去る五月二十四日に小田切秀雄が亡くなった。友人、知人によるお別れ会もおわって、いまは彼との五十年にもおよぶ交友をぼんやりとふりかえっている時間がおおくなった。五十年まえといえば、それは朝鮮戦争がはじまった年であり、日共の大分派闘争がはじまった年であり、私が大学を卒業した年でもある。
わたしが小田切さんと知り合ったのはそれよりさらに二年前、わたしがごく短期間であったが新日本文学会で雑誌『新日本文学』の編集を手伝っていたときだった。しかし彼は間もなく闘病生活に入りそれは五十二年ごろまでつづいた。そして回復期の小田切秀雄を中心に、小田切進、西田勝、和泉あき、それにわたしをくわえて、後に日本近代文学研究所と名乗りを上げることになる研究会を発足させたのである。
それからの月日にはおのずとその交友に濃淡の時期があったが、いまはそれをこまかく振り返ることはしないで、一九九〇年から後のことを書き留めておきたい。
一九九〇年は言うまでもなくベルリンの壁の崩壊から社会主義圏全体の瓦解を生み出す出発点となった年である。この年、小田切さんは七十三歳であった。わたしと小田切さんとは十歳違いである。つまりその時の小田切さんといまのわたしはおなじ年である。なんとこの十年は目まぐるしく流れたことか。
昭和天皇の死の前後、さまざまな形での反天皇制運動が噴出した。反天皇制運動連絡会、いわゆる反天連もその中心を担った一つである。この時期以後、小田切さんはいままでになく頻繁に電話、手紙、はがきなどで、自分の意見を述べまたわたしの意見をもとめるようになった。それは彼の死にいたるまでつづいたのである。
十歳違いの私には小田切さんははじめひどく老成した人に見えた。運動の世界でも彼が行をともにするのは中野重治であり佐多稲子であり、自分よりも上の世代だった。それがこの頃からか、あるいはそれよりも少し前からか、「ぼくは成熟しないねー」とくりかえすようになった。成熟しないというのは年長の世代のままでヤンガージェネレーションのなかに入っていくことではない。自分自身がヤンガージェネレーションになることである。小田切さんはさまざまな運動のメディアに丹念に目を通し、購読料を払うだけでなくときどき多額のカンパを送ったりして支持を表明した。彼がそのような形で支持した運動のメディアはどのくらいあったのだろうか。わたしを通じて定期購読者になってくれた運動メディアだけでも、いま思い出すだけで五種類に達する。
彼はそれらをたんなるカンパ、財政援助のつもりで購読したのではなかった。じつに丹念に読んだ。おそらく彼は、長年続けてきた日共批判からはどのような可能性も生まれない、マルクス主義の人間主義的解釈によっては、マルクス主義の復権は不可能だと感じ始めていたのではないか。なにを今頃などと言ってはいけない。
小田切秀雄の本領はいうまでもなく、文学史に裏付けられた批評である。かつては、中村光夫にしても本多秋五にしても平野謙にしても、文学史と批評とは車の両輪のようなものだった。ところがいまの若い批評家の批評は、作品を歴史から切り離し、作家の創作歴から切り離し、孤立したものとして論じるものが多い。構造主義ののこした荒廃である。小田切秀雄の批評はそれとは違うオーソドックスなものだった。しかしそれだけではない。彼の日本近代文学をたどるうえでの基本的なメルクマールは、天皇制にたいする距離であり、二葉亭いらいの日本近代文学における近代的自我の追求が、客観的に天皇制にたいする抵抗にほかならなかったことを、作品に即して明らかにしようとするこころみであった。天皇制問題は小田切文学史の核である。彼がわれわれの運動に共感を惜しまなかったのにはふかい根拠がある。
小田切秀雄の作品のなかでとくべつな位置を占めるものに「退廃の根元について」という論文がある。『思想』の一九五三年九月号に掲載されたこの論文は、上に述べたような近代文学およびプロレタリア文学と天皇制との関係を方法論的に解明しようとした、小田切文学史にとって重要な位置をしめる論文である。この論文の成立にはわたしも若干かかわった。神山茂夫の絶対主義天皇制論をレクチャーしたのである。おかげで彼は神山派だという中傷を受けることになる。
戦後五十年ということでいろいろな問題が噴出したとき、わたしは『歴史のなかの「戦後」』というブックレットを出した。天皇の「終戦」とはいったい何だったのか、八月一五日から十月四日の治安維持法廃止の指令にいたる五十日間の日本をおおった奇妙な沈黙の意味をもっと考えよう、というわたしの主張に、彼はながいながい共感の電話をかけてきた。そしてもういちど「戦後文学」を考え直すという決意をのべた。その仕事は八十歳をこえる老齢にもめげず、一九九九年八月号の『群像』から「戦後文学の回想と検討」の題で連載がはじまった。そしてそれは今年の五月号の四回目をもって中絶した。まさに現役での死であった。