自由主義史観研究会が発足した一九九五年七月から今日までの、歴史教育をめぐる保守派の二年半のあゆみを眺めると、いろいろなことが見えてくる。そもそも自由主義史観研究会は建前としては、自分を保守派とは異なるものとして出発したはずだ。彼らが発足当初に表明したのは、「大東亜戦争肯定史観」にも「東京裁判史観」にも与さず、「イデオロギーにとらわれない自由な立場からの大胆な歴史の見直しと歴史授業の改革を、多様な形で進めることを目的」とするというものだった。その具体的な主張のなかにあった「健全なナショナリズム」とか「司馬史観」の称揚などにしても、それらは彼らの「自由主義者」としての立場とそれほど矛盾するものではない。
このような主張は、戦後の民主主義教育のありかたに疑問を感じている中学校、高校の現場の歴史教師たちのある部分に、共感をもって受け取られただろうことは想像に難くない。しかしこの「運動」は一年あまりの後に、中学校歴史教科書の従軍慰安婦強制連行問題の記述に反対するという課題を中心にかかげることによって、急速に変質していった。会の代表・藤岡信勝たちは、彼らが建前としてかかげた「自由主義史観」とは相容れないはずの西尾幹二たちと手を結んで「新しい歴史教科書をつくる会」を結成し、教科書における従軍慰安婦問題をきわめて扇情的に提起して、マスメディアにどっと登場するという戦術をとり、それは一時的に成功したかに見えた。またこのような彼らの姿勢は、実際の行動形態としては急速に右翼に接近して、教科書から従軍慰安婦についての記述を削除する要求決議を地方議会で組織していくという道に進んだ。そういうなかで、教育的な関心から「研究会」や「つくる会」に近づいていた非政治的な現場教師たちが離れていくという状況が出てきた。「研究会」の活力も失われた。一例を挙げれば、インターネット上の「研究会」のホームページは昨年六月ごろからまったく更新されていない。
このような状況を前にして、たとえば藤岡のように、歴史教科書を作るといいながら、日本の歴史を語るのに司馬遼太郎しか頭に浮かばないようななんとも情けない、そして問題を正当な討論のルールに従って深めるのではなく、マスコミ受けをねらって扇情的にしか扱えない人物のかわりに、もっと「学問的」な装いをもてるような人物の登場をもとめるつぎのステージへの転換がはじまったといえるだろう。そのような要請に応えて「新しい歴史教科書をつくる会」のイデオローグとして登場したのが坂本多加雄だ。
ではこの坂本の登場によってひらかれた新しいステージとはどういうものかというと、それをひとくちで言えば、自虐史観批判といういわばネガティブなところから出て、もっとポジティブに日本の歴史(彼の独特のカテゴリーを使えば「日本の来歴」)を語ることのできるような統一的な歴史観をつくるということである。そして坂本が彼の著書『象徴天皇制度と日本の来歴』(都市出版刊)で言うところを読めばわかるように、このような要請に応える歴史観は、もはや「自由主義史観」がたとえ建前としてだけであったにせよもっていた多様性の容認とは対立する、国民統合の基軸としての「象徴天皇制史観」なのである。
本来ならばここで坂本の著書に即してその検討をおこなうべきところだが、それにはすこしスペースが足りない。私は去年の十二月にひらかれたフォーラム90sのシンポジウムでそれを報告し、その記録「自由主義史観の現在――坂本多加雄の『象徴天皇制度と日本の来歴』を中心に」が私のホームページ(http://www.shonan.ne.jp/~kuri/jiyushugi.html)に載せてあるので、関心のある方はご参照いただきたい。
ここで私が、いまとなっては小さなエピソードにすぎない「自由主義史観研究会」の歩みを振り返ってみたのは、あらためて教科書問題や歴史観の問題をとりあげるためではない。一九九六年の八・一五集会で私は、大江健三郎は「曖昧な日本の私」と言ったけど、いまやその日本は曖昧ではいられなくなったと語った(「曖昧さから脱却する二つの道――戦後五十一年目のわれわれの選択」、『月刊フォーラム』一九九七年一月号)が、そのような状況はいまはもはや誰の目にもあきらかになっている。そのような状況のなかで、戦後民主主義の中核を担った「自由主義者」に、何がおこっているのか、そしてわれわれはそれにどのように対したらいいのかを考えたいからである。
もちろん「自由主義史観研究会」で自由主義を代表させたり、共産主義からの転向者でしかない藤岡を自由主義者と呼んだりしたのでは、戦後の米ソ冷戦のなかで「第三の道」を模索しつづけた真正のリベラルの怒りを買うことは当然だろう。私も藤岡のいう自由主義や自由主義史観をまともに信用するほどナイーブではないが、しかしたんなる客寄せの看板にすぎなかったとしてもその「自由主義」に引き寄せられた現場の教師たちがすくなくなかったこともまた事実なのである。
発足からわずか二年あまりのあいだに、初発の理念(自由主義)にもかかわらずあれよあれよという間に右翼の走狗と化してしまった藤岡たちの「運動」の歩みは、現在における自由主義の困難性を戯画的にあらわしているのではないだろうか。
たとえ客寄せの看板にせよ自由主義を彼らが掲げたのは、湾岸戦争とそれにつづくソ連の崩壊によって、世界は自由主義の勝利に終わった、これからは自由主義の世の中だと安易に考えたからだろう。しかし米ソ二極構造の崩壊は自由主義に勝利どころかきわめて困難な状況をもたらしたのである。二極構造の存在は、そのなかでの自分の位置の如何を問わず、自由主義者に「権力」と自分との距離をつねに意識させる決定的な要因であったのだが、それがなくなったのである。
私は、藤岡たちのようなエセ自由主義者ではない真正の自由主義者たちが、この状況のなかでも、権力からの自立を維持するためのストイックな態度を安易に放棄してしまったとはおもわない。しかしかつての二極が緊張を生み出す状況においては、一極が崩壊してかつてのような緊張が消滅したいまほど、「自立」の選択はじつはそれほど難しくはなかったのである。緊張が消滅した現在、「なにを言っても自由だ」と誰もが信じている。しかし同時に、「すべての言論は政治的な意味をもっている」というのもまた、この「自由」な言論の時代にますます重みを増すテーゼである。
私がこんなことを考えたのは、鶴見俊輔の『期待と回想』(晶文社刊)における彼の従軍慰安婦についての発言を読み、それを批判した川本隆史の「自由主義者の試金石、再び」(『みすず』九七年九月号)を読み、さらにこの川本の批判に「激怒」した藤田省三の反論(同、一一月号)を読み、また、戦後の文学者のなかで骨のある自由主義者と私が評価する安岡章太郎と加藤典洋の対談「戦後以後『ねじれ』をどうする」(『群像』九八年一月号)での安岡の発言を読んで、暗い衝撃を受けたからである。鶴見も安岡も無縁の人ではない。私には彼らにたいする人間的な信頼感もある。それだけに衝撃は怒りとはならず暗く苦く心に沈む。私はそれを個人の問題、あるいは「転向」だとか「変節」だとか、そういう文脈においてではなく、現在における自由主義の問題として、またそれにたいするわれわれの批判の方法、スタイルの問題として考えたいとおもった。
本来なら、ここからこの文章を始めるべきだったかも知れない。もし編集部が許してくれるなら、このつづきを書きたい。
(『反天皇制運動じゃ〜なる』1998年1月13日号)