「卑怯な人間」がいるのではない、「卑怯な行為」をした人間がいるだけだ、というのは意外なことにサルトルとレーニンに共通する人間観である。と言ったからといって、レーニンに実存主義的な面があったなどと主張したいわけではない。レーニンの場合、人を彼がどのような観念や思想をもっているかによってではなく、どのような行為によってそれを表現したか、あるいはどのような行為によってそれを裏切ったか――つまり観念によってではなく行為によって評価するという、徹底した唯物論的な立場に立っているのである。
これにたいし、人間は最初は何者でもない。「人間は後になってはじめて人間になるのであり、人間はみずからが造ったところのものになるのである」というサルトルの考えが厳密に言って同じわけではないが、両者には、二つの世界大戦をへだてて二〇世紀という時代が生んだきわめて時代的な人間観という点で共通した性格がある。それは、もはやかつてのような安穏な人生などどこにもない「異常な時代」に、状況に翻弄され有為転変を重ねるしかない人間を、どこで受け止め、どのようにしてその人間に「信」をつなぐことができるのか、という問題なのである。
なぜこんなことを最初に言い出したかというと、日本の左翼のなかには、伝統的に一枚岩的な人間観が支配していると思うからだ。英明な指導者は、生まれたときから英明で人生にひとつの汚点もなく、転向した人間は生まれたときから裏切者でその人生にはどのような評価すべき事績もない、というわけだ。けっきょく、死んでみなければわからないので、ある種の指導者のように死んだらとたんにボロくそに言われて歴史から抹殺されてしまう人間もあらわれる。古い中国のことわざに「棺を蓋〔おお〕いて事〔こと〕定まる」というのがあるが、なんとなくそれに似ている。これはなんとも寂しい話で、死んだ人間を顕彰するよりも、いま同時代を生きている人間とどのような「信」を結ぶかということにもっぱら関心のある私にとっては、どんなに右往左往して一貫性を欠くように見えても、やはり行動のなかで自分を表現しつづける人間を友としたい。
しかしここですぐにちょっとした難題にぶつかる。どんなにすぐれた思想をもった人間も、ときに行動においてとんでもないことをやらかす、という現実をどうするかということだ。サルトル=レーニン的基準から言えば、とんでもないことをやらかした人間はもちろんとんでもない奴だということになるが、それはそうだとして、ではそのとんでもないことは、彼の思想とどういう関係にあるのかと問う必要があるのではないか。そこで出てくるのは、「にもかかわらず」と「であるがゆえに」という二つの回答である。正しい思想にもかかわらずとんでもないことをやった彼は、思想を裏切ったのであるというのが第一の回答だ。第二の回答は、正しい思想とおもわれていたその思想自体がじつはとんでもないものだったのだ、というものだ。前者はヨヨギ的論理であり後者は吉本隆明的説明だと言えるかもしれない。
そんなにきれいに割り切れるのかというのが、ここで私がひっかかる点なのだが、これを詳しく展開するにはちょっとスペースがたりない。そこでこの問題はいちおう措いてつぎにすすみたい。
はじめになんとなく面倒なことをもちだしたのは、この人間観の問題が批判のスタイルにふかく関係していると思うからである。いま私たちがいちばん警戒しなければならないのは、「批判の全体主義」とでもいうものだと思う。「本質顕現論」と呼んでもいい。いままでネコを被っていたのがとうとう本性をあらわした、というアレである。この立場にたてば、当然にも批判は被っていた「ネコ」にではなく、隠されていた「本性」の暴露と糾弾に集中される。それは全人格的な否定と抹殺にまで行き着かないうちはなかなか止まらない。
もちろんこのような「ネコ」と「本性」の二元論はサルトル=レーニン的ではない。一人の人間が、時にとんでもないことをやり、時にすばらしいことをやる、というのが彼らの、おそらく経験的な認識だったのである。ではその「時に」とはどういうものかといえば、それは「状況」だと答えるしかない。
私は「続」の文末で「湾岸戦争と冷戦以後の世界でおこっている思想的な崩壊を、その根拠にまでさかのぼって解明したい」という私の関心を記しておいたが、「湾岸戦争と冷戦以後の世界」――これがここで言う「状況」なのである。湾岸戦争は、政治的にも軍事的にももはやソ連は存在しないにひとしい、ということを世界に認知させた。二〇世紀を二〇世紀たらしめた二つの体制の対立的共存という世界構造は終わった。人びとはそこに示された米国の圧倒的覇権の前に、茫然自失したのである。
衝撃は、この二つの体制、二つの思想、二つの政治的立場の対立のなかで、双方に批判的なスタンスをとりながら、一種の緩衝地帯を造ることに腐心したリベラルにとって、とくに大きかった。
ここで私が問題にしているのは思想としてのリベラリズムではない。その社会的な機能であり実践態としてのリベラリズムである。たとえばそれをウォーラーステインはこんなふうに描いている。――「リベラリズムは、右翼と左翼双方の政治的困難を、直接解決するものとして登場した。それは右翼に対しては譲歩を説き、左翼に対しては政治組織の必要を説いた。そしてこの両者に対しては忍耐を説き、長い目で見れば中道を行くことによって(誰にとっても)より多くのものが獲得できるだろうと説いた。」(「リベラリズムの苦悶」)
このような中道主義は、いかがわしいものとして両方の陣営から攻撃された。第三の道を追求するチトーはソ連にとってはアメリカ帝国主義の手先であり、アジアの非同盟主義はアメリカにとっては中国の別働隊なのであった。そして鶴見俊輔はマーフィー(駐日米大使)の手先と共産党から攻撃されたのである。しかし五〇年代の後半以降、このような中道主義を超えて、既成の両翼をともにするどく否定する自立主義が登場し、「リベラリズムの苦悶」の時代がはじまるのである。鶴見俊輔はこの自立主義に付かず離れずというかたちで「同伴」した。その時代を象徴するのが一九六七年二月におこなわれた吉本隆明との対談「どこに思想の根拠をおくか」である。ことごとに食い違うこの対談を発表当時に読んだとき、私はほぼ全面的に吉本に賛同した。それから二〇年ぐらいの年月をへだてて必要があって再読したとき、鶴見の発言のほぼ八〇パーセントに同感している自分を発見しておどろいた記憶がある。そして今回読み直してみて、鶴見の発言は吉本の自立主義なしには存在根拠をもたない、彼自身が自認するとおりの「同伴者」の思想だったことを確認した。同伴者が同伴すべき対象を失ったとき、彼は迷走する以外にないだろう。
もちろん私は、吉本自身がそれから遠く離れてしまった思想的な原理主義をもういちど復活すべきだなどと考えているわけではない。しかし鶴見のプラグマチズムなりリベラリズムなりが、その原理主義と「同伴」的に対峙していた時、間違いなく彼は「輝いて」いたのである。ここにはいま何が必要なのかを考える上でのひとつの手がかりがあるように思える。
とにかく、「本質顕現論」的批判ではない批判の仕方を追究していきたいし、運動のなかで共有していきたいと思う。湾岸戦争以後の、シーソーの一方がとつぜん消えてしまったために他方が跳ね上がり、その反動で傾いたもう一方にどどっと転げ落ちた中央にいた連中(リベラルと呼ばれた人たち)を、簡単に「裏切ったなー」とやっつけて、私たちの仲間をやせ細らせることはしたくない。しかし彼らに対する批判は、厳しく説得的におこないたい。そのためには、問題を個人の資質や倫理に収斂させるのではなく、状況論的かつ運動論的に「なぜそうなったのか」を解明する以外にないと思う。
(『反天皇制運動じゃ〜なる』1998年8月4日号)