このところしばらく風邪と花粉症で家にこもりきりになった。目がしょぼしょぼしてろくに本も新聞も読めない。そうなると安きに流れるのは人のつね、いきおい世の中の情報はテレビでということになる。おりしもムネオ疑惑からキヨミ問題へと、政治(?)がすべてのニュースとワイドショーを席巻した毎日である。それはほとんどの情報をテレビによって得ている多くの人びとに、政治がどのようなイメージとしてあたえられているかを考えるのに、とてもいい体験だった。
そこに描き出される構図は、世の中には善と悪、改革と反動しかないという二極主義だ。そして与党も野党もコイズミも駄目で、善と改革はもはやワイドショーのキャスターとコメンテーターが一身に担っているということらしい。この二極主義は単純明快であるがゆえに見せ物としては受け入れられやすい。しかしそれはいまこの国ですすんでいる「真の」改革を隠蔽してしまう。国旗国歌法、盗聴法、周辺事態法から有事法制、個人情報保護法へと、この国の改革は着々とすすんでいるのである。
むかしウリヤーノフというロシア人が、歴史的進歩の必然性はそれをめぐる二つの道のたたかいをとおして実現するのだ、と言ったことがある。ロシアが資本主義のトバ口に立っていた頃のことだから進歩という言葉は無条件で肯定されているが、この認識は鋭い。
改革なしにはもはやこの国は成り立っていかないということは、与党の大部分の政治家も知っている。抵抗勢力などというものはないのである。あるのは彼らの改革かわれわれの改革かという、二つの道だけだ。彼らはコイズミという口舌の徒をおしたてて、改革派対守旧派というワイドショー的パフォーマンスを演じて彼らの改革の真の姿を見えなくさせている。この二つの道の構図のなかでは、民主党も自由党も、彼らの改革の応援団あるいはお先棒担ぎにすぎない。
このようなマスメディアがつくりだすワイドショー的政治のバリヤーをうち破り、改革をめぐる二つの道のたたかいを鮮明にすることが必要である。われわれ自身の改革の道を鮮明に描き出すことが必要である。
(『反天皇制運動PUNCH』18号、2002.4.9号)