好村さんといつ知り合ったのか、いまではあまりはっきりした記憶がありません。一九六〇年代の末から七〇年代にかけて、いろいろな仕事を抱えてよく京都に行ったので、そのおりに池田浩士さんを通じてだっただろうと思います。京都では、野村修さんや池田さんに好村さんもくわわって「梁山泊」などで飲み、歓談に時を過ごすのが常でした。
私が編集者として好村さんといっしょに仕事をしたのは、三一書房から出した池田・好村・野村共著の『ドイツ語の本』が最初だったと思います。第一課の最初の例文はIch
bin. Wir sind. Das ist genug.というエルンスト・ブロッホの『ユートピアの精神』冒頭の一文で、これを採用したのはもちろん好村さんでした。この本に併行して好村さん自身の評論集『希望の弁証法』も私の編集で本になりました。これが出たときは好村さんはすでに広島に移っていたと思います。
広島に移った後の好村さんとは、「アジア文学者広島会議」の事務局をお手伝いすることで一週間ほど行動を共にしたことがあります。私たち東京組はもちろんホテル住まいでしたが、好村さんはかならず自宅に帰るので、「責任者の君はぼくたちと一緒に泊まったら? そんなに家がいいのかね」とからかったのを覚えています。京都時代のように、ゆっくりと飲みながら歓談したいという下心からでしたが。
好村さんが花田清輝論「真昼の決闘」を連載した『匙』の同人には私の友人も少なくなく、またそのなかの何人かが中心になってできた「ファシズム文化研究会」には、私も参加させていただいたので、好村さんの消息は耳にする機会が少なくなかったのですが、その後は直接会うこともなく、彼は先行してしまいました。しかしたまには電話で話をしました。ご子息がインターネットで「好村冨士彦」を検索したら私のホームページがひっかかったと言って、わざわざ電話をかけてきたこと、妻のために庭付きの家に移ろうかと思っていると相談めいた電話がかかってきたこと、晩年、池田浩士さんと行き違いがあって、その修復を依頼されたこと、などなど、思い出します。
長年の、――と言うより三十年来のと言った方がいいでしょうが、懸案の『ユートピアの精神』の翻訳が上梓されたとき、私はわがことのようによろこびました。いま、あらためて同書の訳者あとがきを読み返し、そこに回想されている好村さんとブロッホ、なかんずくこの本との長い関係をたどり直しながら、カール・コルシュが『マルクス主義と哲学』の再版の序説に引用した「書物にはそれぞれの運命がある」という箴言を思い出しています。書物に運命があるように、一冊の書物と一人の読者との出会いもまた運命的です。『ユートピアの精神』と好村さんとの出会いもまさに運命的だったと思います。
池田浩士さんのルカーチ、野村修さんのベンヤミン、そして好村さんのブロッホ――それぞれが一九六〇年代という時代のなかでの運命的な出会いでした。そして好村さんも池田さんも野村さんも、たんにそれらの著作家の書物を翻訳・紹介しただけでなく、好村さんは『ブロッホの生涯』、池田さんは『ルカーチとこの時代』、野村さんは『スヴェンボルの対話』『ベンヤミンの生涯』と、力のこもった論考・研究を一冊の本にまとめました。この人たちはそれぞれの本のなかで、たんなる研究にとどまることなく出会いの運命を全人間的に受け止め、人生をかけて格闘しています。
京都の三賢人などと言うと、現世の池田さんからも、彼方の野村、好村両氏からも異議が出るでしょうが、この三賢人がつくりだす、ベンヤミン風に言えば「星座」にかこまれて、私はしあわせな、そして楽しい時を過ごしました。
(『好村冨士彦追悼文集』未刊)