彼を私に引き合わせたのは、三月ほど前に死んだ山口健二だった。一九七〇年代の末か八〇年になったばかりの頃だったと思う。そのころ彼はボリヴィアの映画作家ホルヘ・サンヒネスの作品「ウカマウ」の上映運動をやっていて、私たちが八一年に川崎市で開催したアジア・アフリカ・ラテンアメリカ文化会議の催しにそのフィルムをもって参加したいという話だった。これを契機に、この催しを主催したアジア・アフリカ作家会議の会員になった彼は、会が一九九七年に解散するまで、多くの会員から深く信頼される、欠くことのできないメンバーとなった。
彼は一九六〇年代の後半に、山口健二や松田政男といっしょに今日では伝説的な『世界革命運動情報』という謄写印刷の雑誌の編集・刊行にかかわった。この雑誌はゲバラのメッセージをいちはやく紹介して、当時の新左翼やベトナム反戦運動に大きな影響をあたえたのだったが、彼もまたそのなかから「民間」の異色のラテンアメリカ研究者として巣立っていくのである。彼を見ていると、学問とは本来どのようなものであるべきかを深く考えさせられる。
彼はその豊富な知識と識見をもとに、八〇年代の中頃から彼が編集を主宰することになった現代企画室から、壮大な「インディアス叢書」の刊行を始める。この叢書はこの国のラテンアメリカ研究にとって、ひとつの座標軸になるものだ。
座標軸と言えば、彼自身が座標軸である。ある事件なりある思潮なりにたいして彼がとるスタンスを見ていると、だいたいその事件なり思潮なりの位置が見えてくる。時流に流されないという点では、前々回に登場してもらった池田浩士と双璧かもしれないが、じつは全然違う。池田が固陋な反テクノロジー主義者で、コンピューターなど触るのはもちろん見るのもイヤだというのにたいして、彼はさっさとコンピューターを導入しインターネットを活用しホームページを立ち上げる。運動と編集活動に有用なものは積極的に使うという活動家のセンスに貫かれているのだ。
すこし褒めすぎた。またまたお酒の話をしよう。じっさい私の友人には酒飲みが多い。小倉利丸のように体質的にアルコールを受け付けない人もいるが、ごく少数の例外だ。飲む人間はそれぞれ個性的な酔っぱらい方をする。かつて、太田昌国の酔っぱらい方は壮烈なものであった。いつ爆発するかわからない時限爆弾が鼻先に転がっているような恐怖と緊張感をもって、何十回、何百回、彼と杯を交わしたことだろう。しかし最近の彼はすっかり丸くなった。酔うと若い人たちをひきつれてカラオケに行く。カラオケではマイクを離さないと、そっと私に教えてくれた人もいる。
(『週刊読書人』1999年10月1日号)