戦後50年と『物語戦後文学史』



 『物語戦後文学史』を連載している頃、本多さんは、昔、高校時代に岩城準太郎の『明治文学史』を読み、日本の近代文学の混沌のなかからの生誕と生立ちのアウトラインをはじめて知った時の喜びを語りながら、自分の『物語』もいつか将来、どこかの田舎町の文学好きの少年がこれを読んで、戦後文学の混沌の中からの生誕と生立ちの大体がこれでわかったとひそかにうなずいてくれるようなことでもあったらとても嬉しい、と書いた。一九六三年のことである。
 今年は戦後五十年ということで、出版や催しにいろいろの企画が並んでいるが、折りにふれ若い人たちは五十年前というものをどう感じているのかなと思う。一九四五年の五十年前は当然一八九五年で、それは明治二十八年、日清戦争の終わった年だった。太平洋戦争が終わったとき私は十八歳だったが、日清戦争などというのはもちろん遠い冥暗の彼方のできごとであった。いま十八歳の若者にとっても、五十年前の戦争と終戦はやはり想像を絶するできごとにちがいない。
 こんなことを特に本多さんの『物語戦後文学史』に関連して思うのは、これが『週刊読書人』に連載されていた時期が、期せずして戦後の大きな節目と重なっていたのに、あらためて気づくからである。『物語戦後文学史』は『週刊読書人』の一九五八年十月十三日号から六三年十一月二十五日号まで、足掛け六年、一四六回にわたって連載された。その間私は、東京と逗子のあいだを、おそらく百回は往復したに違いない。まだファックスなどというものは、影も形もない時代であった。
 週刊というペースで、しかも一回が八枚から九枚という、そうは気軽に引き受けられるものではない連載を、本多さんがほとんど躊躇なく引き受けてくださったのには、間違いなく「時」というものがあった。あれほど手ごたえの十分だった「戦後」が、どうしたわけか霞んでよく見えなくなってきたという不思議、驚き、戸惑い――その理由を自分なりに尋ねて見たいという本多さんの日頃の思いに、この企画は運よくぴったりと出会ったと言えるだろう。本多さんがこの連載を始めた動機は、「変化」についての繊細な感覚だったが、その「変化」を見る本多さんの視点は、俺はあのとき確かにたとえ一瞬にせよ本当の青空を見た、という不動の「戦後」なのであった。流されない変わらないという点では本多さんも埴谷雄高と並んで双璧をなす。
 私は後に『図書新聞』の「名著の履歴書」という連載に『物語戦後文学史』の思い出を書いたが、そこには「この六年間に、横須賀線は三十分間隔から十五分間隔になり、鎌倉から逗子にかけての丘陵はたいらに削られつぎつぎに家が建ち、道には自動車の流れが続くようになった。そして山かげにぽつんと一軒立っていた本多さんの家のまわりにも、つぎつぎに新しい家が建ち、そこに一つの聚落ができてしまった」という一節がある。じっさい月に二度、三度と東京から出向く者の目には、この風景の変化は痛切であった。それは中野重治が『甲乙丙丁』で微細に描き出した東京オリンピックを前にした大変貌の時代だった。それは「戦後」を思い出させるものを、目の仇にして一掃しようとするかのような、記憶への掃討作戦の始まりのように思われた。
 そういう時代の中で『物語戦後文学史』は書きつづけられた。激流に抗してなどという悲壮感のひとかけらもない、それ自体が悠然と流れる大河のように。じっさい本多さんの歴史は、現実の一年間を二年かけて書くというふうで、これではいつまでたっても現在には到達しないよ、というのが編集部の茶飲み話なのであった。
 もし一九四五年の敗戦の時、八十五歳ぐらいの、日清戦争や樋口一葉の『たけくらべ』のことなどについての自分自身にかかわる独特で頑固な記憶を持ちつづけている老人がいたら、どんなだっただろうと、本多さんの今と重ね合わせて考える。もし生きていたらの話だが、それはさしずめ森鴎外ということになる。八十五歳の鴎外が若者に「戦後」を語るという図ははなはだ魅力的ではないだろうか。ところが八十五歳の本多さんは語りつづけているのである、『物語戦後文学史』という物語を。
(『本多秋五全集』月報・5、1995年4月)