対話に生きた思想家

久野収追悼

「文章家、弁論家とともに座談家というものがあるとすれば、久野収氏は当代屈指の座談家である」と、いまから二十五年も前のことになるが『久野収対話集』(人文書院刊)の書評に書いたことがある。その短文のなかで私は、こんなエピソードをひいて久野さんの「座談」の特徴を素描した。「数年前、岡山から大阪に行く鈍行列車のなかで、同席した学生やおかみさんをまき込んでその数時間を喋りに喋りつづける男に出合ったことがある。その男の声から語り口までが久野氏と瓜二つだったので、私は思わずギョッとした。しばらくしてとうとう我慢できなくなり、立ち上がってその時ならぬ車中座談会をのぞき見したが、もちろんその男は久野氏ではなく、ジャンパー姿の土建屋ふうの大男であった。しかし私には、久野氏の座談がこの男の座談に通じるものがあるように思えてならない。それは本質的に洒落たサロンやアカデミーでの座談とは異なった庶民性とでもいうべきものに支えられているのである。氏は第一級の思想家を相手にした時も無名の庶民を相手にした時も、少しも調子を変えることなく同じエネルギーを投げ入れて対話に熱中できる人 である。」その訃報をきいてまず目に浮んだのが、このような倦まず語りつづける久野さんの顔だった。
 私がはじめて久野さんのお宅を訪ねたのは一九五〇年代の後半、ある出版社の編集者としてだった。石神井のお宅の周辺はまだほとんど畑と空地で、尋ねあぐねても聞く家もなく、ときどきはげしく雪が降るなかをしばらくさまよったのを昨日のことのように思い出す。久野さんの書斎には出たばかりの『現代日本の思想』(岩波新書)が積んであって、その一冊に署名してくださったのをいまも大切に持っている。その奥付をみると第1刷昭和三一年一一月一七日、第2刷一二月二〇日とあるから、おそらく私がお宅にうかがったのは一九五七年の早々であったろうとおもう。
 なぜそれにこだわるかといえば、一九五六年という年が私にとっても、そして久野さんにとっても特別な年だったからである。それはスターリン批判の年として、私たちの世代の左翼にとって忘れられない年であったと同時に、戦前の『世界文化』以来、西欧の非スターリン的なマルクス主義の潮流に深い関心と共感を抱きつづけてきた久野さんにとっても、とくべつな年だったからである。
 久野さんの遅筆はほとんど病的といってもいいほどで、私はその後、本紙(『週刊読書人』)の編集者として再三原稿をお願いすることになったが、わずか三、四枚の書評をいただくためにも、三回、四回とお宅にうかがわなければならなかった。しかしそれは私にとってはまことによろこばしい役得だったのである。そういう機会もふくめて、しかし職業上のおつきあいをはるかにこえて、久野さんからはじつに多くのことを教えていただいた。それは私が、この一九五六年、そして六〇年安保闘争、六五年ベ平連結成という時代を、久野さんとともにすごすことができたという幸運による。
 久野さんのマルクス主義者にたいする不信は根強かったが、どうじにマルクス主義の再生にたいする期待もまたおおきかった。レーニンとスターリンしか読んだことがないと豪語して恥じない無教養な若僧に、当時はまだ注目する者のなかったフランクフルト学派の意義を噛んで含めるようにくりかえし説いてくださったのも久野さんだったし、運動にはさまざまなレベルがあることが大切なので、「君たち左翼は、みんなが自分たちと同じになるのがエエ、自分たちの言うことを聞かない奴は敵やと思うとるのとちゃいますか。そういうのはアキマヘンでえ」と、苦言を呈しつづけたのも久野さんだった。
「社会のなかで知識が生きて働くためには、主張は提案の形をとらなければならないし、提案は聴き手に対して信念を押しつけたり、知識を伝達するだけでなく、一番根もとのところで聴き手に対する問いかけとして語られ、聴き手の方からするとその問いかけに対する賛否の根拠を明らかにして、新しい問いかけを語り手の方になげかえさなければならない。二者間のこういう往復運動がくりかえされて、語り手の知識と聴き手の知識が生産的になる」(「市民学校の理念と構想」)と、久野さんはかつて本紙に書いた。思想とは基本的にT在野Uのものであり、その生産の場はデモクラティックなT対話Uであることを、久野さんはその一貫した人生を通じ、またその著作の全体を通じて私たちに語りかけている。
(『週刊読書人』1999年2月26日号)