この一月一九日に、浦和のあるグループが国分一太郎の『小学校教師たちの有罪・回想生活綴方事件』(みすず書房刊)をめぐるシンポジウムをおこない、私も報告者として参加した。この会には国分さんも来ることになっていたが、数日前に入院したということで、残念ながら久しぶりに会う機会を失した。そしてそのまま二月十二日に、国分さんは亡くなった。
亡くなった国分さんのことを思いおこすと、まず、じつにいろいろな会合で顔を合わせたなという思いが浮かんでくる。そのつぎに、あの人は最後まで「偉い人」にならなかったな、という思いがくる。「偉い人」にならない人というのは、裏方の仕事をやる人、やれる人、一つの組織や運動を維持していくためのこまごました心配ごとを引きうける人であり、孤立と徒労の感じにさいなまれながらもこまめにいろいろな会合に顔を出し、その後みんなで一ぱいやれば、たちまち上機嫌に談論風発するというタイプの人である。国分さんはまさにそういう人であった。そしてアジア・アフリカ作家会議とのかかわりにおいても、国分さんはそのよな人として終始した。
日本アジア・アフリカ作家会議が発足してしばらくの間、事務所を借りる金もないこの貧乏所帯は、国分さんのお宅の離れをタダで事務所として使わせてもらったのだった。思い出を書きつらねれば、たちまち紙数もつきよう。改めてお礼を言わねばならないことも多かろう。しかしここでは、国分一太郎を国分一太郎たらしめたあの生活綴方運動について、そしてそれと文化を通じての第三世界との連帯の運動との関係について書くのが、いちばんふさわしいように思われる。
一九三五年前後に東北地方をはじめ、いわば辺境の小学校教師たちによって展開された生活綴方運動については、鶴見俊輔の「日本のプラグマティズム――生活綴り方運動」(岩波新書版『現代日本の思想』所収)という論文ですでにご存知の方も多いと思うが、それをもう少し現在的な関心にひきつけて紹介すれば、ひと口で言って、パウロ・フレイレやアウグスト・ボワールやPETAなどの、いま一部でもてはやされている民衆的な教育・文化運動の理念と方法とまったく重なるようなものとして、五十年前のこの国で展開された運動だ、と言えよう。
一九三五年といえば、プロレタリア文化運動をはじめ左翼運動が崩壊してしまった時期である。国分さんたちの生活綴方運動はこの左翼の敗北から深く学んだ。それを教育運動の現場の問題として言えば、政治主義的に突っ走って崩壊したかつての新興教育研究所の轍を踏まないということであり、小林多喜二や宮本顕治のようなプロレタリア文化運動のイデオローグの「党(共産党を指す)とは、唯一つの最高の指導的な理論的および実践的中央部であり、……党の作家とは、プロレタリア作家としての最高の段階を示す」というような、まったく非現実的な信仰告白をきっぱりと拒否することであった。国分さんたちがその再出発にあたってふまえたのは、人間の解放はすべてのものが党にむかって収斂してしまう上下のヒエラルキーにおいてではなく、民衆自身の自覚と自立・連帯においてはじめて可能となるという信念であった。プロレタリア教育運動が、子供たちにたいする「階級意識」の外部からの注入であったのにたいして、生活綴方運動は徹底的に子供たち一人ひとりの個的体験に固執した。具体的な生活の場における具体的・個別的経験こそが出発点であった。プロレタリア教育運動は地動説を子供たちに教え込もうとしたのにたいし、生活綴方運動は地動説に耐えられる主体をつくろうとした、と比喩的に言えるかも知れない。そしてそれを国分さんたちは、当時の日本のなかの「第三世界」であった東北地方という地域・文化のなかにはっきりと限定づけておこなおうとしたのであった。
国分さんは当時の自分の立場を、「結局は『勤倹貯蓄』と『海外発展=侵略』『東洋的あきらめ』にみちびく農林省=文部省型農村自力更正・郷土教育にくみすることを潔しとしないことはもちろん、中央にいて、コトバだけの自由主義、無政府主義、社会民主主義的言辞をろうする人びとにも組みしえない何ものかを感じていた。他方極左的な教組=新興教育運動の観念的公式主義にも、いまは同調しえない批判と反省、転向心理をいだいていた」「こうして……綴方による『生活重視』を大切にするとともに東北的な『特殊の現実』の地盤からこそ、子どもたちの新しい物の見方・考え方を育てあげ、困難に屈しない生活意欲を喚起しなければならないと考えるにいたった」と説明している。こうして「東北型農業地帯といわれる封建遺制の色濃い生活の谷間において、その谷底から将来の光に向う正しい物の見方・考え方・感じ方・生き方を育てていく仕事、既成のお手本からではなく、ギリギリの現実をつぶさに、生き生きとつかませるところから、その現実に即した正しい考え方を形成させる独自の仕事の仕方」としての「教育における北方的営為」を旗じるしに、「リアルな目で生活を観察させ、できた作品を中心として学級集団のなかで『話しあい』をさせ、なんらかの『考え方』をつくらせていく」という生活綴方の方法が形成され、認識と同時に人と人との関係の変革を目ざす協同性の重要さが強調されることになった。(国分一太郎「生活綴方の運動」、青木新書版『近代日本断面史』所収)
私たちの第三世界との連帯は、たとえばフレイレに出会ったり、ましてそれを担ぎまわったりすることで実現するのではない。第三世界との出会いを通してもう一度日本を見る、ということである。フレイレを通して国分さんの仕事を再評価することである。あるいは国分さんの仕事を手がかりにフレイレを再検討することである。
追悼はさけがたく思い出となるが、しかし先人の実践の総体は、一つのモノとしてわれわれの眼前に横たわっており、われわれがそこから今日の実践のために真摯に学ぶことを求めているのである。
われが国分さんにたいする私たちの追悼のやり方だと思う。
(『aala』1985年4月号)