1
「転機」は突然にやってくる。だから転機なのだと言えないこともないが、しかし後になってふりかえってみると、やはりそこには起こるべくして起こったと納得できるようないくつかの前兆、いくつかの前提、そしてひとりひとりの人間のなかにその転機を生み出す経験が蓄積される過程というものがあったことに気がつく。1960年代の後半に生まれた全共闘・反戦・べ平運の運動は、わたしにとってまさにそのような「転機」なのであった。では、その「転機」の内容はなにかといえば、やっぱり〈党〉はダメだ、というひとことにつきる。〈党〉に集約されてしまうのではない運動か政治運動・社会運動の主体にならなければダメだ、ということである。
わたしの戦後のあゆみは日本共産党とともにあった。50年から61年のあいだに除名されて復党し、また除名されて復党するというようなことはあったが、党にかえるのは自明なことと思えた。どんなに批判をもちながらも、この党を変える以外に革命に参加する道はないと信じていたのである。文字どおり日本共産党は〈唯一の党〉なのたった。だから55年に被除名者として六全協をむかえたときも、復党することにためらいはなかったのだが、しかしそのときわたしの胸の底に、五年におよぶ分裂のなかで、この党の実態を見てしまったという苦い思いは重く沈んでいたのである。そして翌年のスターリン批判は、この党の実態がじつは特殊日本的なものではなく普遍性をもっているのではないかという疑問をわたしに抱かせることになる。わたしはその頃ぞくぞくと出版された、たとえばアーサー・ケストラーの『真昼の暗黒』、イグナチオ・シローネたちの『神は躓く』、ジャン・ヴァルチンの『夜をのがれて』というような、当時の言葉でいえば「反共もの」をむさぼるように読んだ。また栗原登一(太田竜)がガリ版で出版した「トロツキスト文庫」も片端から読んだ。しかしトロツキーの著作は、たとえば『レーニン死後の第三インターナショナル』などに大いに共鳴しながらも、それでいまの問題が解決できるとは思えなかった。政治路線ではな〈党〉というものの体質にこそ最大の問題があるというのが、わたしの経験的な結論になっていたのである。
1960年の安保闘争は、わたしのこの考えをますます固くさせた。だからこの安保闘争をはさんで党を二分したいわゆる「綱領論争」に、わたしはあまり関心をもてなかった。わたしはもっばら〈党改革派〉であった。61年の第8回党大会を目前にして、春日庄次郎や内藤智周ら〈構造改革派〉が党を出て「社会主義革新運動」をつくった。わたしは津田道夫とともに民主的で自由な討論を訴える声明をばらまいて除名された。いわば自殺である。もうこの党にもどることはない、とこころに決めたのである。わたしは「社革」にも参加しなかった。それは、日本の共産主義運動への批判は、綱領や政治路線のレベルでの議論では決着がつかないと考えていたからである。その頃、わたしは一つの政治文書を書いた。1961年9月18日の日付をもつ「いま、なにが必要か」と題したその文章のなかからいくつかのバラグラフを引用しておく。
「げんざい、日本の共産主義運動をとらえている分裂の過程は、たしかに日共第八回大会前後の綱領と党内民主主義の問題での対立を直接の契機としており、現象的にはそれが、多くの場合、綱領をめぐる対立という形をとって現われ、また、参加者の少なからぬ部分さえが、もっぱら綱領における対立に決定的な争点を見出すという現状にもかかわらず、しかしこの分裂の真の姿は、いわば日本共産党四十年の歴史のなかに、特殊的には厳後十六年の歩みのなかに含まれるすべての問題の政治的・思想的解決への組織的な努力というところにあるのであって、すべてを綱領上の次元でしか考えられない不毛の綱領主義は、この分裂がそのなかに秘めている無限に豊富な思想的・政治的可能件をくみとることができないのである。」
「春日庄次郎は、党内民主主義の破壊の原因を、『誤った路線にたいする幹部の異常な執着』として描き出しているが、この個人的性格からの説明は一定の説得力をもった説明にはなり得ても、そこから出てくる将来の見とおしは、いぜんとして『誤った』路線にたいする『正しい』路線の対置、一つのグループから他のグループへの党内ヘゲモニーの移動という範囲を出ず、党内民主主義の問題は、またしても少数派の権利主張という形でしか受けとめられないことになろう。」
「ここでは、まず綱領、規約を作り、それを基準にして『先進部隊』を結集することが『さしせまった課題』として提起されている。旧い路線に対する『新しい』路線、誤った綱領に対する『正しい』綱領の対置、そんなことで今日の革命運動の危機が乗りきれるとでも思っているのだろうか。」
「今日、まず最初に打ち破られるべきものは、まさにこの『党よ、指令を』という思考様式なのであって……」
「いま、われわれにとって緊急に必要なことは、すべての戦線のそれぞれの分野に、現場に密着した共産主義者のグループを結成することである。そこで、非共産主義者との真の民主主義的関係を作り出しながら、その戦線のすべての経験、すべての課題を総括し、……」
カビの生えた文章からながながと引用したのは、60年安保闘争の敗北から一年の後に、十五年におよぶ日本共産党の長いトンネルを抜け出したときの、わたしの出発点を確認しておきたかったからである。
2
しかし出発点がつねに明確であるわけではない。そこには新しいものと古いものの尻尾が入り組んでからみあっている。わたしの場合ももちろん例外ではない。一方では綱領主義的な思考――それが「前衛主義」の一つの特徴なのだが――を批判し、「現場」の重要性を認識しながら、その反面では、まだまだ「真の」とか「新しい」とかいうほとんど無意味な形容詞をつけて、〈在るべき党〉に未練をもちつづけてもいたのである。それは「党の体質」というような言い方によくあらわれている。あたかも「良い体質」の党がありうるかのように。問題は〈党〉そのものだったのである。その未練が決定的にふっきれ、本当の転機がわたしにおとずれるのは、1960年代後半の一連の運動のなかからであった。その時代――まさに「一つの時代」と呼ぶべきその日々を、わたしは共産主義労働者党員とベ平連の一員として過ごした。
その時のわたしの意識は、党員として大衆団体に属し、それを党的に指導するという例のフラクション活動の原理とはまったく異なったものであった。わたしは「二足のワラジ」を履いていたのである。べ平連のなかでは、わたしは単純に一人の市民運動家であった。
ベ平連を抜きにしては60年代の運動は語れないと、いまでもわたしは信じている。「市民運動」という言い方に違和感をもつ人は、当時もたくさんいたし今もいないわけではないが、「市民」というカテゴリーがなぜこの時代にとつぜん運動のなかに登場してきたのかという問題は、「市民」という言葉への好き嫌いで等閑に付してしまっていいものではない。「市民」の運動への登場は、60年代にこの国が大衆社会の爛熟期をむかえたことと不可分である。ベ平連はこの60年代という時代が生み出した時代の子であった。そしてその運動的なバネは、いうまでもなくベトナム戦争にほかならなかった。テレビをつうじてベトナム戦争が「お茶の問にはいってきた」といわれたように、テレビやグラフ・メディアの圧倒的な普及を抜きにして、「市民」の運動への登場はありえなかったのである。この時、日本は情報化社会に突入しはじめていた。そして権力の側もまだ、マスメディアの多義的な力を十分には認識していなかった。だからこの情報化社会には、まだいたるところに裂け目があり、その裂け目があたらしい運動空間をつくりだしていた。ベ平連の「マスコミ好き」は当時おおくのオーソドックスな運動家から胡散臭いものとみられ、顰蹙をかったのであったが、そしてその反応にはある種の正しさがなかったとは言えないが、しかしそこにはこの新しい状況への模索的な対応というものもあったのである。マスメディアが権力によってほぼ全般的に掌握され、それ自体がひとつの権力と化してしまった現在と、それはまったく同じとは言えない。
さてそれでは、この時運動に登場した「市民」とはいったいなんだったのか。ベ平連のデモで出会う人びとは、勤め人であり、商店主であり、主婦であり、学生であった。数は少ないが工場労働者もいた。労働から解放された時間をかれらは運動に使ったのである。そしてこの余暇の時間において、労働者も主婦も学生も区別はなかった。当時、論壇では「経営学」だの「レジャー論」だのがはなばなしかったが、このポスト・フォーディズムの労働力再生産の資本戦略にたいし、本能的にノーという契機がかれらを「市民」というかたちで運動に参加させたと言えないだろうか。
このような「市民運動」にたいし、生産点からの逃亡とか街頭主義という批判がオーソドックスな労働運動の側から投げかけられたのは当然である。そしてこの批判は反戦青年委員会の運動にもおなじように向けられた。また「市民」というカテゴライズは階級意識の解体に通じるという批判もあった。しかしこれらの批判は、いぜんとして古くさい労働組合運動論や階級意識論からのものでしかなく、資本の新しい戦略への対応という点ではるかにおくれていたと思う。
この時、共労党もまたみずからを「ベトナム反戦派」と規定し、すべての情勢をそこから見ることにみずからの存在理由を見出していたのだが、しかし状況への関わり方においては、べ平連にはるかにおくれていた。それはこの時代に社会やそこに生きる人びとの意識が大きく変わり、旧来の政治権力を中心にものごとを考える「マルクス・レーニン主義」では、この変化をつかむことができなくなったことに原因がある。人びとは、プロレタリアートが権力を握ればすべては解決する、というような神話をもはや信じなかった。人びと、とくに若者がもとめたのは、国家の革命だけではなく生活を変えることであった。人と人との関係を変えることであった。人びとは自分の日常生活を管理し抑圧する小さな権力、いわば社会的諸権力を意識しそれと抗いそこから逃れる行動をえらびはじめた。ヒッピー、ロック・ミュージック、そしてアングラ演劇……。そして人びとは、小さな権力に抗う行動をとおして、国家権力の暴力性を肉体的に体験していった。生活変革派と革命派をへだてる壁は、ベトナム反戦運動のなかで急速に消えていった。
そもそもはズブズブの「平和と民主主義派」として出発したベ平連が、いくつかの曲り角を分裂もせずにくぐりぬけ、十年間の歴史のなかで一つの反権力運動にまで変身していったのには、この行動のなかでの体験の共有ということが決定的な意味をもっていた。その意味でベ平連運動は、「経験論」的な運動だったと言うことができる。
3
〈党〉は目前の課題に対応できないというのが、わたしのたどりついた結論であった。ここで「目前の課題」というのは、さきに言ったような「人びとの日常生活を管理し抑圧する小さな権力」にたいするたたかい、というような意味である。それはフェリックス・ガタリが1970年代になって「ミクロ・ポリティクス」と呼び、それへの対抗の戦略を「分子革命」として構想したところのものである。ガタリやドルーズが本格的に日本に紹介されたのは80年代にはいってから、それもポスト・モダン論議のドタバタ劇にまぎれてだったが、かれらも、またかれらに先行するミシェル・フーコーの権力論も、いずれもフランスの1968年5月の体験を抜きには構想されなかった。そういう意味では、われわれの「転機」もまたあの時代の世界的同時性をもった運動体験の経験化であったのである。
なぜこの時期に、国家権力のような「大きな権力」だけではなく「小さな権力」、フーコーの言い方を借りれば、個人を対象にし、個人というものをその最も日常的な生存の網の目のレベルまで追求していって、捉え、監視し、管理する「牧人=司祭型の権力」が問題になってきたのか。そこにはおそらく従来の「国家と市民社会」というパラダイムではとらえられなくなった支配の構造の変化があっただろう。この変化に〈党〉は対応できなくなったのである。そして他方には、この「小さな権力」を放置し、あるいは単純に利用したために、革命後の社会がどのように歪曲されたかを、人びとは理解しはじめたということもあっただろう。
とは言っても、わたしはあの時代の経験をフーコーやガタリによって総括しようなどとは毛頭思わない。わたしにとってはレーニンが、なかんずく『何をなすべきか?』のレーニンこそが問題なのであった。「一言でいえば、どの労働組合の書記でも、『雇い主と政府とにたいする経済闘争』をおこなっているし、またおこなうことを助けている。ところで、こういうことはまだ社会民主主義ではないこと、社会民主主義者の理想は、労働組合の書記ではなくて、どこでおこなわれたものであろうと、またどういう層または階級にかかわるものであろうと、ありとあらゆる専横と圧政の現われに反応することができ、これらすべての現われを、警察の暴力と資本主義的搾取とについての一つの絵図にまとめあげることができ、一つひとつの些事を利用して、自分の社会主義的信念と自分の民主主義的諸要求を万人の前で叙述し、プロレタリアートの解放闘争の世界史的意義を万人に説明することのできる人民の護民官でなければならないということは、どんなに力説しても力説したりない」という一節をふくむしーニンの前衛党論を、わたしは敗戦直後に、20歳そこそこのアタマに神山茂夫からイヤというほどたたきこまれていたのであった。わたしが越えなければならないハードルは、あの一冊の本のなかにさえ無数にあった。わたしはそのハードルの一つ一つを自分の経験と無言の問答を重ねながら乗り越えていった。
そしてもう一つの強烈なパンチはソルジェニーツィンからやってきた。『収容所群島』――わたしはこの本を読まないで社会主義だの共産主義だのを云々する人間をまったく信用しない――の衝撃もさることながら、党をめぐるソ連作家たちの精神構造を赤裸々にあばきだしたかれの自伝的な作品『仔牛が樫の木に角突いた』が決定的であった。「プロレタリアート独裁」はなぜかくも愚劣な小心かつ傲慢な「ソヴェト的人間」の群れをつくりだし、かくも非人間的な「作家同盟」のような組織をつくりだしてしまったのか。しかしこの場合には、その元凶は党だという結論に達するのは、わたしの50年代の経験に照らしてそれほどむずかしいことではなかった。
〈党〉こそ諸悪の根源である。――これが60年代の経験を総括したわたしの結論だった。「どんな国家であれ、国家は一つの災厄である」というエンゲルスの言葉をもじって言えば、〈党〉は民衆の解放運動にとって、たとえそれがどんなに「良さ体質」をもったものであれまぎれもなく一つの「災厄」なのである。たしかに〈党〉が必要な状況というものはあるだろう。たとえばレーニンが『何をなすべきか』を書いたあの状況である。しかしそれを一般化することはできない。レーニンは国家の死滅を主題にした『国家と革命』では、〈党〉について一言もふれていないのである。コンミューンに〈党〉は必要でないのだ。〈党〉はブルジョア議会主義のなかでか、あるいはプロレタリア独裁と称する反人民権力としてしか存在できない。それは国家の死滅にいたる人間の解放の最大の障害物にほかならない。
あえてベルンシュタインの真似をして、過程にすべてがあると言おうとは思わないが、わたしはメシア主義に反対である。運動=過程のなかにしか人間の解放は存在しない、つまり静止した「状態」としての解放などというものはない。解放は運動のなかに成立するコンミューン的な人間関係のなかにしかない。そしてそういう人間関係の積み重ねのうえにしか国家の死滅という「自由の王国」は実現しないのである。(『インパクション』59号、1989年8月)