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autonomous lane No.11 1998.12.20 |
【県知事選敗北後の沖縄と私たち】
上原成信氏(沖縄・一坪反戦地主会関東ブロック代表)インタビュー
北部地域への「ヘリ基地建設案」に反対し、「基地の県内移設」の撤回を求める声明
【チョー右派言論を読む】
【議論と論考】
「皇室外交」のスタイルの変化に注目しよう!――金大中・江沢民と天皇との会談(天野恵一)
【書評】
平成不況のこの日本で、現在の社会システムへのオルタナティブをいかに構想できるか――武藤一羊『ビジョンと現実』(塩川喜信)
【表現のバトルフィールド】
「くまなく、正確、迅速に情報を」を日夜追求する活動家集団――『'97 ガイドライン安保・有事法に反対する全国FAX通信』(桜井大子)
《県知事選敗北後の沖縄と私たち》
上原成信氏(沖縄・一坪反戦地主会関東ブロック代表)インタビュー
[インタビュアー:天野恵一]
●名護市民投票をめぐる裁判
――上原さんは、昨日沖縄から帰ってきたということですが、あちらの用件は、裁判もあったようですね。とりあえず、そこらへんの報告からお願いします。
上原 12月8日の裁判の傍聴のために行ったんです。私自身も、原告として裁判を体験していますけど、長びくと人の関心もうすれ、なかなかたいへんです。最後まで、なんとか支援し続けるというつもりでいるもんですから。
――裁判の内容について少し説明してください。
上原 名護市民投票が53%ぐらいで、勝った。その三日後でしたか、名護市長は橋本龍太郎首相に、投票の結果と反対の回答をした、基「地を受け入れると」いった、それと同時に、私の政治生命を終らせると語った。
――辞職表明ですね。
上原 ええ、その行為自体が条令に違反する行為であると、住民側が訴えている裁判です。精神的な侵害を受けたから、慰謝料を一人1万円払えということで、500人以上の原告で裁判が始まっているわけです。今回が第4回目です。第3回は行けなかったんですが、1、2回は行っている。
――民事訴訟なわけですね。
上原 ええ、元市長と市の側は筆頭の弁護人が小堀啓介なんですよ。彼はね、 87年の土地の強制使用問題の時に、われわれと渡り合った人物ですね。収用委員会の会長です。
――なるほど、因縁ですね。
上原 向う側の主張はですね、「原告らの主張は、その判断による“名護市民の良心”“名護市民の意志”というフィクションを前提にしたもので」、「そこで主張されている事実は全くの政治的意見の表明以外の何物でもない。速やかに訴えを却下されるよう上申する」というものでした。
次回あたりで、裁判所は決審してしまうのではないかという不安もあり、こちらの弁護側もいろいろ対応しているわけです。次回は3月16日です。
――市民投票の内実がかかった、かなり大切な裁判なんですね。
上原 そうです。だから、こちら側は、そういう方向で追求しているわけです。キチンとその意味を受けとめろと。
これから、認否を向こう側に具体的に問い続けるわけですよ。裁判官の態度だと、私はまあ、まだ続けられるだろうなあと思いますが。
●大田知事選の敗因
――沖縄で、いろいろな人たちと会ってきたと思うんですが、大田県知事選挙の敗北のショックという点では、どうでしたか。
上原 あまり落ちこんでいなかったね。さばさばしたという感じを受けました。
――上原さん自身は。
上原 私は、選挙前から大田知事のフラフラした態度に不信を持っていた。しかし、それでも応援するしかないか、という感じでしたから、まあ、しかたないという感じですかね。
――敗因などについては、どのように。
上原 まあ人それぞれの判断があるでしょうが、私なりの結論としてはですね、今回の選挙でも大田票というのは減っていないんですね。3回目ですけど、当選した1回、2回より多いでしょう。だから、基本的に基地反対という沖縄の人々のこれまでの姿勢が崩れたわけではないんですね。
政府側が企業と一体になって不在投票が58000人もあった。会社の中で買収行為もずいぶんあったようです。あちら側は、今まで選挙に行かなかった人々の票をかりだした。負けは負けですけど。政府は、沖縄の人々は金に目がくらんで基地を容認したという論法ですけど、反対派は、まだちゃんとしているわけですよ。
――電通の「県政・大田不況」のイメージ操作もすごかったようですね。それと、新崎盛暉さんが、上原さんたち「一坪」の主催、まあ新崎さんのいう「身内」の集まりで、大田さんの「求心力」がなくなっていた、いっしょに働いていた人たちの信頼がなくなっていたという話をしていましたが……
上原 ちょっと、新聞用語、「求心力」というのは、わかりづらかったけど、人の気持を魅きつける力、それがなくなったということでしょうね。それは、そうでしょうね。県民投票の90%の勝利の直後に、政府の方針に屈したでしょう。ああいう姿勢がねえ。一坪・関東ブロックのメンバーの一人が、沖縄の友人たちに向けて、いろいろ働きかけた。その時に、「大田さんはグラグラしすぎていて信頼できない」という批判の声は多かったようですね。まあ、見かぎった票もあったんでしょうね。
――振興予算と基地の取り引き、というスタイルに日本政府は、この間なってきた。本来別々のものを「金」で基地を容認しろというスタイル。このこと自体が問題なんでしょうが、それはともかく、大田知事の未来「国際都市構想」も、「振興予算」あてこみのおかしなものでしょう。そこにつけこまれたということはありませんか。保守側とその点のベースが違わないのなら、日本政府から金をとるなら保守県政の方がいいというリアリズム。
上原 あのアクション・プログラムね、県のつくったやつ、ヤマトのシンクタンクにつくらせたようです。県の基地担当の職員でもよくわからない点があったりしたと言う人もいます。
――基地問題を中心に押し出せなかった、という問題と、この経済プランが、保革にあまり対立が見えなかったという点も問題かなあと思ったものですから。
上原 まあ、私自身、経済問題をこまかく分析できないですから、いろいろ批判を見聞きして、そうなんだろうという感じですよ(笑)。
――この間、社会大衆党の委員長の島袋議員の話をうかがう機会があった。この島袋選挙で勝った時の、中央選対事務所を使うことを決めていたのに、大田さんは、わざわざ金も時間も使って、別のところに選対事務所をつくった。選挙対策が遅れるのになにも気にしていなかったのか、というお話でしたが……。
上原 私も聞いた。やっぱり大田知事の方に“おごり”があったんでしょうね。2度の選挙は楽だったでしょう。
組合は、「連合」になってから、本気で基地と闘う気は後退しているわけでしょう。タテマエとしては大田知事支持なんですけど、力が入っていなかったようです。ビラなんかも事務所に山積みで、まかれない所も少なくなかったようですよ。
選挙後も「赤字」は残っているようですよ。「県民の会」の選挙での集金力が落ちた。企業はみんなあちら側にいったわけだから。
●次は何か
――なるほどね。まあ反戦地主や一坪反戦の上原さんたちは、今まで通り闘い続けるだけというのが基本線でしょうが、現状での新しい動きについては、どうですか。県政が日本政府と対決するというスタイルがとれなくなって、運動のまとまりをどう表現するか、ずいぶん難かしくなっていくと思うのですが。
上原 まあ、土地の「強制使用」をめぐる「公開審理」が、日本政府によって無力にされてしまっていますからね、強制使用の公開審理は今後も、開かれるわけでしょうが、あれを中心に置くというふうには、やはりならないでしょうね。
沖縄の中では、大田元知事をもりたてる動きというのもあるようですね。一市民として反基地をガンバルと彼は言っている。ぜひしっかり頑張って欲しいのですが。
まあ、私としては、そちらの方よりですね、元読谷村長の山内徳信の時代だと思うんですね。
私が懇意にしている活動家の話ですが、野に下った山内出納長を中心にして、2、3人のリーダーを来年の早い時期にヤマトで新ガイドライン反対運動とからめた基地闘争を訴えてみたいというのがありました。
いま沖縄の組織はほとんどがヤマトに系列化されていて、政党やその系列団体、労働組合などはヤマトの承認がなければ活動がむつかしい。特にヤマトに人を送って大衆的な集会をやるとき、きつくしばられます。そういうヤマトの顔色を見ながらの運動では沖縄の主体性は発揮できません。私は沖縄の主体性を生かせる運動の場を東京に作り出したいと思っています。
それと、また陸上基地案もでている名護で、ヘリポート基地反対で土建屋やめた人なんかが集まって、少数ですけどね、「エコネット美(ちゅら)」がつくられているでしょう。なんとか人を集めて食べなければいけない。初日の出ツアーなんかの計画もあるようですが、そうした動きにも協力していきたいと思う。今回も、名護の方に先に行ってきたんですよ。
彼らは名護市の基地政策に反対し、市を訴えている原告でしょう。だから市から許可を取るのに、いやがらせもあり、たいへんなようなんですよ。
それと、一人1万円を取って、「土地連」の事務局長なども呼んだりの連続講座が、沖縄の「一坪」の運動でもある。
――ヘエー、1万円ですか。すごいですね(笑)。公開の講座なんですか。
上原 そうですよ。とにかく、いろいろな動きがある。−−ぜひ、新ガイドライン安保と沖縄の基地闘争をからめて、沖縄の人々が反基地を訴える集まりを実現させてください。どうもいそがしいところ、ありがとうございました。
(1998年12月11日)
普天間基地返還問題で、政府は海上ヘリ基地に代わる代替基地の建設候補地として東村と名護市のキャンプシュワーブ陸上案の2カ所に絞り、当地選定の検討に入ったとの報道がなされた。そして、野中広務官房長官は17目、県との合意にもとづき軍民共用空港案をアメリカ政府に提示すると言明した。また小渕首相は沖縄県知事に当選した稲嶺氏と来週にも会談し「軍民共用空港」建設について本格的に検討する方針を表明すると言われている。さらに、時を同じくしてアメリカ国防総省が、稲嶺氏の15年の使用期限付きは「絶対に認められない」とした上で「海上ヘリ基地」建設を条件に、日米特別行動委員会(SACO)で返還合意された普天間基地と那覇軍港に、牧港補給基地を加えた一括返還を検討していることも報道されている。
いずれにしても、日米両政府は沖縄県民の平和への願いを踏みにじり、あくまでも新たな軍事基地建設の押しつけを強行しようとしているのであり断じて容認することはできない。
国防総省の「海上ヘリ基地」建設案は名護市民投票で示した市民意志を一切無視するものであり怒りをもって抗議するものである。また陸上案なるものは広大な自然破壊と事故や騒音などとてつもない被害をもたらすのは火を見るよりもあきらかなことでありいかなることがあっても認められるものではない。
建設予定の一つの候補地とされた東村高江区は16日に緊急代議員会を開催し、「基地建設反対」を確認し区民あげての反対運動を展開することを決定した。同区は以前にハリアー基地建設を阻止し、昨年は海上基地建設反対決議を行なったいきさつがあり政府の無神経な基地建設案に怒りの声が上がっている。更にキャンプシュワーブ陸上案に至っては辺野古住民や名護市民を愚弄する暴挙であり許されることではない。我々は、県民をはじめ県内外の環境団体、人権擁護団体、平和団体などあらゆる運動体と連携し、断固これを阻止する。「軍民共用空港案」が県民を分断し軍事基地を何がなんでも建設しようとする日米両政府の意に沿った策略であり我々県民は決してだまされない。
我々「ヘリ基地建設反対協議会」は、海上案であろうが陸上案であろうが、または埋め立て案であろうが、更には「軍民共用空港案」であろうが「ヘリ基地建設」には断固として反対であることを改めて表明し、北部地域への基地移設案を打ち出した日本政府に強く抗議すると共に、北部地域へのヘリ基地建設案をただちに撤回し、基地の県内移設を断念するよう強く求める。
また、クリントンアメリカ大統領が来日するにあたり、我々はアメリカ政府に対し、沖縄県民が求めた基地の整理縮小に逆行し沖縄県民に新たな基地の重圧を押しつける海上ヘリ基地や陸上案等基地の県内移設を中止し普天間基地を無条件全面返還するよう求める。
宛先 内閣総理大臣 小淵 恵三殿
クリントン アメリカ大統領
1998年11月18日 ヘリ基地建設反対協議会
(『派兵チェック 』No.75 、1998.12.15号)
沖縄県知事選をめぐって 革新大田の敗北と私たち
天野恵一●反天皇制運動連絡会
沖縄知事選(11月15日)の大田昌秀革新知事の大差(3万7000票)の敗北。この残念な結果について、様々なレポートが書かれている。
私が一番最初に読んだのは筑紫哲也の「沖縄知事選−−広告宣伝技術の勝利」(「自我作古」第170回、『週刊金曜日』11月20日号)である。
「告示少し前、県内のいたる所で、電柱に黒地のポスターが貼られた。『9.2%』県内失業率を示す数字だ。だれが貼ったかは今もって不明。/告示後。選挙戦の基調を創り出していったのも、三選を目指す現職、大田昌秀知事側ではなく、挑戦者の稲嶺恵一氏側だった。『9.2%』に加えて、キーワードは『県政不況』。“当初案”は『大田不況』だったらしいが、どぎつすぎて逆効果のおそれありと改訂されたという」。
『流れを変えよう』『ピッチャー交替』『理想より現実』『解釈より解決』。/次々と繰り出されるキャッチフレーズは、米軍基地の撤去を求めるどころか基地について語ることすら、時代遅れであるかのような錯覚を与え『まるでマインドコントロールにかねられているかのようだ』と語る人もいた」。
本土政府・自民党カラーを隠し(閣僚・要人の来援は一切なしのスタイル)、シンボルカラーは革新のグリーンと「県民党」を自称の、金にまかせた「電通選挙」の勝利というわけである。
企業による不在者投票への狩り出しも、名護市民投票の時同様に、たいへんなものだったらしい。
浦島悦子は、こういう声があったことを紹介している。
「大田さんのやり方にもまずいところがあった。政府と対決したり、スリ寄ってみたり、態度が一貫しなかった。県民投票の時、選挙権はないけど一生懸命に考えて模擬投票をやった高校生たちが、県民投票の直後に知事が(軍用地強制使用の)代行応諾してしまったので不信感を持った。彼らが今回、選挙権を得て、稲嶺さんに入れた人も多かったと聞いた。大田さんが一貫して毅然とした態度をとっていたら、彼らはむこうに行かなかったと思う」(「沖縄便り」「女たちは語る−−沖縄県知事選から未来へ」『インパクション』111〈12月20日〉号)。
大田サイドの問題という点については、新崎盛暉が「人事政策の偏り」「審議会の人選の偏り」などで人物としての「求心力」がなくなっていたという点の大きさについて語っていた(12月1日の一坪反戦地主会・関東ブロック主催の集会での発言)。
私はこの話を聞きながらかなり前に沖縄県庁づとめの大学時代の友人二人がこぞって、とにかくワンマン知事で、実はすさまじく身のまわりで評判の悪い人物であると話していたことを思いだした。
由井晶子は、こう語っている。
「敗れはしたが、大田知事の得票は33万7000余(47.2%)、前回を7000票上回った。稲嶺氏は前回の自民候補得票に15万7000票上乗せした(得票率52.4%)。得票率が14%上がった分稲嶺氏へ行ってしまったかと思わせるが、大田知事の支持票は重い。投票日1週間前の沖縄タイムス、琉球新報、共同通信などの世論調査で有権者の61〜65%が県内移設に反対を表明している。先に候補地として上がった北部市町村では、直ちに反対の声が上がっている」(「火種はいたるところにある 衰えずに続く沖縄からの発信」『労働情報』517〈12月15日〉号)。
沖縄県政対日本政府という運動の構図が崩壊してしまったことのマイナスは明らかであるが、沖縄の反基地の声やエネルギーそれ自体が大きく後退したわけではまったくない。この点は、浦島・新崎・由井の沖縄報告が共通して強調している点である。
これは、決してカラ元気というようなものではないことは、私(たち)にも実感できることである。
ただ、一点、この県知事選挙をめぐってあまり語られていないことで気になっている問題がある。
11月20日の'98反戦反核東京集会で、ディスカッションの司会をしていた私は、その日のメイン・スピーカーであった、沖縄から来ていただいた「基地・軍隊を許さない行動する女たちの会」の源啓美に、大田県政の「国際都市」構想などの、リゾート開発主義(ヤマトの振興予算あてこみ)の姿勢が、保守の政策と基本線で対立していない、ヤマト政府から金を引き出すのなら保守県政の方がという人々の気分がうまれる、そこをつけこまれたのではないか、と質問した。
その点にからんで源は、あるエピソードを紹介してくれた。選挙活動で電話かけをしていた時、こういうやりとりがあったというのだ。「振興予算で不況を解決するには、稲嶺さんの方がいいのではないか」、「基地問題はどうするのか、基地をなくすことこそ大切ではないか」、「それは、あなた達がガンバッテいてくれるからだいじょうぶ、両方うまくいくのではないか」。
したたかな主張のようにも思えるが、それは基地を押しつけ続けている日本政府の狡猾なしたたかさに飲み込まれてしまっていることは明らかである。
基地と振興予算。もともと別の問題であったものを、セットにして脅迫しだしたのは日本政府である。ただ、この論理は、今度の選挙でも、沖縄の人々に大いに力をふるったという点は、忘れるべきではあるまい。
沖縄に基地・軍隊を押しつけ続ける日本政府の姿勢を変えさせることができずにいるヤマト反安保運動の力のなさ。こうした私たちの現状を直視しつつ、新たな局面をむかえる沖縄闘争と私たちはどう連帯するのか。PKO法案のPKF凍結解除への動きも始まり、いよいよガイドライン安保関連法案の審議も開始されようとする動き。とにかく、こういうアメリカ政府と日本政府の動きをストップさせる運動の大衆化を、さらに追求し続けるしかあるまい。連帯の通路は、あいかわらず、そこにしかないのだから。 (『派兵チェック
』No.75 、1998.12.15号)
《チョー右派言論を読む》
天皇制なきナショナリズム?
伊藤公雄●男性学
たぶん保守論壇好きの人たちの間では、もうすっかり話題になっていることだろう。『諸君!』1月号の福田和也氏と大塚英志氏の対談「『天皇抜き』のナショナリズムを論ず」のことだ。
ぼくもすごく面白く読んだ(ちなみに『世界』12月号の小熊論文、『諸君!』 12月号の大塚論文にも同じような観点がみられる)。というのも、10年くらい前に、ちょうど同じような視点(もちろん結論は違うのだが、天皇制とナショナリズムを考える視点が似ていると思う)からいくつか文章を書いたことがあるからだ。簡単に、当時のぼくの主張をまとめると次のようなことだ。
「日本は近代国民国家形成の段階を十分に経過しないまま、帝国主義段階に突入した。だから、日本人はある意味で、『国民』としての主体形成(もちろん、近代市民社会における主体ということだが)なきままに、現在に至っているのではないか。いってみれば、日本のナショナリズムは、(下からの国民主体形成という)ナショナリティの基盤なき排外主義と多民族抑圧構造を生み出したのだ。そして、基盤としてナショナリティを代行したものこそ、近代天皇制だった。いわば天皇制にナショナリティを仮託した擬似ナショナリズムが日本の帝国主義を支えていたのではないか。自らのナショナリティときちんと向き合うことなく空虚な(「国民」としての)主体性しかもちあわせていないので、外に出ると急激にナショナリスティックになる。欠落していたナショナリティを過剰に背負いこんでしまうのだ。それは戦後においても、同様だった。だからこそ、国内では左翼・進歩派を自称していた人物(つけ加えれば、特に根拠のないまま妙なプライドだけ強く、外面的な鎧で自己武装しないと自己が支えられない傾向が強い人、つまり男性が多い)でも、長期間海外に出ると突然ナショナリズムになって帰ってくる(江藤淳氏を見よ)。その背景には、ナショナリティというものときちんと向き合うことなくこの100年を過ごしてきた日本人の国民意識の問題が控えているのではないか。ところが、1980年代以後の国際化の進行のなかで、海外体験者が急増しつつある。この動きは、これまでとは異なる新たなナショナリズムの浮上につながるのではないか」といったものだった。
こんなことを考えたのも、当時、ぼくがイタリアのファシズム研究をしていたからだ。誰でもすぐにわかるように、日独伊の三国は、近代国民国家形成という点で、第二派のグループであった。先発組に遅れまいと急激に国民統合を進めざるをえないこれらの国々は、米英仏のような下からの持続的な国民国家形成とは異なる急激な「国民化」のプロセス(それは独伊のような反体制派による下からの運動を出発点とするものと、日本のように主に上からの統合によって進行したものといの違いはあっても)をたどることになった。結果的に、これらの国々が(ロシアを含んでもいいが)、20世紀前半、全体主義という「過剰な国民化」に向かったことの背景には、こうした近代国民国家形成におけるタイムラグが控えているのではないか、とぼくは考えていたのである。なかでも、日本のケースは、もっとも成功した「過剰な国民性」(実際は、国民的主体形成の基盤なき国民化)といえるだろう。というのも、天皇という近代における「発明された伝統」(ボブズボームのいう)が、きわめてうまく作動したからだと考えたわけだ。
そして今、今回の二人の議論に現れたように、「天皇制抜き」のナショナリズム論が、保守派の側から登場しているというわけだ。天皇制に担保された擬似ナショナリズムから「(本来の)健全なナショナリズム」へ、ということだろう。実は、この構図は、前回論じた加藤典洋氏の議論(負の遺産を背負ったナショナリティの構築を通じたナショナリズムの克服とでもいうか)とも、別の文脈ではあるが、一脈通じていると思う(ちなみに加藤氏の議論の背景にも、彼の海外滞在体験が大きく影響していると思う)。
もちろん、こうした傾向(天皇抜きのナショナリズムの強調)は、今回の対談以前にすでに見え始めていた。自由主義史観のグループや「新しい教科書をつくる会」の運動においても、天皇問題は、「意識的」といっていいほどに避けられたテーマになっている。少なくとも、ファナティックな愛着の対象としての天皇という図式は後退し始めている(そう考えて、この春の『インパクション』誌10
6号の編集をする際に、天野恵一さんに「自由主義史観はなぜ天皇を語らないか」を議論してもらおうと原稿依頼したのだが、書いてもらえなかった。といってもこのとき書いてもらった坂本多加雄論はすごく面白かった。天野さんには、この自由主義史観と天皇の問題について、ぜひ稿をあらためて論じてほしい)。
背景には、天皇というカード(もちろん、このカードは、今なお保守の「最終兵器」であり続けているのだが)が、特に昭和天皇死去後、ナショナリズム(特に若い世代のぼんやりした国民主義的雰囲気)と結びつきにくくなったという判断もあるのだろうが、他方で、本来の「民族派(日本には、天皇主義右翼はあってもこの潮流は少なかった。というのも、欧米の民族派はしばしば反君主性=共和制と結びつく傾向をもっていたからだ)」の議論として、「天皇抜き」もありうる状況が生まれているのかもしれない(欧米の滞在経験が長い福田和也氏には、そんな傾向が少しうかがえる)。
とはいっても、歴史は絵に描いたようには進まない。おそらく、日本の場合は、まだまだ主流派である天皇主義右派と天皇抜きの民族派が、さまざまな調整のなかで保守としてまとまる可能性が高いだろう。しかし、その一方で、保守勢力がまとまるためのアキレス腱として天皇が浮上する可能性があるということも、保守の動きを批判しようとするなら、ちょっと注目しておいてもいいのではないか。(『派兵チェック
』No.75 1998.12.15)
北朝鮮「核疑惑騒動」の陰でうごめく者たち
太田昌国●ラテンアメリカ研究
かつてマスコミの世界で仕事をしていた作家の辺見庸は最近メディア論にあらためて関心を持っていると言い、大要次のように語っている。現在と比べると、任意の過去のどの時期をとってみても、メディアの規模は大したことはない。だが本質的には、人間の身体はいつの時代も情報化されざるを得ない。ゲーテが『若きウェルテルの悩み』を書いたのは1774年だが、想像上の人物であるウェルテルの服装を着るどころか、恋の果てに自殺することまで真似する若者が輩出した。ウェルテル症候群と言われた。江戸中期に近松ものが流行ったときにも、現実社会でも心中が流行った。ことほど左様に人間身体は情報化されやすい。だが現代日本社会は、極度に情報化された身体の集合体だ。ゲーテや近松の時代と異なり、情報の売り手に顔はなく、つまり主体がない。没主体の時代にはいかなる言説も有効性を失い、主張を無力なものにする。真っ当な議論を皆で嘲ら笑い、冷笑する風潮がここまで一般化した。自分の中にも自己を冷笑する何かがある。何がこういうことをもたらしているのか、自分にも言えないが、この国に特殊なあり方だと思う、と。[『神奈川大学評論』31号(1998年11月)掲載の「深くて暗い伏流のなかで:不自由な時代を生きる」より。西澤晃彦によるインタビュー]
話し言葉なのだが、それだけに現状に苛立つ辺見の心情が窺われ、それは基本的に私の共感を誘う。「想像力の墓場」にいる私たちの社会にあっては、「北朝鮮のミサイルだか人工衛星だかの騒ぎが、新ガイドラインより何十倍も重要な情報であるかのように語られ、政府の思惑通りの情報商品が大量に作られて、売れに売れる。新ガイドラインや周辺事態法案に反対する論理など、テポドン一発で駆逐される」とも辺見は言う。右派メディアの北朝鮮報道を見聞し続けていると、この思いもよく分かる。北朝鮮に関して、日本は確かに「極度に情報化された身体の集合体」となっている。それは、まさにメディア・ファシズムと呼ぶにふさわしい。
私は一時期までは、北朝鮮の実態暴露本に付き合い目を通してきたが、書店に次から次へと同工異曲の本が並ぶのを見て、さすが疲れ果て、一年以上前からこれはやめた。だが右派メディアの雑誌・新聞に載る北朝鮮情報は、もはや日常の癖として大急ぎで目を通している。有事危機煽りにいちばん熱心な「サピオ」は最新号(12月9日号)でも「北朝鮮『地獄の極寒』」と題するセンセーショナルな記事を何本も載せている。テーマはつねに、飢餓と軍事である。子どもたちをこれほどの飢餓状態に追い込んでおいてテポドンを開発し、広島型原爆の三倍の威力を持つ核弾頭の製造技術を持つとは何事かという、心情レベルでは容易に人びとの心を捉える論法である。彼らが合いまみえるのは、これ以上は望むべくもない「好敵手」であり、次のように無意味な大言壮語で北朝鮮脅威論の「正しさ」を補完してくれる。12月3日付けの産経新聞によると、核開発疑惑問題に関して、北朝鮮ラジオ放送が次のように述べたと言う。北朝鮮の人民軍総参謀部スポークスマンは、「米国が『第二の朝鮮侵略戦争計画』を完成させようとしているが、わが革命武力は米帝侵略軍の挑戦をわずかでも容赦しない。米帝侵略軍だけでなく、弾除けとして前に出ようとする南朝鮮傀儡と、後方基地を提供したり召使役をする日本を始めとするすべての有象無象がわが方の攻撃対象になるということを肝に銘じるべきだ」。こう述べた北朝鮮は6日の対米交渉において、核開発施設査察の代償として3億ドルを要求したと報道されている。
ここに見えるのは、いわゆる「テポドン発射」騒動を、相互依存関係のために利用し合う日米「保保」派と北朝鮮の政府・党・軍官僚の癒着ともたれ合いの構造である。そのことを、意外な率直さで明らかにしているのが、元陸上自衛隊人事部長で、軍事アナリストを名乗る志方俊之である。志方は、佐々淳行や岡本行夫との座談会「もう『番犬』では国を守れない」(『諸君!』98年12月号)[なお、「番犬」の脇には、畏れ多くも(!)「在日米軍」とルビがふってある]で、米国は北朝鮮の「テポドン発射」計画を事前に知っていたが彼らからすれば実害はなく、北朝鮮の能力を知るために放置したのだろうと語っている。北朝鮮からすれば、撃たないで「持ってるぞ」と威嚇するのが一番効果的な使い方で、中東やパキスタンへの輸出をちらつかせて取引して、援助を引き出す経済効果もある。
真相に近い形で(と私は考えるが)そう解釈した志方は結論する。太平洋戦争の時のシーレーン喪失と空襲(B29および広島、長崎)の経験に由来して、日本人には本能的な恐怖がふたつある。台湾海峡問題への敏感さはシーレーン問題に関わる。ノドンは空からの脅威だ。そこへテポドン発射で引き金を引かれ、一気に偵察衛星やTMD(戦域ミサイル防衛)構想までの議論が沸き起こった。自民党政権で何十年かかってもできなかったことが進みだしたのだから、大きな前進で好ましいことだ、と。
なんのことはない、きわめて抑圧的な民衆支配を行なっている北朝鮮の特権的官僚と、(政治的駆け引きを伴いながら、主として共和党支持勢力によって支えられる)米国の軍産複合体との間で、一見激烈な言葉による応酬が繰り返されるたびに、志方が手放しで喜ぶような日本社会の軍事化が深く進行していたこと、それを推進するうえで、北朝鮮の脅威をいたずらに煽る右派メディアとマスコミが大きな役割を果たしたことを、上の分析は示している。
軍事アナリスト・志方の、このような立場の政治的表現が、「保保連立」へ向けた一連の動きであることを、私たちは忘れるわけにはいかない。
(『派兵チェック 』No.75 1998.12.15)
《議論と論考》
ニュー・メディア天皇制の先駆け?
浅見克彦●北海道大学教員
皇后ミチコがインドで開かれた国際児童図書評議会の大会で、ビデオを通じて講演し、メディアが大々的に取り上げているから、それなりの切り口で何か書いてくれ、というのが編集部の依頼である。
かつてはマニアックにメディア・ウォッチングをしていた筆者ではあるが、最近は私事と公務にかまけてさっぱりご無沙汰しているので、「へーっ、そうですか」というのが、その時の情けない反応だった。しかし、メディアにあたってみると、 「なるほどこれはすごい」といわざるをえない大変な状況がそこにはあった。
『文藝春秋』が十一月号で十二ページ使って講演の全文を掲載したのにはそれほど驚かない(もちろん「だからどうだってーの」という素朴な違和感はありますが、この月刊誌ではこういう「異常」が「通常」ですから)。驚いたのは、夕刊とはいえ、二十二日付で全面六段(つまり半ページ)丸々投げ捨てて、その要旨を掲載した『朝日新聞』の「すごさ」である(もちろんこれでまた『朝日』は皇室御用達の冠を磨くことができたわけです)。ちょうどその裏に、上野千鶴子さんの大学院重点化を進める大学の現状に疑義を呈する一文が寄稿されているが、これは同じく六段抜きとはいえ、半面しか使っていないことと比較すると、その「乱心ぶり」がはかりやすい。ミチコの私的な幼児体験が、莫大な税金が投入され、この社会のある意味の文化状況にとって重大な大学政策の問題よりも、「数段」重要だという構図がそこにはあからさまに表れている。
しかし、この「ものすごい」記事は、ただの滅茶苦茶ではなく、ある意味の重要性をもっている。つまり、なんらかの機能と意義をもっているからこそ、この社会でこうした記事が通用するのである。もちろん、メディアを通じて皇族に関心を集めさせる「大衆天皇制」が機能しているこの社会においては、天皇ネタは、いわばウケのいい花形記事である。だから、編集者がなんらかの政治的意図なしに、大衆ウケだけをねらって打ち出したという側面も否定できない。しかし、まさにその大衆ウケをねらう構図と背中合わせに、当事者の意図を超えた客観的な政治的機能が働いているのである。
天野恵一さんが前号で分析しているように、その政治機能とは、皇族の人間味を全面に出して「国民」の関心を引きつけ、共感をもたせることを通じて、控え目に織り込まれた国家の支配的イデオロギーを受容させるということにある。それは、神話をめぐるミチコのある種の感動話に限られたことではない。彼女が子どもの本にまつわる「国際化」を、安易にも(つまりその内容的な意味を特定せずに)語り、「国際化」といえばポジティヴ、時代の流れという、流布された意識構図を上塗りしていることも、ここでいう政治的機能の発揮だといわねばならない。しかし彼女(と宮内庁)は、その「国際化」が百年以上も前から始まっていたかもしれない、といっているのである。そこに文化帝国主義の要素はなかったのか、輸出された子ども文化に西欧中心的な偏りはなかったのか、そしてまた、文字をもたない世界の文化は「国際化」に関われたのか、といった問題は存在しないのかように。
だが、気になることはこうした点だけではない。一つには、『文藝春秋』も『朝日』も共同の配信記事も、ミチコの翻訳活動が、ある作家のアンデルセン賞の受賞にあたって少なくない貢献をしたとか、児童向けの本作りに携わっているとかの注釈をつけていることがある。これは、講演依頼の経緯をさりげなく説明したものかもしれないが、少なくとも結果的には、皇族ミチコの権威を文化的な回路で高める効果をはたしている。「国民」の敬意と肯定的な関心を皇族に向けさせる際に、なんらかの権威と信望が与えられていることは、願ってもないことなのである。それはまた同時に、文学・出版という領域に対する文化的な支配が、ミチコという素材を使って狙われかねないということも意味するだろう。招かれて英語で児童文学について講演し、戦時中の英文学の流通を評価するミチコに、決して、単純に感心していてはならないのである。
しかし,今回の件で何より注目しなければならないのは、ミチコがビデオ媒体を通じてパフォーマンスをやっているということだろう。もちろん、皇室イベントがマスコミによって録画され、繰り返し報道されたり、さまざまな編集にかけられて利用されるということは何も新しいことではない。そうではなく、「足を運べないときにはメディアがあるさ」、という皇族の利用の仕方に天皇制の新しい利用形態が写し出されているのである。
今回はインドの核実験という事態への対応として、訪問が中止され(これ自体、皇族の政治利用とそのイメージへの配慮を思わせるうさん臭い対応だが)、次善の策としてビデオ収録が敢行されたわけだが、それは、考えようによっては、天皇制が、メディアを使って世界のどこへでも進出し、警備や日程の条件を取り払った旋回舞踏を繰り広げることができるということを意味するのではないだろうか。『朝日』が解説していうように、ビデオ収録が始めての体験というミチコに、メディア・パフォーマーの役割を担わせた今回の事態は、メディア天皇制の新展開の可能性を秘めているわけである。ましてや、ニューメディアで皇族がパフォーマンスを繰り広げることになどなれば、もはやそれはニューメディア天皇制とでもいうべき新しい事態の到来を告げることになるのかもしれない。
今回の件は、もちろん文化天皇制の海外進出だということができる。しかし、メディアは、そのテクノロジーによって、皇族の海外進出を容易かつ高度化するだけでなく、海外進出する皇族にある種の国際的価値付けをし、世界の舞台での「箔」をつけさせもするのである。その意味では、ニューメディアの利用による多角的な天皇パフォーマンスの展開があるとすれば、それは、国内的な統合機能の深化と拡大となるだろう。マス・メディアのように、ニューメディアの世界にも天皇パフォーマンスと皇族イメージの乱舞が通用してしまうような日が来ないようするために、われわれにできることは何なのだろうか。(『反天皇制運動じゃ〜なる』No.17,
1998.12.8号)
皇后美智子が一時間も「肉声で」講演し、オンエアーされると言う。揺すってもさすってもビクとも動かぬ家のビデオを見捨て、慌ててデッキを買いに走った。どのようなヴィジュアルで皇后を演出するのか、とにかく見たかった。
画面は、五三分の講演のあいだ、ほとんど正面向きか、向かって左前方から撮られたアングルのみで凝った映像処理もなされなかったので、ヴィジュアル的には退屈だった。しかし、この退屈さ、構図とアングルの安定した不変性こそ、五三分のビデオが流す最大のメッセージだったのではないか。
少しアオリ(注1)に撮られた皇后は、うつむきかげんに原稿を読み、ときおり顔を上げる程度なので、威圧的には見えない。しかし、彼女がカメラと視聴者を見つめる視線は、あくまで上方から下方に方向づけられている。この原稿を読むためにうつむく姿も、アオリに撮られたカメラの視線も、ともに計算され計画されたものであることにはまちがいない。
次に画面構成についてだが、まず一番手前に原稿を載せた重厚な机が水平に画面を横断し、皇后とカメラのこちら側を明確に隔てる。カメラに向かった机は、手前に広大な広がりを予測させる。民間と皇室の境界線である。そして、出窓と机のあいだの広くはない空間に皇后は座り、背後には、丸い置物と障子、窓、緑の木々が見える。出窓も障子の桟も全て水平・垂直軸を基本に配置され、安定した構図は揺るぎなく映る。タテ・ヨコにガチガチに構成された画面は、一部のすきもなく、微動だにしない。
純白の障子はモダンにアレンジされた日本文化の象徴であり、ガラスを隔てて見える屋外の木立は、平和の象徴としての天皇制、子供の世界へと繋がる理想郷である。窓は象徴界としての天皇制と、生身の肉体を持った皇族美智子を隔てる境界である。そして、ほとんど動きのない単調な画面のなかで、唯一風に吹かれる梢の揺れが、視覚的快感をもたらしている。左右に押し広げられた障子からガラス越しに見える緑の天皇制は、自然かつクリーンで心地良さそうに見え、カメラが寄ってバストショットになると、緑の窓枠に皇后の上半身はちょうどすっぽりと収まるように配置されている。手前の皇后を通して視聴者は、背後の緑へと誘なわれるように画面は作られているのである。
こういう読解を、深読みだと思われるかもしれない。だが、いかなる場面設定も背景も人為的に創られたものだということを忘れてはいけない。たとえば、皇后の背景が、招待された大会のテーマに合せるかのように児童書の並ぶ本棚だったら?
あるいは夜のニュース番組のように情報化社会の都市を象徴する高層ビルの夜景だったら? あるいは、同じ自然であっても切り花に囲まれていたとしたら?
――そのメッセージはずいぶん異なっていたにちがいない。
皇后は淡いグレイの洋服に、真珠のネックレスとイヤリングをつけ、原稿を読み終ると眼鏡を置き(「素顔」に戻って)、黙ってカメラを見つめた。英語・日本語によってバイリンガルの演説を行なった彼女は、みごとに国際的かつ知的な愛情溢れる慈母のイメージを演じたと言えよう。しかし、そこで述べられた内容は、スーパー越境者たる美智子が、公/私、大人/子供の顔を使い分け、日本人としての単一のアイデンティティの拠り所としての、神話の再評価をうながすものであったことは、すでに指摘されているとおりである。
(2)
画面上のタテ・ヨコの構成や境界領域の作り方もさることながら、講演は、縦横無尽に「境界を越える」美智子の世界像の提示に終始した。ごく「私的なこと」を私的な民間機関で公的に語る公的存在としての皇后。彼女は自らの「越境性」を武器として、今日の日本が抱えるキーワードに大胆に切り込んできた感がある。「民間」から「皇室」への越境を筆頭に、彼女によって二元化され侵犯される境界は、実に多岐にわたっている。――民間/皇室、少女/母・妻、地方/東京、戦争/平和、弟橘比売命/倭建、私/公、(個々の)家族/民族(の共通の祖先)、太古/現在、根っこ/翼、ノンフィクション/フィクション、歴史/神話、愛/犠牲、加害/被害、犠牲・痛み/愛
cc
皇后が疎開先での少女期の出来事を語るときは、民間人正田美智子に戻り、「私が小学校に入る頃に戦争が始まりました」と、義父天皇の名前によって始められた戦争責任を、回避する。少女時代を語るとき、「父」という言葉によって名指される者は東京から貴重な本を送ってくれる民間人の実父に限られ、現実の「天皇」については言及されない。父を通して知った「民族の子供時代のような」古事記と日本書紀の神話の世界が、民間人正田美智子にしっかりとしたアイデンティティを植え付けたというわけである。
皇后が語る「父がくれた神話伝説の本は、私に、個々の家族以外にも、民族の共通の祖先があることを教えたという意味で、私に一つの根っこのようなものを与えてくれました」という一文には、時間軸として「太古\第二次世界大戦\現在」、空間軸として「漠とした統一体としての日本列島\疎開先の地方・周縁\東京・中心」、身分軸として「共通の祖先たる記紀の登場者\民間人正田美智子\皇后美智子」のそれぞれ三種の要素を持つ三つの軸によって構成されていることがわかる。少しややこしいが、八個の立方体から成る三次元のルービック・キューブのような全体像を想像してほしい。そうすると、立方体の中心に据えられた、第二次世界大戦・疎開・民間人を特徴とする少女の「正田美智子」を通過地点として、彼女が縦横無尽に境界を越えていることが見て取れるだろう。
さらに昔の疎開の苦しみについても、殻一杯の悲しみを背負ったでんでん虫が他人の悲しみを知ることで乗り切ったように、構造的に解決するのではなく、個々に愛と犠牲の精神で耐えよ、というわけである。
もう一度単純化しよう。この少女時代と現在の使い分けは、ビデオ講演を書籍化した『橋をかける――子供時代の読書の思い出』(美智子著、すえもりブックス、一九九八年一一月二五日)を見ればさらに明確になる。縦書きの日本語版と横書きの英語版は、それぞれ右開き、左開きに始まるように作られている。日本語版を開ければ、まず最初にややセピアがかった黒白写真が目に入る。大きな帽子を被り前方を意志的に見つめる少女時代の正田美智子の横顔である。彼女の向こうには、同じような少女が見え、集団疎開か、学校での一コマを連想させる。キャプションは「少女時代」とだけある。
一方、英語版の最初のページは、一九九八年一〇月(講演のあと)に皇居の庭で写された着物姿の皇后である。こちらはカラーで、緑の木々を背景に紅葉模様の淡いピンクの着物が映え、少女時代の写真とは好対照だ。日本語を読むと想定される日本人読者には、少女時代の民間人として登場し、経済不況で苦しむ子供たる国民に戦争で苦労した当時の自分を重ね合わせる。そして、インドで開かれたIBBYの世界大会の参加者や英語の読者に対しては、日本という国の皇后として公の姿を見せるのである(注2)。
今後、新しい皇室のイメージを展開するにあたって、皇室は内容はジェンダー規範を説きつつも、さまざまな越境・侵犯を試みてくるものと思われる。その限りでは皇后の行動はジェンダーの境界を超えることも許容されるだろう。まさに「女帝」登場の素地作りである。いみじくも天皇制擁護の論客たちが「『皇位継承』への不安」(『諸君』98年12月号)で述べているように、「皇室の伝統、威厳、慈愛というものをいかに受け継いでいくのかを四六時中お考えになり、淡々と実行」するのが「皇室のお務め」であり、「いま皇后さまがそれを見事に体現されています」という状況が着々と進行しているのである。
今後、皇后の演説は常習化するだろう。内容は、平和・愛・自然を基本とし、伝統的なジェンダー規範を説きつつ、自らはスーパー的に様々な領域を越境しジェンダーレスに行動するだろう。今回彼女が自己を重ね合わせたのが、決して「三韓征伐」の指揮を執った神功皇后ではなく、夫への愛のために犠牲となる弟橘比売命であったように、子供、障害者、老人、病者、女は、皇后の語りのなかで最大限利用されるだろう。
何のために境界を越えるのか――、あるいは、それぞれの越境の歴史性を不問にしたまま境界侵犯を礼讃する論が、この数年多文化主義やクレオールをめぐる論議に多く見られるが、今、皇后は自らの越境性を最大の武器として、我々の前に姿を現わしつつある。今回のビデオ講演を見たとき、正直言って「ついにここまで来たか」という気持ちと「やっぱり」というのが感想だった。
だが、皇后美智子の「橋をかける」という行為に対して、我々はすでに明解な答を持っている。かつてフランツ・ファノンが語ったように。――「ひとつの橋の建設がもしそこに働く人びとの意識を豊かにしないならば、橋は建設されぬがよい。cc市民は橋をわがものにせねばならない。このときはじめて、いっさいが可能となるのである」、と。
(注1) アオリ:人物やモノを下方から上方に向かって撮ること。そのため、被写体はカメラ・視聴者を見下ろす形になる。中国の映画監督謝晋が、文革当時の政府の映像への検閲を振り返り、毛沢東はアオリで撮らなければならないと命令されていたと証言していたが、このことは、カメラアングルと権力者の肖像の関係を如実に物語っているだろう。
(注2) 英語版がかなり重視して作られたらしいことは、テレビでの放送が、英語版、日本語版とも二回ずつであったことからもうかがわれる。日本語版は、まずビデオ講演の翌日九月二一日にNHK「ETV特集」で放映、番組始まって以来の最高視聴率5.2\5.3%を記録し、「500万人が傾聴」したと報道された(『毎日新聞』一九九八年九月二三日)。その後、一〇月四日(日曜日)NHK総合TVで再放送された。また、英語版は、一〇月三日(土曜日)NHK衛星放送と教育TVで、二回流されている。(『反天皇制運動じゃ〜なる』No.17,
1998.12.8号)
「皇室外交」のスタイルの変化に注目しよう!――金大中・江沢民と天皇との会談
天野恵一●反天皇制運動連絡会
一一月二六日の、江沢民中国国家主席を迎えた宮中晩餐会での天皇アキヒトの「お言葉」は、日中国交正常化二〇周年の年の自分の訪中を「うれしく思」うという話から、相互理解を深め、「両国の友好関係の更なる発展」をといった、一般的な友好のアッピール以上のものではなかった。
「……不幸なことに、近代史上、日本軍国主義は対外侵略拡張の誤った道を進み、中国人民とアジアの他の国々の人民に大きな災難をもたらし、日本人民も深くその害を受けました。『前事を忘れず、後事の戒めとする』と言います。われわれはこの痛ましい歴史の教訓を永遠にくみ取らなければなりません。……」(『読売新聞』一一月二七日)。
こういう江沢民の「答辞」の言葉と比較して、政府が準備した天皇の言葉は、侵略戦争の加害国という歴史的現実に、まったくふれていない。
政府(首相)は村山首相談話にそって「改めて反省とおわびを表明する」と述べた。
一〇月七日に韓国大統領が来日した時の天皇の言葉も、謝罪、おわび、反省の内容はなく、韓国に対する「植民地支配により多大の損害と苦痛を与えたという歴史事実を謙虚に受けとめ、これに対し、痛切な反省と心からのおわび」という文章は日韓の「共同宣言」の中に入れられた。
マスコミの論調も、天皇の「お言葉」が、どれだけ踏み込んで謝罪する内容になるかという点を注目するものではなくなっている。「謝罪・反省・おわび」の内容の方は、もっぱら日本政府の姿勢がどうかであり、天皇の言葉は、それに正面からふれないのは当然というトーンだ。
マス・メディアは、まったく問題にしていないが、ここで政府の天皇の活用のしかたに、大きな転換がうまれているのだ。金大中(韓国)側も江沢民(中国)側も、天皇の謝罪・おわびの言葉を要求したが、日本政府がそれを拒否した、というようなことがあったのか否かも、まったく不明である。
天皇訪中時に、右派議員(自民党議員らの多数を軸とした)や民間右翼の「天皇の謝罪外交反対」という動きは、たいへん大きなものとなった。
こうしたプレッシャーもあって、政府は、天皇に何度も「おわび」の言葉を吐かせることをやめる方針に転じたのか。侵略・植民地支配の最高責任制度である天皇制。天皇がハッキリと「おわびと反省」するのは、天皇制には戦争責任はないというインチキな政府の姿勢からして整合的でないと判断してそうなったのであろうか。
私たちは、天皇の天皇としての「おわび」の言葉などは、まったく「おわび」にならない、政治的欺瞞であると考えざるをえないが、政府の姿勢の転換が、どういう政治意図からもたらされているのかという点にも、批判的なまなざしを持って注目し続けなければなるまい。
一一月二八日、韓国の金鐘泌首相は、二〇〇〇年に天皇の訪韓を、という具体的な時期を特定した招請をした。
いったい、日本政府は、どういう「皇室外交」を展開させるつもりなのか。
『週刊新潮』(一一月二二日号)は「金大中大統領来日で日韓の『歴史認識』はホントに一致するか」という記事で、以下のようなコリア・レポートの編集長の声を紹介している。
「金大中氏は天皇の訪韓を要請しましたが、訪韓が実現すれば、韓国国民は必ず謝罪を要求します。過去の歴史や謝罪問題は清算されたわけではなく、一時、棚上げになっただけの話です」。
『週刊新潮』の路線は、天皇・政府の「謝罪外交」反対という右派の主張の代弁というものであり続けているわけで、天皇訪韓で、あらためて天皇の「謝罪外交」が行われることに危惧をいだいている記事である。
私たちは、天皇の「外交」をのものに反対する運動を大きくつくりだしていかなければならないわけで、あるが、その運動の中で政府の「皇室外交」における、天皇の活用のしかたが、この間、大きく変化した事実と、その変化の理由、さらにそれが今後、何をもたらすのかに注目し続けなければなるまい。
(『反天皇制運動じゃ〜なる』No.17, 1998.12.8号)
《書評》
「〈知〉の植民地支配」――変貌する大学「
(巨大情報システムを考える会編 社会評論社 二〇〇〇円+税)
小山俊士●反天皇制運動連絡会・「
本書はシリーズの四冊目なのだけれど、このシリーズは一つのテーマによるまとまった本というよりは、雑誌のような構成で、大学の現状を伝える様々な論文や記事、コラムなどを集めて、ほぼ年に一冊ずつ発行されてきた。今回は「〈知〉の植民地支配」ということで、日本がかつて植民地で行った高等教育とその戦後とが特集されている。個々の論文を紹介する余裕はないので、大雑把にテーマを列挙していくと、朝鮮半島、台湾、「満州国」、沖縄において日本の行った教育の研究。北大に放置されていた頭骨の処理をめぐる報告。在日、韓国などの学生の現状の報告。大学で植民地と教育について行っている授業の内容の紹介。民間レベルでの日韓合同授業研究の試みの報告などである。植民地教育をめぐる論文は非常に専門性の高い研究でよみごたえのあるものだ。これを現在の大学のありようとどう繋げてとらえていくのか、それがおそらくこのシリーズの意図するところだろうし、北大の問題が示している大学における戦後責任の問題は、北大に限らず多くの大学において追求されねばならないことであろう。
また、金大中政権の発足を契機に急速に進みつつある「過去の清算」の中で、歴史認識の共有ということも掲げられている。歴史教育の共同研究のようなものも政府間で進んでいくだろう。それに対して、ここに紹介されているような民間の交流がどれだけのものを対置していけるのかはこれから重要な問題になっていくのではないか。
後半は今日の大学の状況の報告が集められている。その中で全体のまとめともいえる岡村達雄の論文「「大学審」設置以後」は、昨今の大学改革のありようをよく整理したものといえる。ここでは、八七年に設置された大学審を軸に、臨教審以後のほぼ十年間の上からの大学改革の流れを分析し、政府・財界の側が、大学審への諮問とそこからの答申を行い、それに基づき個別の大学に「改革」を行わせていく仕組みができてきている一方で、「自己決定力の喪失さえ自覚しえない「組織」のありよう」を大学が示しているとする厳しい指摘を行っている。
大学院重点化、大学の自己評価、入試制度の改革、飛び入学などちょっと考えてみるだけでもさまざまな言葉が思い浮かぶけれど、この十年あまりの間の大学の変化は急激なものだった。それらの「改革」はいずれも大学の「自治」の名の下にそれぞれの大学が自主的に行う形をとっているのだけれど、大学の中にいてそこからうける印象は、余裕のない追い詰められたような雰囲気である。それは結局はこれらの動きが上からの意向に従わざるを得ないものとして進んでいるからだろうし、それに対する根本的な批判が殆どないまま、みなが「自主的」にそこへ参加せざるを得なくなっているからなのだろう。
考えてみれば大学審議会が設置された年に大学に入学して、これと大学院重点化を中心とする大学改革というのが、私にとって最初のテーマであったのだけれど、学生の自主活動の防衛といった個々の運動は必要に迫られてやってきたけれど、同じ時期に進められてきた大学改革に対する、トータルな視座を持ち得てきたかといえば非常に心許ない。大学院生となり研究室に入れば、大学の制度の変化は身近なことなのだけれど、身近なゆえに全体像が見えなくなってしまっている。そうしたことに気づかされるような本である。(『反天皇制運動じゃ〜なる』No.17,
1998.12.8号)
平成不況のこの日本で、現在の社会システムへのオルタナティブをいかに構想できるか――武藤一羊『ビジョンと現実』
塩川喜信●フォーラム90s共同代表
アジア太平洋資料センターやPP21などで、特に第三世界の民衆との連帯を目指して精力的活動を続けてこられた武藤一羊氏が、久々に本を刊行された。この著作は、発足したばかりのピープルズ・プラン研究所の叢書第一号として刊行されたもので、序文と巻末の座談会を除き、国際会議やシンポジウムでの武藤氏の四つのペーパーが収録されている。巻末の座談会での論議は、現在の世界構造と左右の伝統的イデオロギー・理論に対する挑戦と挑発として興味深く、ここだけでも独立して取り上げるに価すると思うが、紙幅の制約から、武藤氏の論述に即して、批評を試みよう。
現状認識について、私は武藤氏の所説にはほぼ同意できる。「支配的プロセスを構成する決定の連鎖」が「自己破壊の方向に加速して行く」、また、現代世界の危機は「資本主義の危機というより、……崩壊した国家中心型の社会主義をその一部とする近代世界全体の危機、……文明全体の危機というべきであろう」という認識において、著者と立場を共有できる。
グローバリゼイションの名の下に、北側の支配的国家と資本が、世界の民衆の生活を解体し、環境破壊を続けている現状をどう変革するか。変革の主体は何か。武藤氏の方法論の特色は、古典的二元論から脱却して、変革すべき客体と主体とがともに多様で、重層的な構造を持つという前提から出発していることである。この前提から、マルクス・レーニンなどの古典的変革理論が見逃してきた価値規範が重視される。ジェンダー、エコロジー、エスニシティーなどである。
国家権力の掌握によって、上から一挙的に社会を変革するという、古典的革命論は当然に否定される。現在生きている民衆が、様々な分野での運動を通じて、現存の諸関係を変え、オルタナティブな社会関係を創造することから出発するという視点(「かさぶたの下に新しい肉が盛り上がる」)は、「対抗社会」や「対抗文化」の系譜を引く発想と思われる。これは変革のプロセスであると同時に、変革の可能性への希望でもある。「民衆のエンパワーメント」、「越境する参加民主主義」、「民衆の希望の連合」などのキーワードは89年以来、日本、タイ、ネパールで開催されたPP21でも確認された用語であるが武藤氏のビジョンの根底にある方向である。
武藤氏は、変革の主体は「民衆(ピープル)」であるという。古典的な「階級」はもとより、「市民」という用語も採用されていない。このピープルという言葉については、巻末の座談会で、中村・花崎氏などの興味ある議論があるが、「民衆」というそれ自体としては無限定な用語を用いる武藤氏の発想に共鳴する部分もあるが、私は民衆自体が、市民的要素、労働者ないし勤労者的要素、エスニックな要素、ジェンダー的要素……などなどの重層的主体の複合として捉えた方がよいのではないかと考えている。
「貧困の克服と持続可能な発展」の同時追求は可能か。GNP主義でない豊かさを重視する点では、私も沖縄の「開発」に関連して書いたことがあり、武藤氏に同意する。そのためには、少なくとも先進国で「失業無きゼロ成長」を実現しなければ、地球規模での環境破壊をくい止めることはできない。実質的なゼロ成長に近い状況を経験しつつある、平成不況のこの日本で、現在の社会システムへのオルタナティブをいかにして構想できるかが、私たちの共通の課題だと思う。(1998年、インパクト出版会、本体1800円)
(『派兵チェック 』No.75 1998.12.15)
「くまなく、正確、迅速に情報を」を日夜追求する活動家集団
――『'97 ガイドライン安保・有事法に反対する全国FAX通信』
「欲しい」と手を挙げた人、「欲しい」と思うだろう人、思って欲しい人には、くまなく情報を流したい。そんなときのとりあえずのお手軽な方法はやっぱり活字・ペーパーメディア。もちろん「インターネットだろっ!」というリアクションはすぐに想定できる。だが、そのための条件をそろえている個人、団体、グループは、まだまだ100パーセントにはいたらない。欲しいと思う人に確実に届けたいと思うならば、できるだけそのための垣根はとっぱらわねば。そして、できるだけ、できるだけ、できるだけ迅速に。
「そんなに急いでどこへ行く」。このような反応も出てくるかもしれない。がしかし、急がねばならない事情もあるのだ。
一九九〇年に始まった湾岸危機以降、日本の軍事化の流れは可視的に進んだ。とりわけ敗戦五〇年を迎えた九五年あたりからは、それを推進する側はイデオロギー的、法的、行政的、大衆文化論的という多面的性をもって、その右傾化のピッチの高速回転を始めたのだ。それに反対する側である私たちは、それへの対抗軸をズレたものにしないためにも、行動はもちろん情報も、必然的に高速回転を迫られてくるのだ。どこぞの誰かとスピードを争っているわけでも、スピードアップそのものを最終目的としているわけでも決してない。いってしまえば、情報自体が、それを必要とする人が、その全体状況自体がスピードアップを要求しているのだ。というわけで、そんな状況のなかで『FAX通信』なるものを発信し続ける人々が登場することになった。
時は一九九七年晩夏、日米合同実弾射撃訓練が全国各地で展開されようとしていた頃。その動きに抗して、各地で反対の声が上がり始めていた。そして、その動きを繋いでいこう、運動の有機的なネットワークをつくろうとキャラバン構想があがっていた。その声は遠く大分県湯布院から届き、首都圏の運動も参加。最終的には、このキャラバンは文字どおり南は沖縄から北は北海道までを繋いだ。また、米軍への「思いやり予算」を東京で問題化していきたい。具体的には「税金戻せ」の訴訟を起こそうという長期戦の構想も出始めていた。あるいは政府の動きに反対する著名文化人が集まって声明を出すのもいい、そして、そのこと自体を運動と結びつけていこうという動きも考えられ始めていた。私も参加している新しい反安保実行委員会をふくめ、常に行動が準備されていた。そういう運動状況の中で、それらを繋ぐメディア構想が同時に進んでいったのだった。
くまなく、正確に、そしてできるだけ速く情報を届けられるメディア。そこで注目されたのが、今となっては「目新しい」とはいいがたいFAXだったのだそうだ。『FAX通信』は運動の中でつくられ、運動を担う人々によって編集・制作・発信されている。その人々、彼女・彼らとは活動家集団であると同時に、編集者・技術者集団でもあったのだ。彼女・彼らはとは、たとえば反安保実行委員会や緊急署名、全国行動の実行委員会、「思いやり予算」訴訟の事務局など、一つも二つも三つも掛け持ちで走り回っているような、超多忙な活動を続けている。そして、その超多忙のなかで持ち帰った情報や、各地から集まってくる原稿をチャカチャカと通信にまとめ、さっさと発信・発送してしまうのだ。「チャカチャカ」も「さっさ」も口で言うのは易しだ。ここはやはり、技術者集団であるがゆえのワザなのだ。
しかし、そうしているあいだも軍事化の波は止まらない。新ガイドライン(戦争をするためのマニュアル)の日米合意、そのガイドラインを実質化するための法整備として出てきた戦争協力法・周辺自体法案、その他の有事関連法案等の同時進行なのだ。息をつく間もない。それに対する運動の動きを繋ごうということであれば、「できるだけ迅速に」は不可欠の条件となってしまうのは必須なのだった。
1日と15日をめどに月二回発行される『FAX通信』は、FAXによる発信が120部くらい。そして郵送が70部。これら約200部が有料購読者ということ。それ以外に協力関係にある関係団体・個人などに約120部、無料で発送しているらしい。さらに、インターネット上でオルタナティブ・メーリングリストを運営している小倉利丸さんが、通信発行後すぐ、このメーリングリストにアップしてくれる。このことが「不特定多数」の部分を増加させていることは間違いあるまい。また、思いもよらぬ効果も確認したという。それは、視覚障害の人が音声変換や点字変換ソフトを使うことによって、活字メディアであった通信を読んでもらえるようになったということだ。これなぞは、多様なメディア作戦の好例だ。
メディアがFAXであるということで、情報は「短く簡潔に」ということを余儀なくされる。紙面を増やすのは難しいのだ。現在は少し違ってきているそうだが、まずは情報を集めて流すことが第一義。その内容は「ニュートラルなスタンスをとっていること」だそうだ。彼らは言うのだ。「運動の流れを一緒につくり出していくこと、現場との密着性、実際に動いている人との有機的なつながりを作ることが目的であり、理論誌を作っているわけではない」と。また、「この通信は受け手が主体的であること――責任を持って受け取り情報を流す、ということで成立している」とも。なるほど、通信の内容は全国各地の運動情報を短くまとめ呼びかけたものが主流だ。
三期目(一年半目)に入った今こそ情報は向こうからやってくるが、最初は情報源すなわち各地の運動現場を探していくのが大変な作業だったという。全国キャラバンと同時に発足したこの通信は、キャラバンを追っかけては情報を探し、全国にばらまくという作業の繰り返しだったのだ。原稿を依頼する方もされる方も、お互いがイッタイこいつらナニモノ?ってなところから始まるわけだ。お互い半信半疑の関係。それが、全国行動をくり返すうちに「見えない関係が見える関係、信頼関係に変わってきた」という。当初の目的達成といったところだろうか。その結果、その信頼関係のなかで主義主張も少しづつ登場しつつあるという。ん〜、メディアもイキモノなのだ。
年明け早々の通常国会では、ガイドライン・安保を円滑に動かすための憲法論議が始められる気配である。これは並々ならぬ問題だ。憲法解釈の段階では戦争はできん!もっと明確に変えていかねば、というところから始まるわけだ。そして、周辺事態法、組対法、住民基本台帳法等々、有事法制化の大きな波がドンブラコとやってくる。このただならぬ事態に「反対の声一つあげずにそれらを成立させるわけにはいかん!」と考えられている人は少なくないはずだ。実はすでに国会行動も考えられているし、大きな全国行動も準備が進んでいる。また、全国各地でもさまざまな行動が作られつつある。
さぁ、『FAX通信』を手に行動開始だ。参加できそうな条件の行動を探すのもよし、マスメディアでは絶対手に入れられない情報をとりあえずは読んでみようというのだってよし。この大きな歴史の変わり目に、大切な情報を何一つ流さないマスメディアが唯一の情報源だなんていうのは、それだけで大損ですぞ。というわけで『FAX通信』申し込み先はこちら。
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