一九六〇年代が、アジア・アフリカ諸国の民族解放運動の盛りあがりによって強くいろどられていたことは改めて言うまでもない。一九五五年四月にインドネシアで開かれた第一回アジア・アフリカ会議、いわゆるバンドン会議はこの時代の開幕を告げる狼煙であった。この会議の基調となった反帝国主義、反植民地主義、世界平和の強化を柱とするいわゆる「バンドン精神」は、「アジア・アフリカの時代」と呼ばれたこの時代を象徴する旗印であったと同時に、その影響下にさまざまなあたらしい連帯運動を生み出していった。AA作家の運動もまさにそのような状況のなかから生まれたのだった。
バンドン会議の翌年、一九五六年の十二月二三日から一週間、インドのニューデリーで開かれたアジア作家会議には、ビルマ、セイロン、中国、朝鮮、モンゴル、ネパール、バキスタン、シリア、イラン、エジプト、ソ連、ベトナム民主共和国、ベトナム共和国、インド、日本の一五カ国から一五〇名の代表が参加した。日本からは一カ月前の準備会議を含めて堀田善衞が出席した。そしてその翌々年、一九五八年の十月には、ソ連ウズベク共和国の首都タシヶントでアフリカの作家をふくめた第一回のアジア・アフリカ作家会議が開かれ、今日までつづくAA作家運動が出発したのである。この会議に日本から参加した代表団の団長は伊藤整、副団長が野間宏だった。こうして野間宏のそれから三十余年にわたるAA作家運動とのかかわりがはじまった。
「アジア・アフリカの時代」は、しかし同時に「中ソ対立の時代」でもあった。この対立の現場が主として第三世界であったということもあって、発足したばかりのAA作家運動は、たちまちこの対立の渦中にまきこまれることになる。それはまた、日本のAA作家会議(当時はAA作家会議日本協議会)にも共産党の介入によって、もろに波及して来た。一九六六年には国際AA作家会議が中国派とソ連派に分裂し、その翌年には日本協議会も三つに分解する。この時期の野間宏は、このような組織の分裂・抗争からは一歩身を引いて、ソ連の作家とも中国の作家とも直接個人的に交流するという道をえらんだ。野間宏がふたたび国際AA作家運動に力を入れはじめるのは、一九七三年にロータス賞を受賞した頃からである。
一九七〇年代にはいると、AA諸国の状況には大きな変化が顕在化し、作家運動にもそれが微妙に影響しはじめた。AA諸国は六〇年代を通じて基本的には政治的独立を実現したにもかかわらず、経済的自立に失敗し、むしろ逆に中心部資本主義への依存を強め、国内における貧富の差の激化、都市と農村の矛盾の拡大、急激な近代化による共同体の破壊と農村人口の流動化、等々――総じて国内の階級対立を激化させる結果となり、これに対して少数支配者の独裁体制への移行が多くの部分で見られるようになった。そしてこのような状況の変化は、AA諸国における作家たちのなかに大きな亀裂を生み出していった。これらの国々では、作家たちは同時に政府の文化・教育などの分野に参加している場合が多いが、その政府が変質してゆく過程で、一種のテクノクラートとして体制側に加担しつづける部分と、あくまでも初志をつらぬいて人民の立場に立って政府と対立し、ついに追放され弾圧される部分とに分解していった。
状況は私たちに、バンドン会議型の国際連帯、つまり国と国、政府と政府を通じての連帯という在り方では、もはや真の連帯は成立せず、むしろそういう疑似連帯は、民衆にたいして抑圧的にはたらく、という自覚をもたらした。これは同時に、作家同盟型の組織を通じてのAA作家運動の在り方についても、私たちに重大な疑問をいだかせる結果となった。そして私たちは、リエゾン・コミティという窓口で国際AA作家会議につながるという在り方を清算し、日本に独自に人民的な立場に立った作家の連帯を追求する独立した組織をつくらなければならないという結論に達した。一九七四年五月二五日、私たちは約二〇〇人の作家、文化活動家を結集して、日本アジア・アフリカ作家会議を創立した。初代の議長は野間宏、事務局長は堀田善術だった。それからほぼ十年、野間宏は議長としてAA作家運動に全力を投入し、また議長を退任して後も、日本AA作家会議がソ連の作家ラスプーチンたちとともにはじめた文学者による環境保護運動(バイカル運動)に中心的な役割をはたし、弱ったからだに鞭打ってバイカル湖、セヴァン湖、琵琶湖と三回にわたるフォーラムに参加したのである。
これらのAA作家運動のなかで、野間宏は一貫して「文学」の立場を主張しつづけた。AA連帯運動の一部であるとはいえ、それが作家の運動であるからには、「文学」をあらためて強調することは奇異に見えるかもしれない。しかしAA作家運動の出発の経緯から、また六〇年代、七〇年代という時代の流れのなかで、それはけっして当たり前のことではかったのである。一九七四年に日本アジア・アフリカ作家会議が結成された直後、私たちは日本アラブ文化連帯会議を主催することになったが、その実行委員会議長でもあった野間宏がまず取り組んだ仕事は、当時は絶無と言ってよい状態だったアラブ文学の日本への紹介という仕事だった。お互い作品も知らずになにが文学を通じての交流か、というのが彼の考えだった。文化会議のプランが決まってから開会にいたるわずか五カ月間のあいだに、彼は多くの研究者、翻訳者、作家、詩人を組織し、短篇小説と戯曲と詩と評論を網羅する、日本ではじめてのアラブ文学アンソロジーとして『現代アラブ文学選』(創樹社刊)を作りあげたのである。そしこの本は、もっとも目配りのきいたアラブ文学のアンソロジーとして今日にいたるまで版を重ねている。当時わたしはこの本の書評に「会議が終った今になって見るとこの一冊は、千数百万円の資金と労力を使ったあの会議に、十分に拮抗できるだけの大きな意義と内容をもっていると痛感する」と書いたが、その思いはいまも少しも変わらない。しかも彼のアラブ文学への情熱は一回の会議、一冊のアンソロジーで終わることなく、さらに『現代アラブ小説全集』全十巻(河出書房刊)にまで持続するのである。これが野間宏の「運動」のスタイルなのであった。
野間宏か環境破壊について熱っぽく語るのをはじめて聞いたのは、一九七三年に開かれた国際AA作家会議第五回大会に参加した時のアルマアタのホテルでだった。現代文明の危機という文脈のなかで語られる環境問題の力説は、それなりに埋解できたのではあったが、それが彼の文学にどのような焦点をむすぶのかは私にはよくわからなかった。一つのセンテンスを終えるまでに延々と数十分を要する彼の語り口のなかに、その曲がりくねった論理をたどるのはよほどの習熟が必要であった。小田実は「野間さんの話はわからないとみんなが言うけど、よく聞いているとちやんと論理は通っているんだよ」と言ったが、野間宏の全体小説論に疑問をもちつづけている私には、ついにこの「習熟」は不可能だったのかもしれない。
野間宏がAA作家運動と環境問題との接点として、バイカル運動に大きな期待をもったことは当然だったが、しかしここでも、彼が期待したほどの成果をあげるには問題は複雑だった。私たちが一九八七年にバイカル運動をはじめたとき、ソ連での環境破壊に反対する住民の自主的な運動があるのは、アルメニアのエレヴァンなどほんの数箇所にすぎなかった。だから作家にたいする民衆の伝統的な尊敬がいきつづけているソ連で、作家たちか環境間塵に警鐘を鳴らすことには特別な意味があった。しかし多様で持続的な反公害運動をもち、作家の社会的な役割もことなった日本では事情は当然ながら同じではなかった。ソ連の作家たちには、問題を文学に結びつけて考えるほどの余裕はない。彼らは一様に社会活動家としてふるまういがいになかったのである。この違いを野間宏はおそらく直視していたのだろう。もしこの違いを自覚せずに行動すれば、社会運動のなかで作家という肩書きを特権的に使う(あるいは使われる)という悪しきパターンの繰り返しになるだけだ。死の半年前に入院中の野間宏を貝舞った、バイカル運動の日本側委員の中本信幸をつうじて、私への「遺言」が伝えられたのだったが、それはAA作家会議はあくまで文学に固執せよ、というものだった。野間宏はAA作家会議にたいしてもバイカル運動にたいしても、文学をと叫びつづけたのである。
野間宏が死んで多くの人が追悼文を書いた。しかし野間宏とAA作家運動とのかかわりについては、埴谷雄高や中園英勘や田所泉などごく少しの人がエピソード的に書いただけである。そしてそれにはおそらく理由があったのだろう。それはいまから二十年近くも前に、あのアルマアタのホテルで私が感じた疑問、環境問題とかアジアとかアフリカの問題などが、野間宏の文学のなかにどういう焦点を結ぶのだろうという疑問が、わだかまっていたのではないだろうか。埴谷雄高は「ロータス賞の頃」(『海燕』三月号)と題した追悼文のなかで、「(ロータス賞の受賞以後も)野間宏は、その内実を大くしつづけ、そして、生理、心理、社会を越えた分子生物学や環境問題や聖と賤などへと作家的内実をそれからなおも拡大しつづけたのであった。
アジア・アフリカ作家会議のタシュヶント行きからはじまった彼の海外行きは、中国、ソヴェト、エジプト、ドイツへと辿り、最後はバイカル湖上にまで至っている。これまで私は、堀田善衞を国際作家と呼んできたが、絶えず落着いて海外の作家達と対座してきた吾国の重厚で大型な国際作家として、いま野間宏をさらに挙げておかずばなるまい」と的確に野間宏を評価したが、その彼はまた秋山駿との対談「格闘する文学」(『海燕』六月号)のなかでは、「野間君は環境汚染を取り上げて、われわれが自然から抽出して使っている道具の幾つかが人類に対して悪い影響をもっているから人類が滅ぶということなんですけれども、人間の使い方が悪いというよりも、物それ自体が悪意を持ってお互いに存在しあっている、というふうに解釈したほうがいいんだろうと僕は思う。」「内面を扱わないで、外面的に科学が扱うから、つい文学者も外面的に、原爆がどうの、フロンガスがどうのと、外面的に扱うことになってしまうんです。自分の内面としてじゃなくて」と野間宏批判ともとれる発言をしているのである。
「全体」を文学的に扱うためには、それを一点に集約する作家の自我、埴谷雄高の言葉を使えば「自分の内面」が強固に存在しないかぎり、あれもこれもと外面的に拡散するだけであろう。野間宏は、全体というものを、そしてその全体にいたる文学的な道筋をも、ともに誤解していたのではないかという疑問が私をはなれない。しかもなお、全体に固執し全体にいたる道を歩み通した彼の自我に、私はときになにか怪物じみたものを見るような怖れを感じたのであった。
(『新日本文学』1991年秋号)