最近の、と言ってもここ数年のあいだの、もっと正確に言えば「湾岸戦争」と「ソ連崩壊」以後に顕著になった右翼的言論の突出を眺めながら、感じていることを書いておきたい。
「自由主義史観」の藤岡信勝にせよ、彼が「大東亜戦争肯定論」者として距離をおくポーズをみせる渡部昇一にせよ、その渡部が世紀の大発見と激賞する「コミンテルン史観」なるものの発見者・谷沢永一にせよ、この人たちに代表される「右の面々」の発言に共通するのは、自己省察の決定的な欠如である。敢えて言えば、言論の垂れ流しを恥じる感覚をまったく持ち合わせていないのではないか。どんな言論にせよ私たちは、ある思念を言葉として表そうとするとき、ほんとうにそう言い切ってしまっていいのか、言い切れるのかと、ふと立ち止まりためらう一瞬があるはずだ。だが、これらの面々の文章からそういうためらいを感じ取ることはできない。理論的には無反省であり、品性という点では下品だ。
しかしそれにもかかわらず、彼らの言論がジャーナリズムのある部分に迎えられ、相当数の読者を獲得できるのはなぜだろうか。もちろん彼らの言論が、現在の支配層の利害に沿って一部のジャーナリズムの厚い庇護を受けているということは大きな要因だ。だが、それだけではあるまい。「国民」のなかに彼らの言論に共鳴する何かがあることを否定できないと、私は思う。その「何か」をあえて名づけるとすれば、それはおそらくナショナルなものにたいする郷愁とでも呼ぶべきものである。これはそのままナショナリズムと同じではないし、まして大東亜戦争肯定論でもない。それは現状に対するやりきれない気持ちであり、それが政治的にも社会的にも表現できないことへの苛立ちが、その「何か」を支えている。
その点で、村井淳志の「全調査・自由主義史観研究会の教師たち」(『世界』四月号)は注目すべき実態を伝えている。彼は研究会に参加している現場教師四十六人に取材してその結果を、「左翼運動からの転身」者、「孤立している教師」、「天皇への態度の明確化を期待」する者、「二項対立への収斂を危惧」して脱会した教師たち、の四つのタイプに分けている。このうち第二のタイプと第四のタイプは共通した部分を多分にもっている。はっきりと右翼的な立場を表明している者をのぞくと、そこに共通しているのは「これまでどの教育団体にも所属した経験はなかったが、教科書の近現代史記述や、組合教研で評価される授業にはかねてから疑問をもっていた」というタイプである。組合運動にたいして何の期待ももてず、むしろタテマエ化した平和教育に違和感をもち、しかもその違和感を積極的に自分の言葉で表現できないままに苛立っていた現場の、ごくありふれた教師の像がそこから浮かびあがってくる。そこで私は考える。はたしてわれわれの言葉は彼らにとどくのだろうか。それより前に、彼らにとどく言葉をわれわれはもっているのだろうか。彼らとは、もちろんこれらの教師たちにかぎらない。
三十六歳の高校教師はつぎのように言っている。「いつも先輩や周りの教員たちからの圧迫感、圧力を感じていました。私は全共闘世代が定年退職しなければ職場は変わらないだろうなと諦めていたんです。」――この高校教師が前世代の同僚から受ける圧迫感は、全共闘世代がいまだに身につけているかもしれない糾弾調の批判というようなものではないだろう。それ以上に彼を圧迫するのは、全共闘世代がもっている共同性に対し、自分たちがどのような共同性も形成できないでいることへの敗北感ではないだろうか。もちろん全共闘世代の共同性などというものは幻想でしかない。しかしその幻想を支えている体験はあったのだ。じっさいに運動に参加したかどうかに関係なく、六〇年代後半を学生として過ごした者だけがもつ共通した時代体験のようなものを、その後の世代はもつことができなかった。
共通体験をもたないということは、そのうえに幻想的に成立する共同性をもてないということである。孤立した教師というのはなにも特別なものではなく、高度消費社会のなかでばらばらに切り離され、消費行動を通じてだけかろうじて社会とのつながりをたもっている民衆のごくありふれた像なのである。どのような共同性も形成できない彼らはどこにも帰属しないし帰属できない。しかし彼らは単独者として生き抜くほど強くはないし自立してもいない。そこから彼らのアイデンティティー探しの彷徨がはじまるだろう。そこで出会ったのが水増ししたナショナリズムにすぎない「自由主義史観」だったというわけだ。共同性への探求はつねにナショナリズムへと回収される危険をもっている。とくにナショナリズムを批判する側が、これらの「孤立した人たち」の心にとどく語法をもっていない場合には、その危険は大きい。
ふりかえってみると、日本の左翼はナショナリズムに正面から向き合ったことが、ほとんどなかったのではないか。戦前のマルクス主義運動は、後に竹内好がそれらを「近代主義」に分類したように、民俗/民族的なものを問題化する契機を欠いていた。それが一九三五年前後の大量転向を生む原因となった。おりから日本はナショナリズム全盛の時代にはいりつつあった。転向者の大部分は、「日本と日本人」の発見をバネに国家主義への道をつきすすんだ。中野重治などほんの少数の人だけが、「日本的なもの」への批判を通して「日本の革命運動の伝統の革命的批判」の道を歩んだ。その中野は日本主義流行のなかで先頭をゆくイデオローグとして登場したかつての共産党指導者・浅野晃の発言をとらえてつぎのよに書いた。
「浅野は日本共産党のかつての立派な指導者だった。(中略)しかし当時の彼の書いたものなどから推量して考えると、彼等こそ『民族的なもの即ち反動的なもの』という物差しで『民族』をぶちのめしていたのではないのか。」「私は彼らがかつては立派な指導者たちだったことを知っている。けれどもただ書物をとおしてのそれ、彼らが祖先からわが身に直接受けついだ文化と芸術とについて、公式表にもない独自の公式でそれを『批判』し終ったなどと考えていた点が今ごろそんな錯覚を感じねばならぬ彼ら自身の一つの原因なのではないのか。」(「文学における新官僚主義」、『新潮』一九三七年三月号)
これはみごとな「歴史の再審」をふまえた日本主義批判である。この頃の中野重治の民族主義批判の評論からは、学ぶべきことが多い。彼はこのとき、「祖先からわが身に直接受けついだ文化と芸術」について語りながら、それを日本民族のなかに閉じこめなかった。彼はこのとき、日本民族とその文化についてと同時に、朝鮮民族について、台湾民族について、アイヌ民族について、その独自性と文化についてくり返し書いているが、いまは指摘にとどめる。
いままでのナショナリズム批判の言説は、ほとんど民衆のはるか上辺をかすめて過ぎたにすぎない。ナショナリズムが民衆の運動であったように、ナショナリズムを超えるのもまた現実の民衆の運動なのである。
(『反天皇制運動NOISE』No.35, 1997年4月15日号)