いままで本多秋五について、見当違いのイメージを持ちつづけていたんじゃないかと思い知ったのは、あの十六巻におよぶ重厚な全集を眺めたときだった。わたしが編集者として訪ねたのは、本多さんが逗子から名越のトンネルに通じる農道わきの農家の離れに住んでいたときだから、かれこれ五十年に近い昔である。それから『物語戦後文学史』の編集者としてのまる五年間の濃密な期間をふくめてごく最近にいたるまで、おつきあいはかわりなくつづいた。その間、わたしの本多さんについての遅筆、寡作、そして重厚というイメージは、いささかもゆるがなかったのである、あの全集が並ぶまでは。
おもいかえしてみれば、たしかに本多さんは遅筆ではあったが、ずるずると締め切りをのばしたり、すっぽかしたりする悪質な著作家ではなかった。約束を守るという点では他人にきびしいとおなじに自分にもきびしかった。ということは自分の速度にあった仕事しか引き受けない、その限度を厳守したということである。
では寡作ということはどうだろう。十六巻の全集をまえにしてわたしがさいしょに感じたのは、本多さんはこんなにたくさん書いていたのかという驚きであった。本多さんはもちろん乱作ではなかったし、おなじことをくり返し書く啓蒙家や論争家でもなかった。しかし寡作という印象は、たんに文芸ジャーナリズムにあまり登場しないところからくる虚像だったのだとおもう。時評的な文章が多くないということもそれに関係していただろう。しかし本多さんの文章が時評的でないということは、それらがそのときどきの文学的事象と関係ないということではなかった。
文学にも時々の論争などもふくめて時流があり、ジャーナリズムがそれをことさらに流行に仕立てあげることもすくなくないが、およそそのような時流から超然としているかに見えた本多さんの仕事が、騒音が消え去ったいまになってあらためて読みなおしてみると、それらがみなその時代の文学的なアクチュアリティーにふかくかかわっていたことを発見する。表層の波乱にかかわりない深層に身をおいて、本多さんの批評は根底的にアクチュアルだったのである。そのことは戦争中の著作『「戦争と平和」論』から一貫した本多さんの批評の特質である。
『「戦争と平和」論』は、戦争による死を覚悟した遺書として書かれた。この遺書という性格は、竹内好の『魯迅』、武田泰淳の『司馬遷』、丸山真男の『日本政治思想史研究』にまとめられた諸論文、そして花田清輝の『自明の理』や埴谷雄高の『不合理ゆえに吾信ず』まで、戦争末期にいわば日本の近代文学、近代思想の「最後の言葉」として書かれた著作に共通している。これらの戦後の思想・文学の基層を形成することになった著作は、けっして戦後を予見して書かれたものではない。
『「戦争と平和」論』の中心のテーマが必然と自由という問題であったことは、本多さん自身がくりかえし書いているところである。「自由とは必然性の認識である」というマルクス主義的理解にふかく共鳴していた本多さんが、運動の崩壊と転向を経て戦争という必然のなかに裸で投げこまれた自分をみいだしたとき、いままでの理解では間尺に合わないこと、つまりこの戦争のなかでいかに生きるべきかという本多さんの最大関心事に、このテーゼは答えられないことを痛感する。ここが戦後文学のペースセッターとなる本多さんの誕生の地である。未来への明るい展望など微塵もない遺書のなかに、戦後文学は胚胎したのだった。
このことは戦後文学を占領政策の申し子だとするような脳天気な議論を粉砕してしまうだろう。江藤淳の批判に答えて、自分は敗戦直後にまちがいなく青空を見たと本多さんは言った。そしてこの言葉は、軽薄さとはおよそ無縁なふかい経験に裏づけられた言葉だったのである。
本多さんの戦後の第一声である「芸術・歴史・人間」(『近代文学』創刊号)は、戦争中の経験の再確認であると同時にその戦争中の経験をもって「戦前」の批判的克服を主張しているという意味で、まさに戦争体験派としての戦後派のマニフェストとよばれるにふさわしい。その後の本多さんの仕事についてくわしくその跡をたどるだけのスペースはあたえられていないが、「転向文学論」(五四年)、「上部構造論についての手紙」(五六年)、「物語戦後文学史」(五八年〜六三年)、「有効性の上にあるもの」(五九年)、「『人類学的等価』について」(六四年)、「『無条件降伏』の意味」(七八年)……と、思いうかぶままに作品をひろってみると、たんに戦後文学のペースセッターというだけでなく、その出発のマニフェストから終息の後の後始末まで、その仕事のすべてを本多さん一人が担っていたのだという感慨をあらたにする。この頑固な一貫性こそ本多秋五の真骨頂であろう。その頑固さとは自分の経験にあくまでも固執することである。わたしには、自説の補強に海外の流行思想を援用する本多さんを見た覚えは皆無だ。
『古い記憶の井戸』や全集別巻の年譜を見て気づくことは、友人たちへの本多さんのふかい信頼と愛情である。それは末っ子として、いずれも長命にめぐまれた長兄や姉から受け続けた慈しみが、本多さんのなかに育てた真っ直ぐな、あたたかいこころの発露である。逗子の簡素なお宅にはいつも本多さんのかたわらに治子夫人があり、本多さんとの談笑にはいつも治子夫人が加わった。おふたりが醸しだすあたたかな雰囲気は、本多家に独特のものだった。だから治子夫人がさきに逝かれたとき、わたしたちは心底心配した。しかし本多さんは、末っ子であると同時に苦難の道を歩みとおすだけの力をもった剛直な人でもあったのである。
亡くなるその前夜まで、元気に読書をし床に入ったという話を聞いて、いかにも本多さんらしいとおもった。しばらく前までは、夜、唐突に「アジア的生産様式についての議論はいまはどんなふうになっていますか」というような電話がかかってきたことなどをなつかしくおもいだす。思い出はつきないが、いまはいかにも本多さんらしい大往生、と自分に言い聞かせるだけだ。
(『図書新聞』2001年1月27日号)