労感にさいなまれていた自分を思い出す。スペクタクルの社会を対象化できなかったところに、「新左翼」がついに「新」でありえず、「真正」左翼でしかなかった原因の一つがあったように、私は思う。(未発表)