堀田善衞はいまではあまり読まれていない。しかし彼が中野重治とならんで、もっとも天皇制にこだわり、それを批判しつづけた日本人作家のひとりであったことは、忘れない方がいいと思う。中野重治とちがって彼はマルクス主義にはあまり関心をもたなかったが、日本にはめずらしい徹底した共和主義者だった。彼は戦争の末期に上海にいたが、そこで聞いた天皇のいわゆる「玉音放送」について、くりかえし書いている。そのなかのひとつ小説「曇り日」(一九五五年一一月)から、その部分を書き写してみよう。
「八月十五日、百度に近い暑さのなかで、天皇の放送を聞いた。ガアガアザアザア雑音が入って、よく聞きとれなかった。が、負けたとも降伏したとも、ひとことも言わないのを、おれは不審に思った。時局ヲ収拾セムト欲シ……共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ、それはそうでもあるだろう。が、そのとき生まれてはじめて、おれは、なんだか図々しいような、ひどいことばをつかえば、盗人たけだけしいようなものだな、と思った。そしておれは、〔……〕いわゆる大東亜共栄圏に山といる筈の、日本側に協力した人々に対して、天皇は何と挨拶をするのか、とそればかり気にして耳をそばだてた。おれには元来、自分のことは棚にあげて、他人〔ルビ→ひと〕のことばかり気にするという、面白からぬ癖がある。けれども、遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス、それっきりか、それっきりだった。/何という奴だ、何という挨拶だ、お前のいうことはそれっきりか、嫌味な二重否定で、それで事は済むと思っているのか。そのほかは、〔……〕おれが、おれが、おれの忠良なる臣民が、おれだけが可愛い、というだけではないか。何という野郎だ、お前は、とおれが思った。」
あのとき天皇の放送を聞きながら、「何という野郎だ、お前は」とこころにつぶやいた日本人がどのくらいいただろうか。「天皇の終戦」は左翼も自由主義者もふくめて圧倒的に歓迎された。後の天皇制廃止論者もけっして「天皇の終戦」それじたいには反対せず、その「詔勅」を正面から批判したものもひとりもいなかったのである。そしてそのとき、底知れぬ頽廃をかかえこんだこの国の「戦後」のかたちは、ほぼきまってしまったと言える。
「終戦の詔勅」は他の勅語類と同様、天皇自身が書いたものではない。もちろん目を通し、自署し、あまつさえそれをみずから朗読して録音し、ラジオをつうじて世界に放送したのだから、それは彼自身のものである。しかしそれでも私には、彼自身のことばで彼の考えを聞きたいというおもいはあった。それは私が一九二七年(つまり実質的な「昭和元年」)の生まれで、ヒロヒト氏の運命に自分の人生がまったく無縁とは言えないという感じをもちつづけていたからである。
なぜ彼は、敗戦の後も敵軍の占領下でおめおめと生き続けたのか、生き続けることができたのか。それは私たちが少年期を通じて教え込まれた天皇像からは、とうてい答えられない疑問であった。ナンデモイタシマスカラ、ドウカ命ダケハオ助ケヲ……、彼はそんな奴だったのか。天皇制打倒の急先鋒だった徳田球一たちの天皇制批判も、大部分が天皇個人の人格的な誹謗に終始していた。そしてそれらには、すでに天皇制打倒の陣営に加わっていた私にとってさえ、なにか卑しいと感じさせるものがあった。ただ天皇をボロクソに言えば天皇制はなくなるのか? そんな迷いの沼から私を引きあげてくれたのが中野重治の小説「五勺の酒」であり、神山茂夫の『天皇制に関する理論的諸問題』という一冊の本だった。私は敗戦後一年の間にあらわれたこの二つの作品から、天皇問題とはわれわれひとりひとりの日本人の倫理=生き方に関わる問題であること、そして天皇制とは日本の近代化をアジアへの侵略戦争と不可分のものとした構造であること、を深く学んだのだった。敵を過大視してはならないと同様に不当に矮小化して描き出してもならない。占領下で昭和天皇は何を考え、何を為したのか? その真相を知ることは戦後の日本がどのように形成されたかを知る決定的な条件である。
このような真相に近づくための手引き書として、私たちは吉田裕の『昭和天皇の終戦史』と豐下楢彦の『安保条約の成立―吉田外交と天皇外交』という二冊の岩波新書をもっている。専門研究者ではない私にとって、この二冊の本からあたえられた恩恵ははかりしれない。同時代人として生きた日本の戦後を対象化する目を、この二冊の本は私にあたえてくれた。と同時に、日本の戦後史研究にとっての基本的な資料、とくに天皇が関係する資料の多くがいまだに公開されずにいることの重大さをも教えられたのである。そしてその最たるものが一九四五年九月二七日の第一回から五一年四月一五日の第一一回におよぶ天皇と占領軍総司令官マッカーサーとの会談記録である。
去る一〇月一七日に外務省は、情報公開法にもとづく請求にしたがって、第一回の「昭和天皇・マッカーサー会見録・全文」を公表した。これが私たちの要求している天皇関連文書の全般的な公開の突破口になるかどうかは、いまのところわからない。むしろ第一回をのぞく他の回の記録は「不存在」とする外務省の主張がみとめられたことにより、公開はますます遠ざかったと言うことさえできる。
しかし昭和天皇・マッカーサー会談については、公式文書のほかにその途中から天皇の通訳を務めた松井明が書き残した記録があった。その概要がはじめて『朝日新聞』(八月五日)に掲載されるにおよび、その重大な内容が明らかになった。ただし掲載されたのは全文ではない。ごく一部分である。松井は生前その記録を出版しようとしたが、宮内庁関係者の反対にあいおもいとどまったという。彼の死後もなお著作権を盾にその全文の公刊は阻止されている。われわれは前記の『朝日新聞』の記事と、記録の全文を読むことのできた豐下楢彦の報告「昭和天皇・マッカーサー会見を検証する――「松井文書」を読み解く」(『論座』二〇〇二年一一〜一二月号)によって、その概要をかろうじて知ることができるだけだが、それによっても、われわれの「戦後」観や「象徴天皇制」論の根底からの再検討を不可避にするさまざまな問題がそこには含まれている。
明らかになった天皇の発言を通じて、これらの問題を一つひとつ検討するだけの余裕はないが、この約五年間に昭和天皇がしめした関心の移り変わりは、彼らの言う「国体護持」がどのようなものだったのかを如実に示していると言えよう。昭和天皇にとってまず最初の最大の関心事は、言うまでもなく軍事法廷への訴追をいかに免れるかであった。これが彼にとっての国体護持の最低限の条件である。つぎが国内の治安対策。そして中華人民共和国の成立は、彼の危機感をいっそうかきたて、彼は日本の防衛にたいする米国の保障をくりかえしもとめる。彼は講和条約の締結により米軍が日本から撤退することを恐れた。憲法九条と非武装中立こそ日本のもっとも有効な安全保障だと主張するマッカーサーにたいし、彼は講和後も基地の存続と米軍の駐留を求め、とくに沖縄については長期貸与というかたちでの占領の継続を求めた。
早期の講和と占領軍の撤退を実現して、相対的にではあるにせよ自立的なコースを歩もうと意図した吉田茂や白州次郎のラインを妨害し、日本政府のあたまごしに最高権力者であるマッカーサーに庇護を求め、反共イデオロギーと冷戦の激化に自分の生き残りの活路を見出す。それが昭和天皇の「国体護持」の方策だった。彼はただ保身に汲々とする無恥な人間だったのだろうか。私はかならずしもそうとばかりは言えないように思う。彼もまた使命に身を捧げたのだろう。「天皇制護持」という使命に。彼にとって天皇制とは彼自身のことだったのである。しかも彼の天皇制護持は、日本国民の支持によるものではなく、もっぱら米国の武力に依存するものだった。
堀田善衞が生きていてこれらの文書を読むことができたら、彼はもういちど、「何という野郎だ、お前は」とつぶやいたに違いない。敗戦の時にも、そしていまも、そうつぶやく人間はほとんどいない。日本には共和主義者がいないという現実をつきつけられるおもいがする。
(『反天皇制運動PUNCH』2002年12月号)