いま、私たちがテレビや新聞で知らされるパレスチナをめぐるニュースは、その大部分が「自爆テロ」と報復攻撃というワンパターンの主題にかぎられている。そこではパレスチナ人の若者がなぜ命を捨ててまで占領者にたいする抵抗闘争をえらぶのか、イスラエル軍の武装ヘリコプターや戦車によるパレスチナ自治区への侵攻と殺戮がなぜ継続し一部の大国により許容されているのか、そしてなによりも「パレスチナ問題」とはそもそも何なのか、――このような事態を理解するために不可欠な問いは、ほとんど問われることはない。毎日のニュースが伝える目前の出来事だけを見ている限り、そこにはどのような意味でも希望はなく、ただ絶望だけが支配しているように見える。生ではなく死だけが跳梁しているように見えるかもしれない。しかしこの絶望的な状況のなかでワルシャウスキーは、希望を、パレスチナ人とイスラエル人の双方のなかに芽生えはじめたあたらしい動きをふまえて、語っているのである。
一九六〇年代の末、ベトナム反戦運動のなかで私たちはパレスチナの解放闘争と出会った。恥ずかしいことにそれまで私は、大国の利害の戦後世界におけるもっともおおきな犠牲者であるパレスチナ人の悲劇について、ほとんど知らなかった。ナチスのユダヤ人大量殺戮については、敗戦後いちはやく知ったのだったが、現に進行中の民族抹殺の悲劇についてはほとんど情報もなく、私たちの目は閉ざされつづけた。ベトナム民族解放闘争との連帯をつうじて目が第三世界へと開かれていくなかで、それはようやく私たちの視野にはいってきたのである。
しかしこのことは私たちの不明にだけ原因があったのではなかった。パレスチナ人の側も、この時まで自分たちの悲劇を世界に訴える有効な手段を持たなかったのである。六〇年代の末にPLOがいわゆる「パレスチナ問題」の解決を、パレスチナ人自身の主体的な解放闘争と位置づけ、それまでのアラブ民族主義国家とイスラエルとの国家間戦争によって覆い隠されていたその解放闘争という性格を鮮明にしたとき、そして彼らが武装闘争という「最大の宣伝行動」を展開しはじめるにつれて、六〇年代という動乱の時代を経験した世界のなかに、彼らはひとつの焦点として浮上した。世界中に連帯の運動が生まれ、多くの若者が直接の支援にその闘争の場へと赴いたことは、あらためて言うまでもない。
しかしたくさんの人びとの熱い思いにもかかわらず、この運動のその後の展開は多くの曲折をたどることになる。その最大の原因が米国の支援を受けたイスラエルの圧倒的な軍事力の増大、パレスチナ解放闘争の独自路線とアラブ民族主義国家との間の利害の齟齬、そしてPLO内部の党派的分裂にあったということができるだろう。その経過を跡づけることはここでの私の任ではないが、この混迷を生み出した中心の問題がいわゆる「ミニ・パレスチナ国家」をめぐる対立であったことだけは指摘しておく必要がある。
一九六七年の第三次中東戦争でイスラエルはヨルダン川西岸、ガザ地区、ゴラン高原、シナイ半島を占領したが、このうち西岸とガザ地区にパレスチナ人の自治を認め、それを基礎にパレスチナ国家を創設するというのが「ミニ・パレスチナ国家」の構想である。この構想が、イスラエルと名付けられたパレスチナ全土の解放とそこへのパレスチナ難民の無条件の帰還、ユダヤ人をふくむあらゆる民族の共存を基礎とする非宗教的国家の建設という解放闘争の目的とおおきく背馳することはいうまでもない。しかしエジプトのサダト政権によるイスラエルとの「歴史的和解」に象徴されるような事態の転換のなかで、PLO指導部のなかにもこれを支持する動きが生まれ、解放運動におおきな亀裂が走ることになった。そして八〇年代から最近の「ロードマップ」にいたるまで、米国の中東和平の仲介案はすべて、この「ミニ・パレスチナ国家」構想にもとづいており、それはイスラエルの駆け引きの場としてしか機能せず、ますます事態の混迷を深めるとともにパレスチナ民衆を苦難の極限にまで追いやっているのである。
このような状況のなかで著者ワルシャウスキーが提案するオルタナティヴは、彼の簡潔な表現を使えば「空間の解放から体制の解体へ」ということであり、「民族共生」である。彼は「民族共生の展望はオスロ和平プロセスが陥った行き詰まりに代わる唯一のオルタナティヴである。それには、領土を解放してそこに民族の主権を打ち建てるという戦略から、シオニズム的構造から解放された統一的な枠組みの中で、諸権利の平等を目指して闘争するという戦略へ移るという、全体的な政治的展開が必要である」と書いている。そしてこの戦略は「イスラエル人という民族集団の存在を無視し、シオニズムの体制から解放されたすべてのパレスチナ住民に市民的平等を保証することでよしとしていた以前の民主的で世俗的なパレスチナの計画とくらべると大きな進展である」と言う。
ここにあるのは、イスラエル人のシオニズムからの解放と、パレスチナ人の分散と無権利状態からの解放を、民族共生の理念のもとに、遠い目標としてではなく、いま、ここで着実に一歩一歩進めようという意志である。イスラエル人の解放なしにはパレスチナ人の解放はなく、パレスチナ人の解放なしにはイスラエル人の解放はないという、相互依存関係の確認である。そしてこの相互依存関係には、イスラエル国家の改革と同時にパレスチナ自治政府の自己刷新、政治構造の根底的な民主化の課題が対応していることは言うまでもない。
このような展望を可能にしているのは、シオニズム国家イスラエルの現在の危機についての著者の周到な分析である。門外漢の私がもっとも多くを教えられたのは本書のこの部分だった。それはシオニズム自体が、シオニズム国家イスラエルのユダヤ的アイデンティティーを崩壊させているという弁証法的な現実だ。著者はそれを「イスラエルは、国民=国家になるどころか、多文化的あるいは多民族的モザイクに成長した。その新たな現実は、ユダヤ国家の定義そのものも含め、新たな挑戦を生み出すのである」とのべている。
このような分析から著者は、イスラエルのなかに萌芽的に生まれてきた民族共生の可能性を探る。それはたんに政治的な領域だけでなく、「他者への関係を変えることのできるような真の文化革命」の可能性なのだ。そのためにはなによりも歴史が、それも共同の作業としての歴史が探究されなければならない。その歴史的な遡行のはてに、著者はアラブ民族とユダヤ民族の共生のうえに開花した中世のアンダルシア文化を、「夢」として語るのである。それがただの夢におわってしまうか、あるいは実現可能な希望にまで現実化するか、それは彼らだけの問題ではなく、われわれをふくむ世界の動向にかかっている。
私は本書を読みながら、かつて私たちの連帯運動を混迷に陥れ、私たちを意に反して外野の応援席に追いやることになった「ミニ・パレスチナ国家」をめぐる問題に、ひとつの出口が示されるのを感じた。この本は、エドワード・サイードの精力的な発言、とくにいまパレスチナ解放運動に生まれつつある新しい市民運動の紹介(「パレスチナに芽生えるオルターナティヴ」、『戦争とプロパガンダ・2所収)などとともに、私たちを力づけ、絶望から希望へと導いてくれる。
最後に、この訳書に付された岡田剛士の「「アンダルシアの夢」の入り口で」と題した長文の「まえがき」について、ひと言でもふれておきたい。彼はそのなかで一九九三年の「オスロ合意」から現在のいわゆる「ロードマップ」までを克明かつ批判的にあとづけて、私たちの理解をおおいに助けてくれている。しかし私が言いたいのはそのことではない。そこで彼は、一九八〇年代のはじめに青年海外協力隊の隊員として任地のシリアでパレスチナに出会って以来の関わりを回顧し反省しているのである。自分を棚に上げた解説や紹介、あるいは逆に思い入ればかりが先行したパセティックな文章とはまったく異なった、あくまでも自分の体験への内省を手放さない彼の語りに、「このような純粋で美しい理想が、なぜ殺伐とした言葉によってしか表現できないのか」という思いを、かつての連帯運動のなかで重ねてきた私は、救われるような爽快な感動を覚えたのだった。
(『インパクション』138号、2003年10月刊)