たしかあれは私が『週刊読書人』の編集者をしていた頃だから、一九六〇年代のはじめだったろう。平野謙が「竹中労はあの竹中英太郎の息子なんだってねえ、それに英太郎はまだ生きているんだそうだよ」と興奮した口調で話したことがあった。「あの」英太郎という言い方のなかに、平野謙の『新青年』愛読時代の感慨がただよっていて、私はその口調までいまも鮮明に覚えている。私も同時代ではなかったが、日中戦争がはじまったばかりの中学生の頃、同好の同級生から『新青年』のバックナンバーを借りて、江戸川乱歩や横溝正史、夢野久作を読み耽った思い出をもっている。竹中英太郎の挿絵はそれらの作品と切っても切れないもの、と言うよりも作品そのものの一部として、私の脳裏に焼き付いていたのだった。だから平野謙の話は私にとってもまた、ひとつのビッグ・ニュースにほかならなかったのである。
その頃、私が竹中労と個人的に面識があったかどうか、いまは定かでない。親しくなったのは七〇年代に入ってからだったと思う。労さんの七面八臂の活躍を一歩の距離をおいて眺めているのが常態ではあったが、人並みに夜更けの新宿の飲み屋であわや殴りあいの喧嘩口論もしたし、大島渚のコリーダ裁判では初公判で裁判長に「バカヤロー」と罵声を浴びせて拘束された労さんの「救援」(?)をやったり、なにかと労さんのツッパリの飛沫をかぶったこともなくはない。それでも労さんのツッパリは、その陰に人の良さ、優しさがまる見えになっていて、子供じみた愛敬があった。喧嘩口論は一度きりだったが、それを労さんはいつまでも覚えていて、最近にいたるまで、「おい、この話はもうよそうや、これ以上やるとまた喧嘩になるから」と、人なつこい目に笑みを浮かべて話を中断したことも二度、三度にとどまらない。
二年前に池ノ端の弥生美術館で開かれた<竹中英太郎懐古展>に行って、久しぶりに労さんに会った。労さんはひどく喜んで見おわった私を喫茶店にさそい、英太郎のこと、自分の病気のことなど、話はつきなかった。話す労さんを見ながら私はふと、労さんもいよいよ本当のアナーキストになったな、と思った。秋山清にしても岡本潤にしても、私が親しくしたアナーキストは例外なく穏やかで優しかった。と言っても人生に達観してしまったわけではない。胸の底には赫々と火は燃えていた。労さんの最晩年の労作はいうまでもなく竹中英太郎作品譜『百怪、我ガ腸ニ入ル』の編集と刊行である。労さんはこれに全精力を傾けた。それはけっして自分の父の仕事の顕彰ということにとどまるものではなかった。労さんはその序文に書いている。「竹中英太郎において、剛直な志操と沈淪の美意識とは矛盾することなく、表裏一体の精神生活を形成した。……青春のアナルコ・サンディカリズム(無政府主義労働運動)、初一念を貫き通したとも言えよう。だが戦争と平和、窮乏と繁栄を問わず、時代は病み人もまた病む。飽食の時代、お前は幸せか?
なべての差別と孤独、精神の飢えから解放され、真実自由に生きているか? と、英太郎の絵は問いかける。」これは労さん自身のわれわれへの問いかけでもあっただろう。彼の胸にも火は赫々と燃えつづけていたのだ。
労さんに最後に会ったのは去年の暮、『「たま」の本』の出版記念会でだった。見た目にも肉体の衰えは隠せなかったが、ノン・アルコールの缶ビール(?)を飲みながら、しかし意気は軒昂だった。数日前に献呈した拙著を話題にしながら、「私も世間の人に左翼だと思い出してもらえるような本を書きますよ」と言ったのは、彼一流のサーヴィス精神の流露であったにしても、彼が死にいたるまで一貫して反権力の人であったことに疑問の余地はない。
ああいう死に方が一番いいね、というのが竹中労の死の報を聞いたとき家内がもらした言葉である。私もそう思う。
(『新雑誌21』1991年8月号)