なによりも最初に二つのことをお詫びしなければならない。第一は刊行の大幅な遅れについて、そして第二は、この号をふくめてあと二号を発行するという総会での取り決めに反して、この号で終刊とすることについてである。こうなった最大の理由は、総会でも、また前号の編集後記でも報告したように、一号分には十分だが二号分には足りないという資金の問題である。解散をきめている会としては、この期に及んで赤字を出し、なが年協力してもらった印刷所その他に迷惑をかけたくないという気持ちがつよかった。そのかわりこの号は、残った資金を使いきるという目安でできるだけの増ページをした。いくらかの計算違いから若干の赤字が出そうだが、編集部で処理の可能な金額におさまるだろう。
最初にちまちました金銭のことから書き始めたが、組織の終りをはっきりすることと、金銭について背信的な迷惑を周囲に残さないという最低限の運動のモラルはまもられたと思いたい。これをもって日本アジア・アフリカ作家会議は解散するが、一九六〇年代の初頭からAA作家の運動にかかわってきた私としては、なんとなく年老いて死んでゆく親を看取った子のような気がしている。
この時期に、日本の作家とソ連を繋ぐパイプ役をはたしたエレーナ・レージナの訃報がとどいた。われわれのなかでも、バイカル運動や琵琶湖フォーラムで、たくさんの人が彼女と親しくなった。AA作家会議の国際書記局員であった私の場合は、この十数年のあいだ、モスクワ、カイロ、あるいはアラブのどこかでというぐあいに、年に二、三回は彼女と顔をあわせ、また彼女はソ連の作家をともなって来日するたびに、拙宅をおとずれるのを常とした。バイカル運動の構想がうまれたのも、こうして来宅したラスプーチンとの歓談の席でのことだったのである。
エレーナは北海道で倒れたとき、サーカスの興業に関わる仕事をしていたという。彼女の、アジアにかぎらずアラブからアフリカにまでわたる作家についての知識は、ほとんど無尽蔵と言ってよかった。それは活字を通じてのものだけでなく、直接のつきあいを通じてのものであった。その知識と経験が弊履のごとく打ち捨てられ、あげくにふたたび甦ることもなく消え失せたことは、なんとも残念である。あたかもソ連瓦解の現実を思い知らされるような死であった。
ただひとつつけ加えておけば、六〇年代から七〇年代の運動をくぐり抜けてきたわたしたちにとって、ソ連には真正のもう一度の変革が必要だということ、アジア・アフリカ作家運動の現状には、根本的に改革しなければならないおおきな問題があるということは、ほとんど共通の認識になっていた。ただわれわれがあまたのソ連批判派や自主独立派とことなるのは、そのような批判にもかかわらず、一緒にやろうとしたことである。一緒にやるなかで、真の友を見つけ、ともに語ることのできる場をつくろうとしたことである。
しかしそのような希望を託した友も、この数年のうちにつぎつぎに世を去った。南アフリカのアレックス・ラグーマ、パレスチナのムイン・ブシソウ、トルコのアジス・ネシン、カザフスタンのアンワール・アリムジャーノフ、そしてエレーナ……。
「瓦解」はかすかにあった希望を奪ってしまったかのようにみえるが、もちろんそうではない。どんなに混迷していようと、あたらしい時代がはじまっているのだ。新しい酒は新しい革袋にいれねばならぬ。しかしそのまえに、私は一管の笛をとりだし、こころをこめて「同志は倒れぬ」を奏し、この人たちの思い出に捧げよう。
一昨年の総会の後に、残された『aala』で日本AA作家会議の「総括」をやるべきだという意見がきかれた。それは一つの組織と運動の終わりに当たって、なさるべき当然のこととおもわれるが、それをどのような形でやるかについては、多様な意見がありうるだろう。ただ、それは共同の部分をもちながらも、基本的には一人ひとりの作業としてやるのが文学者の運動にふさわしいだろうとおもわれた。そのうえで、その共同の部分についていえば、AA作家会議の歴史をたどりなおして、今日からみればあまりにも明白な弱点をあらためて指摘しても、あまり意味のあることともおもえない、やるならもっとアクチュアルな視点から、むしろ将来に向けてやりたいという点で、編集部の意見は一致した。こうして歴史的な総括と同時に、それを現在の問題として検討するという意図のもとに、テーマは「暴力」と「国際主義」の二つにしぼられていった。
まず「暴力」について。私たちは六〇年代にはじめて思想的な課題として「暴力」という問題に直面した。それは言うまでもなく五〇年代末からの第三世界の解放闘争という現実が生み出したものであり、私たちがそれを思想的なインパクトとして受け取った経路の一つは、疑いもなくフランツ・ファノン(サルトル経由の)であった。ファノンの紹介と研究に力をつくした会員は、堀田善衞氏、海老坂武氏をはじめ一、二にとどまらない。
しかしその関心は、かならずしもAA作家運動の中に定着したとはいえなかった。そしてさまざまな出来事をへて七〇年代もなかばをすぎ、とくに最近では、「暴力はいけない」という程度のおそろしく無思想・無反省な「非」暴力主義が横行するなかで、一方では六〇年代の政治的な解放闘争の時代よりもはるかに暴力が蔓延しているという現実がある。それを前にしてわれわれは無力であるかのようだ。おそらく、六〇年代の革命的暴力(論)をうやむやにして「暴力はいけない」という程度の思想的退廃にまで後退した結果が、いまわれわれが反民衆的な暴力の前に無力感をかみしめなければならない一つの原因ではないだろうか。暴力論は歴史的総括の問題であると同時に現在の思想的な再建の手がかりになるようなテーマのひとつだとおもわれる。本号の特集はその試みの一つである。
第二の国際主義については、『aala』誌上で展開する機会は失われた。六〇年代、AA作家運動がもっとも活気があった時代に強調された「国際主義」「連帯」は、正確に言えばナショナリズム間の「国際主義」であり、国家と国家の「連帯」だった。その限界はすでに批判の対象になっていた。われわれは「国家と国家の連帯ではなく、民衆と民衆との連帯を」と主張し、規約にもそのような表現をとりいれたが、しかしこれは言うはやすく行うのは至難だった。われわれは、民族解放闘争におけるナショナリズムの位置づけの問題、第三世界における国民国家建設の評価、そしてそれらの闘争における作家を含む文化的エリートの社会的な役割の問題、等々について、問題の所在は十分にわかりながら、それを抽象的あるいは観念的ではない仕方で批判するだけの充分な能力をもっていなかったようにおもう。やわな非ナショナリズム的言説によってはナショナリズムを克服することはできない。「自由主義史観」というような日本型歴史修正主義の鳴り物入りの登場のなかで、今後に残されたこのテーマは、関係ある運動グループとも協力しながら研究を深めていきたい。
AA作家会議の解散とともに活字版『aala』はこれで終わるが、独立のメディアとしてインターネットの私のホームページに電脳版『aala』を発足させる。すでにページだけはひらいてあるのでご覧いただければさいわいである。URLはhttp://www.shonan.ne.jp/~kuri/aalaである。そこで会員および読者の皆さんと共同の作業ができればたいへん嬉しい。
では、お元気で、さようなら。
(季刊『aala』1997年2月号)