オオカミ少年の嘆き


  
 もしかしたらオオカミ少年は根っからの嘘つきではなかったんじゃないか、と思ったりする。たしかに最初、かれは本当にオオカミを見たんだ。それいらい、オオカミへの恐怖がかれの中に根づいてしまい、風の音、草の揺らぎにもオオカミを感じ、「オオカミが来た」と村人たちに警告せずにはいられなかったんだ。村人たちは、かれを嘘つきとして相手にしなくなった。しかしかれを簡単に嘘つきと呼ぶことはできない。なぜならかれは実際にオオカミに食われてしまったんだからな、「オオカミが来た」という叫びもむなしく……。オレにはかれの無念がよくわかるような気がするよ。
 戦後、今日まで、わたしたちはずいぶんたくさんの「オオカミが来た」を聞かされてきた。いや正直に言わなければならない。わたしはどちらかというと聞かされた方ではなく言ってきた方に属する。じっさいに再軍備だ軍国主義復活だ、警職法だ安保だ、日韓条約だベトナム戦争だ……となると、やはりどうしても「オオカミが来た」という叫びは口をついて出てしまったのである。
 「オオカミが来た」式の運動の最後の光芒は一九八二年の反核署名だったと思う。「戦後平和と民主主義」運動にたいする六〇年代の自己反省の成果を、根こそぎ押し流してしまったあの反核お祭り騒動は、もうこの手の「オオカミが来た」に煽られるのはまっぴらだというどうしようもない白けを残しただけだった。「オオカミが来た」式の運動ではもうダメなのである。
 ひとり荒野に立って叫ぶ予言者の時代ではもはやない。指導者が啓蒙し、宣伝し、扇動し、大衆がそれをうけて立ち上がるという図式は、さいわいなことに、――まったく、さいわいなことに、死に絶えた。指導者と大衆という関係のもとで実現した疑似「解放」の末路を、われわれはいやというほど見てしまったのである。
 ふりかえってみると、「オオカミが来た」式の運動は、周期的に高揚と沈滞をくりかえす敗戦から七〇年代中頃までの時代に対応していた。それ以後、われわれはとんと運動の高揚局面に再会したことはない。なにかが広範にそして根本的に変わってしまったのだというおもいは、この十年ほどのあいだに私のなかでますます強くなっている。
 では、何がどのように変わったのかというと、その説明はかならずしも困難ではない。たとえば、情報化というキーワードをつかってそれを説明することはそうむずかしいことではない。むずかしいのは、その崩壊の過程を推理し説明することである。崩壊なんかしないという人は、いまは多数派かも知れない。しかし、外面的には堅固に見えるものの内側で、どれほどの腐敗と崩壊が進行しているかを、戦後五十年以後のこの国の社会ははっきりと示しているのではないか。この社会は、周期的な高揚と鎮静をくりかえす「反」体制運動をもった時代の、それに対応する自己革新の力を失って、自己完結的に腐敗を深めているのである。
 この腐敗のなかで、すべてが手応えのないあやふやな存在になっている。人と人との関係も、人とモノとの関係も、あいだに何枚もの薄膜があるように感じられる。
 いま一番たいせつなことは、この薄膜を破ること、あらゆる局面で「直接性」を回復する努力をつづけることだと思う。運動で言えば現場主義である。現場と現場の人たちを知らずに、いきなり天下国家を論じるな、すべては現場からはじまる。
 新ガイドラインを読めば、これでも日本は独立国かと、なんとなく代々木の民族解放民主革命みたいな感じにとらわれかねない。しかしそれではナショナリスティックな対応におわってしまう。そうではなく、たとえば函館の現場から、名護の現場から、全国無数の現場から逆に見ていくことが必要なのである。そしてそれぞれのイッシュウをかかえている多様な現場のあいだに、いま、この国が突入しようとしているあたらしい状況をふまえて、共通の危機意識が相互に確認できるだろう。その危機意識は、おそらく外からあたえられたのではない、内発的な「オオカミが来た」という叫びとなって表現されるかも知れないのである。
(『向かい風・追い風』1997年10月号)