誰が吸皿鬼を成仏させるのか 

「先生、これはルーシーの死骸ですか、それとも悪魔がルーシーの形をかりているのですか?」「ルーシーの死骸であって、しかもルーシーの死骸でない。まあ、もうしばらく待ちたまえ、もとのルーシーも、今のルーシーも、ちゃんと見せてあげるから」

             ―ブラム・ストーカー 『吸血鬼ドラキュラ』―

 モスクワ赤の広場のあの奇怪な廟のなかに横たわっている老人の遺骸は、はたして本当のレーニンなのだろうか。『吸血鬼ドラキュラ』のヴァン・ヘルシング教授ならば言下に、あれはレーニンであってレーニンでない、「不死者」つまり吸皿鬼になったレーニンなんだ、と答えるに違いない。「不死者」レーニンは、昼はあの奇怪な棺桶のなかに眼り、夜になると音もなくそこを抜け出して、ソ連の、いや世界のあちらこちらをさまよい歩き、人間の生血を吸って同族を増やしてきたのである。では、レーニンの血を吸って彼を吸皿鬼にしてしまった元凶はだれか? マルクスなのかそれともロシアの風土なのか、〈党>なのかそれともレーニン自身なのか。
 わたしたちはレーニンを吸皿鬼という境遇から解放するためにも、その元締め、ドラキュラ伯爵を探す旅に出発しなければならないのだが、しかしこのドラキュラ探しはそれほど簡単ではない。今日では、レーニンの遺体を防腐処置して霊廟に保存しようと発案したのは、三人の葬儀委員のひとりレオニード・クラーシンだったことが明らかになっている。かれはニコライ・フョードロフの神秘主義と科学の無限可能性をともに信じるオールド・ポリシェヴィキで、「万能の科学が死んだ身体を復元できるようになる時がきっと来る」と公言し、レーニンのよみがえりを確信していたのである。ところがそのクラーシンはけっして奇矯な人物ではなく、ゴーリキイは『回想』のなかで、有能なオルガナイザーで人びとに好かれる闊達な人柄のクラーシンのプロフィールを描いている。
 もちろんわたしはレーニンの遺体の処理についてだけこだわっているのではない。それは一つの象徴なのだ。わたしは一九七三年から今日まで、おそらく三十回ちかくあの赤の広場を横切ったのだが、しかしただの一度もレーニンの遺骸に対面したいとは思わなかった。辱められている遺体を見るにしのびないと思うくらいには、わたしはレーニンを愛している。そしてスターリンとは違って、クラーシンもまたかれのやりかたでレーニンを愛していたのである。
 ここにはポリシェヴィズムというものを理解するカギがあるように思われる。ロシアの風土に輸入されたマルクス主義は、科学信仰というかたちでロシアの神秘主義の土壌に接木された。そこに生まれたのは「極限への志向」とでもいうべき心情である。反動のクーデタが一転して革命を生み出してしまうという今回の政変劇は、じつは十月革命が一転して収容所群島を生み出した歴史とパラレルなのである。それをへーゲル流に「歴史的理性の狡知」と呼んだのでは、そこに流れているロシア的心性の働きを見失うことになろう。そしてこの心性は、かならずしもロシアに固有のものとは言い切れない。それはあらゆる革命の底に多かれ少なかれ存在する終末論と不可分なのである。
 今日、ソ連で進行している過程は、「共産党支配の終わりをもたらすには、党を追い出すとか、あるいはたたき出すとか、といった乱暴なやり方よりも、共産党がみずから公けに国民に対して謝罪し、一連の犯罪や虐殺行為や無意味な政策によって国家を滅亡の淵に導きながらも、それから救済する道がわからないとはっきり認めるというやり方が望ましい」というソルジェニーツィンの理性的な言葉とは違ったかたちですすんでいる。それは<党>に真の死をもたらさずに無数の殉教者を生み出し、不死者レーニンを地下の礼拝堂に移すにすぎない。いまは真の死が必要なのだ。
 ヴァン・ヘルシング教授も言っている。「彼女をここでほんとうに死なせてやらなければならないのだ。そうすれば、彼女は『不死者』の金縛りからのがれて、いわゆる真の成仏ができるというわけだ。[……]これをするのは、彼女をもっとも愛した人の手によるよりほかにない。」
(『新雑誌21』1991年11月号)