戦後の肖像

1. ヒロヒト

「卿参謀總長トシテ至難ナル戰局ノ下朕カ帷握ノ枢機ニ参劃シ克ク其任ニ膺レリ今其職ヲ解クニ臨ミ茲ニ卿ノ勲績ト勤勞トヲ惟ヒ朕深ク之ヲ嘉ス/時局ハ愈ゝ重大ナリ卿益ゝ軍務ニ精勵シ以テ朕カ信倚ニ副ハムコトヲ期セヨ」
  内閣総辞職をした東条に送った昭和天皇の「勅語」である。『毎日新聞』が発見してほんの数日前(三月一九日)に公表した。
 挙げ句の果てに東条だけが絞首刑。おいおい、そんなに褒めといて、見殺しとは酷いじゃねーか。どうして朕も一緒にと、同行二人と書いた菅笠でもかぶって、あのときあの世に行かなかったのかね。

2. マッカーサー

 わが国びとは、彼がコーンパイプをくわえて厚木に降り立った姿を脳裡に焼き付けた。ふん、さぞウメーものをたらふく食っていやがるんだろう。そしてこの偉大な民主主義の教師はわが人民をガキ扱いして教訓をたれた。
 しかしその頃、わが人民は彼をマックとは呼ばなかった。ただひと言「ヘソ」。そのこころは、チン(朕)のうえにあるから。……
 ああ、一望の焼け野原にあすの食い物さえろくになく、街には異国の兵士が闊歩し、昨日まで鬼畜米英と呼んだ彼らの前に嬉々としてゴマをする軍人・政治家・資本家たちを冷ややかに眺めながら、わが人民のなかには天明狂歌の遺風なお脈々と流れていたのであった。
 そしてわが戦後文学も、ついにこの「ヘソ」の一言を越えることはなかったのである。

3. 吉田茂

 

 「臣・吉田茂」と称したこの男は、人びとが1日3本の配給タバコを細かく切り分けて鉈豆きせるでちびちびと吸っているときに傲然と葉巻をふかし、働けるだけ食わせろとデモする人民を不逞の輩と呼んだ。
 戦争末期に革命を予防するための早期戦争終結を画策して、憲兵隊に拘留されたという経歴が示すように、保守派として手強い相手であった。残念ながら左翼には、彼と太刀打ちできる政治家はいなかった。われわれの戦後は、5次にわたる吉田内閣によって方向づけられ絞め殺された。
 われら不逞のガキたちは、切歯扼腕してコンサイス英和のページをひきちぎり、闇市の粉タバコをカウボーイのように片手で巻き、えがらっぽい煙を吹き上げながら、革命の夢を語って夜の更けるのも知らなかった。

4. 美空ひばり

 笠置シヅ子の「東京ブギウギ」を歌謡曲における戦後の始まりと熱烈歓迎したオレは、このこまっしゃくれた小娘が、大先輩のこの持ち歌を横領したのを許せなかった。しかもそれだけではない。あろうことか、小娘の方が大先輩のオリジナルよりも聞かせるところが、ますます気に入らない。
 しかしオレの怒りが最高潮に達したのは、笠置シヅ子の物まねで売り出しながら、一転して「悲しき口笛」で日本調に転じ、庶民の哀感とかいうものにすり寄ったことだった。オレら前衛主義者の徒党は、戦後の貧しさにやさしく寄り添うようなひばりの歌を拒否した。
 ずうっと時代が過ぎて、高度成長のなかで「戦後」も彼女も大衆から忘れられたとき、オレはふっと、戦後を生きた民衆の心を癒すことができたのは、オレたちではなく確実に彼女だったのだと思った。

5. 太宰治

「あなたじゃないのよ あなたじゃないあなたを待って いたのじゃない」
 戯曲『春の枯葉』の主人公はこんな歌を口ずさみながら、得体の知れぬ酒をガブ呑みして死んでしまう。当時ありふれたメチルアルコール中毒死。
 敗戦から三年目の冬、オレは毎日ホールの片隅で、ただ一人隠れるようにその舞台を見ていた。昼は活動家で夜は太宰治に耽溺する少年は、そんなにめずらしくはなかった。
 戦後には太宰治がよく似合った。しかし太宰自身は戦後を嫌った。敗戦直後には故郷の津軽で共産党の集会にも顔を出したといわれる彼も、たちまちその手の「闘争」に愛想をつかし、東京に帰ってからは弱肉強食の巷に絶望した。「あなたってアメリカのことだよ」と太宰は奥野健男に言ったとか。アメリカと天皇によってもたらされた嫌らしい「戦後」、下品で残酷な戦後、それが待たれざる客「あなた」だった。

6. 羽仁五郎

 敗戦の翌年2月、寒風の吹き込むK大学の定員300人の教室には、優にその倍の人間がひしめいていた。野呂榮太郎追悼集会に帰国したばかりの野坂参三をひと目見ようという野次馬が大半。そこに前座として登場したのがこのセンセイだった。その静かなアジ演説は満場を酔わせ野坂の影を薄くするほどだった。
「ミケルアンジェロは生きている、うたがうものはダヴィデを見よ」と、戦争中に極東の野蛮国に生まれた運命を呪うガキを、そのひと声で元気づけてくれたこの啓蒙家に、オレは尽きせぬ敬愛の念をもちつづけた。爾来、羽仁五郎はK大学の左翼が人寄せをする時の、最大の頼みとなった。
 戦後の忘られぬ映画「カサブランカ」のハンフリー・ボガードをはじめてみたとき、ややっ、羽仁五郎と思ったのはいささかひいき目というものかもしれないが、戦後も終わりに近くなると、ハニ節もなんとなく大風呂敷に聞こえ、かつての神通力は消え失せた。

7. 岸信介

 どんな悪党にもほんの爪の垢ぐらいのものせよ、どこかに笑えるところがあるものだ。ところがこの悪党にはユーモアのカケラもありはしない。
 東大法学部在学中は学生右翼団体「七生会」のリーダー。農商務省に入って革新官僚。満州国産業部次長。満州国開発五カ年計画を立案。日本にもどって商務次官のあと、四一年東条内閣の商務相となり国務大臣の資格で天皇の宣戦布告の詔勅に副署。軍事物資調達の元締めとなる。戦局悪化の中で東条を裏切り内閣瓦解の元をつくる。敗戦後は当然A級戦犯。冷戦の激化により四八年に釈放。五七年にははやくも総理に就任。かくて日本は最悪の戦争犯罪人を総理にいただくことになる。死ぬまでにもう一度バナナを食ってみたいというオレの夢は、それが岸の台湾利権につながると聞いて潰えた。
 そして六〇年安保闘争。いまも岸という名前を思い出すとかならず、「岸を殺せ、岸を殺せ」という叫びにつつまれた国会議事堂が目に浮かぶ。
 われわれの倫理的崩壊の原点である。それをユーモラスに語るという度量は、まだオレにはない。つまらなくてご免なさい。

8. 深沢七郎

 マサキリが振り下ろされ、皇太子と美智子の頭がスッテンコロコロと金属性の音を立てて転がっていった……という「風流夢譚」が発表されたのは、60年安保闘争が敗北して若者がザセツなどと陰鬱につぶやき始めたその年の11月だった。そのあげくが右翼少年による中央公論社社長宅の女中さん刺殺事件となったことは知られているとおり。
 しかし不思議なことに、この作品は、三島由紀夫や江藤淳のような保守的な作家や批評家が擁護し、中野重治や花田清輝など左翼が批判するという構図を生んだ。革命の戯画化だというわけだ。いまから見れば、このスッテンコロコロの物語は60年安保闘争の産物というよりも、その前年の皇太子・美智子の「世紀のご成婚」への違和感の表現として読める。そこに三島や江藤がこれを支持した理由もあるだろう。
 だが、現実の深沢七郎はそんなイデオロギーには関係なかった。「どうも左翼もあっと驚くようなのが出てきませんねーえ」「いやいやいるんですよ。そのうち出てきますから」。オレの予言を深沢は覚えていたろうか。60年と70年の狭間のひと時の会話であった。

9. 三島由紀夫

 この遅れてきた日本浪曼派の流れに連なる耽美主義者にとって、「戦後」とは醜悪な時代だった。――しかしここで逃げ出したのでは作家は生まれない。「一九四五年から四七、八年にかけて」と彼は書いている、「あの時代とまさに『一緒に寝て』いた」と。三島由紀夫はまぎれもなくもっとも戦後的な作家だった。闇屋、人殺し、強盗、ペテン師、等々、アプレゲールの青年男女は彼によってその面影をとどめた。
 しかし戦後は続かない。一九五五年、時代は反動期に入ったと彼は書いた。悪も美も大衆社会のなかに拡散しはじめたその時代を、彼は醜悪な戦後の帰結として憎んだ。その憎悪はこのような戦後を招き寄せた人間天皇にも向けられた。「などてすめろぎは人間(ひと)となりたまいし」。彼が市ヶ谷の陸上自衛隊でハラキリをやらかしたとき、ヤラレタと口走った左翼イデオローグの面々をオレはいまもって忘れない。ハッタリ野郎メ。
 オレはただ一度だけ、あれはロココ風とでも言うのだろうか、オレの趣味には合わなかったが、瀟洒な新築の彼の家に行ったことがある。彼自身はいかにも育ちのいいという、これまたオレとは無縁の、しかしいつも礼儀正しく親切な青年だった。

10. 吉本隆明

 「予言者をとりまく群衆達から遠くかけ離れたところに暗く立っている『最後に来た人』」と、埴谷雄高は登場したばかりの頃の吉本を呼んだ。
 兵隊であったかどうかには関わりなく、本気で「戦争」をやった若者にとって、日の丸を一夜にして赤旗に持ち代えた指導者とそれをとりまく追随者の姿を見ては、暗くなるのは当然だった。その鬱積が一挙に爆発したのが「前世代の詩人たち」にはじまる戦後思想への痛撃にほかならない。吉本隆明によって、日本の戦後思想ははじめて「戦後」の名にふさわしい地平を拓くことができた。そのための彼の悪戦苦闘をオレはけっして忘れない。
 しかし彼は明るくなったね。それでオレは思い出す。オレも彼もともに愛読した太宰治の「右大臣実朝」の一節、「平家ハアカルイ。アカルサハ、ホロビノ姿デアロウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ。」いいよ、いいよ。少なくともオレは源氏よりは平家の方が好きだからね。

11. 小田実

 世の中には「化ける」というほめ言葉があるが、凡庸な人間がある日突然に思わぬ才覚をあらわし、人びとをアッと言わせるのだ。ベ平連のなかでの小田はまさにこの言葉がぴったりの軌跡をたどった。
 ベ平連のお膳立てを作ったのは「思想の科学研究会」の鶴見俊輔や高畠通敏たち、親米的な市民派だった。その線でフルブライト留学生・小田が引っぱり出されたわけだが、彼らの米国は五〇年代左翼の反米主義が描いたそれとはぜんぜん違っていた。オレのような左翼反米主義者(!)でさえ、彼らを通じてもう一つのアメリカ、古典的に民主主義が生きているアメリカを教えられ体験させられた。
 ベ平連がたんにベトナム反戦運動だけでなく、六〇年代後半の大衆的な運動や文化の領域で果たした足跡は大きい。それが実現したのは、純粋市民派から共産党被除名組までを包含してついに分裂しなかった自由な人間関係にあっただろう。みんながベ平連のなかでは「化けた」し「化ける」ことができたのである。そのなかで大化けした小田の最大の功績は、われわれ自身が被害者であると同時に加害者でもあるという二重構造を発見し、それを基底に据える運動を構築したことである。

12. 大江健三郎

 この高名な作家は、その登場の時からなんとなく「いじめられっ子」という印象を人にあたえた。右からも左からも戦後民主主義がいたぶられるなかで、戦後文学の正統な継承者を任じる彼は、意外にもしたたかに「民主主義の子」を演じつづけた。
 朝日新聞と岩波書店そして小説では新潮社が大好きという、絵に描いたようなエリート文化人の種族に属しながら、そしてそのメリットを満喫しながらも、彼は一貫して「いじめられっ子」=民衆というポーズは崩さなかった。しかしポーズも四〇年も演じつづければ肉体化してしまうだろう。「ぼくは動員する側ではなく動員される側にとどまりつづけます」と言い、自著の献辞に「はるか戦線の後方より」と書く彼に、オレは悪い感情を持ってはいなかった。
 しかし例のノーベル賞騒動で、オレは舌をまいたね。大戦略家ケンザブロー・オエ! なになに? ぼくは動員される側だって? あの動員力にはかつてのベ平連も足元にもおよびませんよ。「あいまいな日本の私」はまた「日本のあいまいな私」である。かくて××の(オレは元号は使わないからね)聖家族はめでたく誕生したのであった。

13. 麻原彰晃

 ことオウムの漫画化についていえば、反天連『NOISE』の右に出るものはついになかった。かんたんなことである。わが反天連の同志たちをのぞいて、麻原彰晃と天皇とのほとんど双生児のような関係を描ききるだけの根性をもった描き手がいなかっただけのことだ。
 敗戦後五〇年という年に、なにが平和かよとあざ笑うように出現したこの尊師は、慰霊の巡幸とやらをつづける天皇夫妻の頭上に、空中浮揚の術を使って姿を現す。「本家本元はお前の方だよ」と。
 毒ガス、細菌兵器、人体実験、リンチ殺人、そして上御一人に帰依する忠勇な兵士たち……すべて、神聖天皇ヒロヒトを大元帥といただく大日本帝国が模範を垂れている。オウムは情けないほど規模が小さかっただけだ。「オレはお前の真似をしただけだよ」と麻原は法廷で叫ぶか。
 敗戦後五〇年、さてつぎは何か? 

(敗戦50年問題連絡会機関誌『50→NEWS』No.0〜No.12、1995年3月25日〜9月10日号に連載)