この連載も今年いっぱいで終りになるそうで、まったくいい潮時だろう。と言うのも、最近のチョー右派言論には、さっぱり面白いものがないのである。なぜ面白くないかといえば、現実の方がはるかに言論の先を行ってしまったからだ。一年前に日の丸・君が代の法制化を主張した右派言論は皆無だったはずだ。それが自自公という野合政治の力学のなかで、ヒョウタンから駒がでるように実現してしまう。盗聴法しかり、改正住民基本台帳法しかり。これらを強行した政府の側にはまともに論じるに値する言論など皆無である。
しかしあえて想像力を働かせて現状を透視すると、意外におもしろい構図が見えてくる。ごくごく仮の分類で「右」と「左」とわけてみると、この二つが整然と対立しているのではなく、「右」のなかにも「左」のなかにも対立があって、いわば四つ巴になっているのが見えてくる。その対立はいままでの党派的な対立=差異とはちがって、もうすこし根本的なものである。それがもっともよく示されたのが「日の丸・君が代」法制化問題にあらわれた象徴天皇制をめぐる立場の違いだ。天皇制をどうするかというような、ややもすれば現実の生活からは離れていると受け取られがちな問題提起ではなく、「日の丸・君が代」という具体的なモノが問題であったために、それと不可分の天皇制がこれも具体的な問題として受け取られた。
「日の丸・君が代法制化問題で真に問われているのは、じつは、象徴天皇制をどうするのか、二十一世紀の日本でもこれを維持するのか、それとも不要とするのか、という問題なのだ。」「戦後半世紀を過ぎ、二十一世紀を展望するとき、今回の問題は、日本が日の丸・君が代とともに、それと不可分の象徴天皇制からも離脱するという選択を真剣に考慮する『決定的な機会』になるべきではないか、と私は思う。」(「真に問われているのは象徴天皇制をどうするかだ」、『論座』9月号)という高橋哲哉の主張に共感したわれわれの仲間は多い。私は高橋がこの論文で「日の丸・君が代」に反対する根拠としてあげている論点のすべてに賛成だが、そのうえで若干の保留をつけたい。それはこの「真に問われているのは象徴天皇制をどうするかだ」という主張を運動のなかに持ち込んだ場合、それは運動の実体に即さない観念的な最大限綱領主義に堕してしまわないか、という点がひとつ――「日の丸・君が代」法制化に反対だが象徴天皇制は支持するという人は結構多い――、しかしそれ以上に私がこだわるのは、象徴天皇制が問題だという高橋の論が、前記の「四つ巴」の対立を「右」「左」の、つまり象徴天皇制護持・強化か、象徴天皇制廃止か、のふたつの対立に単純化してしまっているのではないか、はたしてそれは現在われわれが直面している課題を考えるうえで有効なフレームか、という疑問である。
現在、天皇制の存続を主張する立場はおおまかに言って三つあるとおもう。第一は、九条をふくむ象徴天皇制国家を規定した現在の憲法を護持する立場。戦後民主主義派だ。第二は、象徴天皇制を立憲君主制に改変し、天皇に(比喩的な意味でだが)「三分の一の権力」をあたえようとするもの。これは「普通の国」路線だ。第三は、われわれの言う「チョー右派言論」にあらわれた「天皇抜きのナショナリズム」。もちろんこの命名は実態をあらわしてはいない。象徴天皇制を文化天皇制に改変し、天皇を一切の政治的な機能から解放することによって逆にその「国民統合」力を高めようというもの。古代王権の構造の現代的復活と言ってもいい。一種のロマン主義である。
当然のことながら後の二つは明文改憲をめざす。しかしここで注意しなければならないのは、どのような立場のものであれ、現在の憲法を明治憲法にかえせと主張するものはいないということだ。最近の事態を見て戦前への回帰だという人が少なからずいるが、そんなことはない。象徴天皇制を戦前の絶対天皇制にかえすことなどできないのである。最近は、戦前・戦中の天皇制を立憲君主制だと主張するものが、自由主義史観派だけでなくいわゆる進歩派のなかにも見られるが、独立した統帥権をもった天皇を大元帥として頭に戴いた帝国軍隊を背骨とする立憲制国家などというものはあり得ないのである。
現在われわれが直面しているのは日本の過去への回帰ではなく、戦後国家の超克をめぐる新しい事態なのだ。もちろんその結果うまれる日本国家が過去の絶対主義的な国家や戦後国家よりも良いなどということはない。ワイマール共和国の後に生まれたナチス・ドイツがワイマール共和国よりも良いとはとうてい言えないものであったように。しかしまた、多くのドイツ国民がナチス国家の成立を喜び支持したのも事実である。なぜならナチスはロマン主義を身にまといながら「新しいもの」「解放する者」としてやってきたのだ。これに抵抗する側は、現状維持か、あるいは観念的な革命スローガンで対抗しようとした。大衆の「魂」をつかんだのはナチスだったのである。しかしこの問題については次回にふれよう。
いま、われわれが集中して考えなければならないのは、このような戦後国家の超克が課題となるときに、米国の経済的なバブルの崩壊が、日本にどのように波及するかという問題である。素人のたぶんに主観的な考えに過ぎないが、周辺事態法の最大のターゲットは、じつは日本の「国内事態」なのではないか。予想される米国経済の崩落、財政危機をできるだけ日本にしわ寄せしようとする米政府、そのしわ寄せを「国民」に転化する日本政府――ついに立ち上がる日本人民(!)一連の法整備はこの大衆の反乱にたいする日米の軍事協力による治安対策なのではないか。なに古い? う〜ん、どうせオレは古いよ。
(『派兵チェック』1999年9月15日号)