誰がこの空洞を埋めるのか

 思いがけずこのところ白内障が急激に進行して活字を読むのがひどく難儀になってしまった。いくら「好き」だといっても、このかぎられた読書能力のうちのわずかでもを右派言論を読むために割くほど、わたしは変人奇人ではない。それで今月は雑談でもしよう。もっともいつも雑談じゃないかといわれれば、ごもっとも、とでも言うよりないが。
 このコラムでも何回かふれているが、このところわたしにとっていちばん気にかかることは、われわれの言論のスタイルだ。前回も「そこ(庶民)に対して本当に届くような言葉を向こう(つまり「こちら」)が投げかけてこないかぎり、もう向こうの方に勝ち目がないという状態が来てるんだと思いますよ」という小林よしのりの発言を引いておいたが、『戦争論』が50万部売れたかどうかとは関係なく、小林はけっこうよく見ているとおもう。たしかにこの国の状況はそんなぐあいになっているのではないだろうか。
 『戦争論』の50万部にはそんなにおどろかないわたしでも、 鈴木光司の『リング』600万部にはちょっとおどろいている。『リング』に『らせん』『ループ』3部あわせてだとはいえ、それに映画とテレビドラマ化をくわえると、これはやはりひとつの社会現象と言っていい。ホラー小説オタクのわたしのことだからはやばやと読んで一定の評価はしていたが、当時はもっぱら京極夏彦一辺倒だった。それが変わったのは第3部『ループ』が出て、物語の世界の全体構造が明らかになったときだ。リアルワールドとバーチャルワールドが併存しているこの物語世界は、いまの子供たちにとってじつは自分たちが生きている日常の世界なのである。コワイ、コワイというのがこの小説の「売り」のようだが、それだけを期待しては失望する。これは、人も動物も植物も、全体がガン化して滅び始めた地球を、一人の人間が自分の身を滅して救う、救済の物語である。しかもそうやって救われる地球も人間も、じつはもうひとつのバーチャルワールドなのではないかという疑いを読者は否定できないという意味では、ニヒリズムがこの物語をささえている。
 ここに描かれているのは現在の子供たち、若者たちの内面世界そのものではないだろうか。そしてその物語のなかで、世界のために自己犠牲をすすんでえらぶ若者が主人公となる。しかもこの若者はじつはバーチャルワールドからやってきた少年なのだ。ここから、たとえそれがどんなにバーチャルなものであっても、その虚構性を承知のうえでなおオオヤケのために身を捧げるという自分の物語をつむぎだす少年や少女がいても不思議ではない。おそらく『戦争論』50万の読者のなかにはそのような少年や少女が少なくないだろう。
 『戦争論』がもしそのオビの惹句「戦争に行きますか? それとも日本人やめますか」という程度のものだったら、とうてい50万の読者を獲得できなかっただろう。『戦争論』の成功は、ダメな父親、ウルサイ母親(戦後民主主義の世代!)を一挙に無化して孫と祖父母という関係を押し出したところにある。文化的な継承関係は親子直伝ではなく、祖父母の世代から孫の世代へと隔世遺伝的に伝わるというのがロシア・フォルマリストの主張だったが、『戦争論』は知ってか知らずかそれをうまく使ったといえる。そしてこの仕掛けのなかに、ナイーブな感受性をもつゆえに時代の腐臭にいらだつ少年や少女たちが取り込まれていくのは、むしろ当然だといえるだろう。
 もちろんわたしは、『リング』が『戦争論』に通底しているなどと言っているのではない。そんなことではまったくない。なぜ、『リング』のような現在の少年や少女の内面を構造的に表象している作品が、そのことによってその読者を、その一部分にせよ『戦争論』の方につないでしまうのか、そこにはわれわれの言論・表現がおちこんでいる無力さが端的にあらわれているのではないか、ということを言いたいのである。
 なぜわれわれの言論・表現は、とくに若い世代にたいして無力なのか。難しいからか、独善的だからか、「記憶に語り、ポストポストのスタディーズ」とでも揶揄したくなるような外国の思想家の主張をなぞった優等生の作文が多いからか、――そういうこともあるだろう。しかしいちばん重要なことは、いま、この国の小林風に言えば「庶民」の胸にぽっかりと空いてしまった空洞に、われわれがあまりにも無関心だということにあるだろう。どんなに教育制度を改革しても子供たちの胸に空いたこの空洞は埋まらない。どんなに社会保障制度を改善しても老人たちの胸に空いたこの空洞は埋まらない。なぜならこの空洞は、制度の産物ではなく文化の崩壊した痕跡だからである。
 崩壊したのは「私生活至上主義」「私利私欲」の追求を全面肯定する戦後文化である。戦前・戦中の「滅私奉公」という天皇制文化にかわって登場したこの文化は、いまや崩壊した。「家庭の幸福は諸悪のもと」という太宰治の警告に背を向けて、ひたすら家庭の「幸福」をおいもとめた戦後五十年の結果は、家庭の全的な崩壊でしかなかった。
 この空洞をだれが埋めるのか。あちら側か、こちら側か。――いま、問題はこのように提起されている。この戦場においてわれわれは少数派に甘んじることはできない。それはいまを、もう一度の戦前にすることだからである。
(『派兵チェック』1999年4月15日号)