全共闘の生きた化石である。数年前に、全共闘何十周年とかで、今では善良な市民になっているオヤジ連中が、オレもあの時は……などとジャーナリズムに登場したりしたが、もちろん彼はそんなものに見向きもしなかった。そんな時流とはなんの関係もなく、彼は『全共闘経験の現在』(インパクト出版会刊)という重厚な論考をあらわした。いま〔→この2字に傍点〕の運動のために全共闘の敗北を教訓として生かすこと、つまりこの化石は生きている。
最初に出会ったのはたしか七〇年代の末だが、急速に親しくなったのは八〇年代も半ばを過ぎた頃からだ。とどのつまり彼と池田浩士を共同編集者とする雑誌『検証・昭和の思想』に、私の聞き書き「つい昨日の話」を連載する羽目になった。それが連載された一九八七年からの三年間はまさに時代の変わり目で、昭和天皇の死から湾岸戦争、そして社会主義の崩壊へ、世界はめまぐるしく移り変わった。
七〇年代のながい模索の末に、彼が無党派運動の具体的な構想をもつに至ったのは、昭和天皇の死をめぐるあの奇怪な自粛さわぎにたいする抗議運動として「反天皇制運動連絡会」通称・反天連を立ち上げたときだろう。もちろん私はなんの保留もなくこれに賛同し、彼の頤使〔→2字にルビ「いし」〕に甘んじた。頤使つまり頤(あご)で人を使うなどと言うと、彼の世代には珍しく長幼の序を堅く守って礼儀正しい彼は憤慨するだろう。しかしあとになって振り返ると、結局、彼の思いのままに動いていた自分を発見する。そしてこの歳になってまだ多少は役に立つか、などと自分をホメている自分を発見して彼に感謝したりする。彼は天才的なオルガナイザーなのだろうか。
編集者はオルガナイザーであるという私のテーゼから言うと、第一次『情況』いらいいくつもの雑誌を手がけてきた彼は、運動と深く結びついた代表的な編集者でもある。しかしそれだけではない。社会思想史の研究者としても一家言をもつ。彼の文献的な知識はそんじょそこらの大学教師など足元にも及ばない。しかもちゃんとした生業をもっている。古本屋である。早稲田通りに寅書房という店をかまえる。寅ってウルトラのことだろうと口の悪い連中は言うが彼は断固として否定している。
一九四八年生まれの彼とでは父と子ほども年が違うが、それほど話が食い違わないのは、彼が若年寄りなのか私がヘンなのか。おたがい偏狭なところがよく似ている。ふたりとも酒飲みである。会えば例外なしに夜更けまで飲むことになる。「大事な体なんだ、大切にしろよ」などと年寄りじみた説教をしながら、いつか大いに盛り上がって終電に駆け込むことになる。
(『週刊読書人』1999年9月24日号)