池田浩士さん

 彼が最初に現れたのは、たしか一九六一年の初めだったと思う。まだ大学院生だっただろうか。慶応大学の敗戦直後の学生運動について話を聞きたいということだった。そのときはそれだけで終わった。それから数カ月の後、アジア・アフリカ作家会議の主催する講座で再会した。これは見どころがあると、当時、人さらいを業としていた私は「ぼくの研究会にも来ない?」と、猫なで声でさそったのである。それがそれから今日までつづく交友の始まりになるとは、彼も私も夢にも思わなかったのだが。
 ヘーゲルの『美学』を読んだり、ルカーチの『小説の理論』や『歴史と階級意識』を読んだりしているうちに、彼の強靱な思考力と抜群のドイツ語にほとほと感じ入った私は、かねて読みたいと思っていた表現主義論争関連の文献を編集し翻訳するようにと彼を扇動した。その仕事は『ルカーチ・ブロッホ・ゼーガース 表現主義論争』として一九六八年に出版された。しかし話はこれでおわらない。彼はこの本の構成を徹底的に改め、収録文献を数倍に増した決定版の『表現主義論争』を一九八八年にれんが書房新社から出す。その間二十年である。
 これは彼の仕事の基本的なスタイルであると同時に、彼の生き方そのものでもある。過去は現在である、現在は過去である。時流におもねり、時流にながされることほど彼の忌み嫌うことはない。それは志操とか信条というよりもむしろ趣味とか好みという方がぴったりくるほどにマニアックで肉体化している。
 彼が京都大学の教養部ドイツ語教室の教員として赴任したのは、ちょうど学園闘争の時期だった。そこで彼は造反教員として目覚ましい活躍をした。手書きの個人名あるいは教官有志名のビラを自分でつくり自分で配る。その集大成があの時代の古典的な文献となった『似而非〔→この3字にルビで「えせ」〕物語』だ。いまでもそのページをひらくとあの時代の雰囲気が生きているかのように立ちのぼってくる。
 と言ってもこのとき彼はビラ撒きばかりしていたわけではない。私が企画した『資料・世界プロレタリア文学運動』全6巻を、江川卓、竹内実、安宇植などと共同でつくった。時の勢いである。みんな若かった。それからもいろいろ一緒に仕事をしたが、いまは「文学史を読みかえる研究会」をやっている。本音を言えば、研究会を口実に酒を飲むのが何よりの楽しみだ。彼ももう六十に近いがますますよく飲む。私も七十を過ぎたが彼と一緒だと年を忘れてよく飲む。もうしばらくこんな調子でやっていけたらと思う。
(『週刊読書人』1999年9月17日号)