いまだに「左翼」のジャーナリズムの可能性があるとすれば、おそらくここにしかないと言っても過言ではない雑誌『インパクション』を、二十年間にわたって独力で刊行し続けている、編集者でありインパクト出版会のオーナー社長であり、二人の正社員のうちの一人であり、そのうえ反天皇制運動や死刑廃止運動に深くかかわる活動家である。
人にたいする好き嫌いがおそろしくはっきりしている。その点、きわめて偏狭な人づき合いしかできない私と妙に気があってしまう。ただし仕事に関しては、私よりもはるかに忍耐強い。名うての遅筆家をそろえた執筆者の原稿を、じつに気長に待つ。そんなことを二十年もつづけていて、よく胃潰瘍だのノイローゼにならないな、と感心するほどだ。
三年ぐらい前だっただろうか、私がまだ『aala』という雑誌をDTPで作っていた頃、パソコンを使うことでいかに雑誌が安くできるかと彼に吹聴して、とうとうその導入に踏み切らせた。かくなるうえは一応の軌道に乗るまでは面倒を見なければならないと、機種の選択(もちろんMac)からソフトの設定まで、なにやかやと口出しした。
ところがその時はじめてわかったのだが、わが友は絶対にマニュアルというものを読まない人だったのである。わからなければわかる奴に聞けばいいという、きわめて合理的な考えの持ち主だったのである。「すいませーん、なんか動かなくなっちゃったんですけど」「すいませーん、メールが開かないんですけど」というような電話が、数日おきにかかってくる。パソコン用語抜きで状態を聞き出し、パソコン用語抜きでその対処法を電話で伝えるというのは、ほとんど絶望的に困難なことだった。しかしいまでは、単行本も雑誌も、すべて彼と有能なアシスタントで版下まで作る。
パソコンの導入はもちろん経費の削減という小出版社にとって死活の問題から出てきた選択だった。それはどうやら成功したようで私としてもホッとしている。しかし要は、パソコンという新技術を使って、資本家である彼が労働者である彼の労働を搾取しているに過ぎないのではあるが。
なかなか敬老の精神に篤い。酒を飲むためだけに老人を東京まで呼びだしては気の毒だと、わざわざ鎌倉まで飲みに出張してくることもある。私は私で、人が二、三人で立錐の余地のなくなる事務所で、この猛暑をどう過ごしたのだろうと、人ごとながら気になる。
(『週刊読書人』1999年10月8日号)