本誌(当時のタイトルは『インパクト』)が「反体制運動の理論と情報誌をめざす商業誌」(創刊号編集後記)として創刊されたのは、一九七九年七月一日。これは奥付の日にちだからじっさいは六月のいつかだっただろう。それは六〇年代の闘争の後始末からあたらしい運動の模索へと移行する、一種の混迷の時期だったように思う。内では救援が大きなテーマであったし、またその救援をめぐって総括が問題になるのも当然のなりゆきだった。総括の結論がちがっても救援にそれを持ち込むなというのは、タテマエとしてはまったく正しい意見ではあっても、運動の現場ではなかなかそのとおりにはいかないようで、運動の中心的な担い手たちは、その問題の解決に苦闘したが、そのなかから今日につながる多くのものを得たにちがいない。そして外にはパレスチナ解放闘争との連帯が、六〇年代のヴェトナムにかわって大きな焦点となっていたが、そこでも、ロマンチックとしか言いようのない武装闘争への思い入れがまだ横行していて、お前はリッダ闘争を支持するのかしないのか、などと踏み絵的な質問をつきつけられることもしばしばあった。(あの若者たちはいったい何処へ消えてしまったのだろう)
創刊からしばらくのあいだ、あまり忠実ではない読者という関係ですごしてきた私を『インパクション』にひっぱりだしたのは天野恵一である。天野と池田浩士と私の三人でやった「戦後左派ジャーナリズムの総括と展望」という三〇号(一九八四年七月)の座談会がそれだ。天野と親しくなったのはそれ以来のことだが、初めて会ったのはそれよりさらに数年前にさかのぼる。それは反日武装戦線の救援にかかわる会合で、会の最中だったかその後だったかさだかなことはおもいだせないが、なにかの話がきっかけで彼が「なにAA作家会議? あれはダメだな」と言い放ったのである。そのAA作家会議(日本アジア・アフリカ作家会議)の事務局長である私を目の前にして。だから、おーっ、この野郎……というのが彼の第一印象であったことは、まぎれもない事実だ。そしてまた彼は、旧全共闘の活動家にふさわしく、「市民」と聞いただけで鳥肌がたつという体質を頑固に保持しているのだった。
わたしはべつに個人的な思い出を書いているのではない。全共闘の経験にあくまでも固執してそのプラスとマイナスを思想化しようとする努力を手放さない世代と、代々木から共労党、ベ平連へと放浪しながら、やはりその経験から現在を考えつづけようとするロートルの世代とが、相互に反発する出発点をもちながらその後の歩みのなかで相互理解に到達するという構図は、もしかしたら八〇年代から九〇年代にかけての、思想的なそして運動的な、なんらかの可能性を示しているのではないかと思うのである。もちろんそれは、われわれが可能性を体現しているなどというのではない。時代がそのようなものとして推移しているということだ。雑誌『インパクション』もまた、八〇年代から九〇年代の半分を、一〇〇号を重ねてこの推移をたどってきたといえるかもしれない。
救援という活動はたんに超党派的であるだけではない。救援する対象と自分自身との距離をたえず意識せずにはやっていけない場なのである。つまり自分自身のポジションがつねに問われる。そしてこのことが、広い意味での総括を不可避にするわけだ。だからその総括は自分を棚上げにするわけにはいかない。そして、まず自分の体験を対象化することを通じてすすめられるこの総括の作業は、従来の党派的な総括論議とはまったく異質の地平をひらいた。全共闘がさいごに転落した「党派」という陥穽から這いあがって、おぼつかないながらも八〇年代の運動をあゆみはじめるうえで、この救援と自分自身に向かっての総括のもっている意味は、とても大きいと思う。『インパクション』は間違いなくそういう試みのための大きな場であり力であった。そういうおもいを私は一〇〇号をふりかえって強くもった。
このような時代へのアクチュアルな関係を持続しえたことが、一九九〇年前後の、左翼の崩壊現象のなかで、『インパクション』がむしろ逆に積極的な立場を確保できた原因の、すくなくともひとつであっただろう。たんなる理論雑誌でもなく、またたんなる運動情報誌でもなく、いわば運動と理論とがぶつかりあう思想形成の場として、これは機能することができたと思う。
われわれには、過去に向かっても、未来に向かっても、思い出し討論し考え抜かなければならないことがたくさんある。昨年は戦後五十年ということで、ジャーナリズムもにぎやかな様相を呈したが、今年はもうそんなことは知らないよという貌をよそおっている。だいたい戦後五十年を五十年間のこととして論じることに私は異議をとなえつづけてきたが、今年になってますますその思いは深い。いまの日本を日清戦争からの百年の延長上に置いて見ること、二十世紀の世界史の一環としてとらえなおすこと、と私はこの間言いつづけてきた。人はあるいは、あいつは昔のことばかり言っているというかもしれない。そうではないのだ。未来は過去に背を向けては見えてこない。未来は過去を通してしか見えないのである。
とにかく、民衆文化運動というような「運動」を通して積み重ねられてきた研究が、とつぜんカルチュラル・スタディーズになったり、サバルタン・スタディーズにせよクイアー・スタディーズにせよ、いずれもアカデミーとは無縁の、被抑圧者、少数者、被差別者の「運動」のなかで蓄積されてきた文化が、「スタディーズ」という名をくっつけて、ありきたりのアカデミックな「研究」におとしめられるのが、今日のはなはだ腹立たしい現実だ。そのまさに真髄をしめしたのが今年の三月に東大で開かれたシンポジウムだろうが、その一情景を上野俊哉が本誌で報告している。
「これまで発言をおさえられていた大学院生らを中心に会議全体の姿勢を批判する意見が相次いだ。『自分たちの発言をおさえておいて何がCS(カルチュラク・スタディーズ)との対話だ」とマイクを離さなかった学生に対して、何と数名の『学者』先生は『黙れ!』と恫喝した。どこのどいつだ? 場合によっては一発やったるかあと思ってふりかえると、冨山一郎、崎山政毅(ともに本誌編集委員―引用者注)など百戦の勇士たちが『黙るな、黙るな!』と大声でしっかり学生にエールをおくっていた。」(「CSなんて知らないよ」、本誌九九号)
いやー、快哉を叫びましたね。『インパクション』の編集委員諸君。あくまでもこの精神を忘れないでください。「一発やったるかあ」こそ、われわれの初心なのであります。
(『インパクション』100号、1996年12月)