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autonomous lane No.13 1999.2.20 |
【議論と論考】
天皇の尊厳を押しつける自治体との闘い―富山県立近代美術館裁判一審判決をふまえて(小倉利丸)
『戦争論』に沸き立つ右派メディア(小山俊士)
歴史・思想的に、非歴史的映画『プライド』に留まってくれるな――遅ればせながら「プライド」を論議する・4(太田昌国)
イラク空爆を〈問う〉―1・31集会を通して考える (天野恵一)
【チョー右派言論を読む】
【書評】
天野恵一『反戦運動の思想――新ガイドラインを歴史的に問う』(越田清和)
【表現のバトルフィールド】
超高速時代の情報・メディア攻防戦に助っ人!―インターネットの可能性とリスクの板挟みで奮闘するJCA-NET(桜井大子)
天皇の尊厳を押しつける自治体との闘い
―富山県立近代美術館裁判一審判決をふまえて―
小倉利丸●富山大学教員
昨年暮れに、昭和天皇を素材とした大浦信行の「遠近を抱えて」とその掲載カタログを処分した富山県とこの処分を違法として提訴した私たちとの裁判の一審判決がだされた。県側が主張した処分理由を裁判所は認めず、私たちの観覧請求を不許可とした県側の決定を違法とした点では、この判決は滑り込み「勝訴」といえた。ここでは、この裁判の判決内容よりも作品の意味と裁判の過程で主張された富山県の象徴天皇制についての理解の問題点について述べておきたい。
大浦の作品は、戦後の天皇を主題とした作品として、山下菊二の作品と並べて語られることがあるが、作品のモチーフはまったく違う。山下は、天皇の戦争責任を正面に据えたが、大浦の作品にはそうした意味での政治性は全くみられない。大浦の作品は、ボッチチェリやレオナルド・ダビンチ、尾形光琳などの美術史上の古典と昭和天皇の様々な写真を組み合わせる一方で、入れ墨やヌードなど二十世紀の作品とも組み合わされた。この作品は、大浦がニューヨーク在住中に自画像を描くことを企図したときに、日本人としての自己を表現する素材として、自分自身から一番遠い存在としての天皇を用いることを考えたと大浦自身は語っている。
戦争体験のなかで天皇と自己との関わりをとらえた山下と、純粋に戦後生まれの大浦が、天皇を自覚するきっかけは、作家の個人的なモチーフの形成という側面からすればそれほど大きな差はないようにおもう。粉川哲夫が指摘していたように、大浦の作品には、戦争経験のない戦後世代が、日本人としてのアイデンティティを表現しようとする場合に、この世代に固有の天皇に対する意識が表明されているとみることができる。作品の政治性のなさ、極めて私的な天皇に関する表現こそが、戦後の象徴天皇制の本質そのものの表現であって、それこそがまさに象徴天皇制の隠された政治性なのだということもできるかもしれない。マスメディアの皇室報道、とりわけ家族関係の報道は、天皇家という家族を人々が私的に営む家族と結びつける機能を担っている。誰もが、ごく私的な関心で天皇家の報道に接する。こうしたメディアを介した天皇家のイメージの形成は、ナショナリズムを支える不可欠な条件である。戦争や軍事的な危機のなかでの国民統合が不可能になった戦後の「平和憲法」体制のなかではこうした方法でナショナリズムが形成された。これは、戦後的な天皇制の個人への内面化作用であり、天皇の非政治的政治性である。このような「内面化」は、天皇にたいする「親近感」を生み出しはするが、国家的な権威をそのままでは形成しない。この国家的な権威としての天皇は、思わぬところでその抑圧的本性を発揮する。「遠近を抱えて」では、議会の批判とそれに続く、右翼や行政側の対応がまさにこの権威主義的抑圧の典型といえた。
富山県は、この作品を公式に「不敬」という表現で批判することはなかった。しかし、作品とカタログの処分にさいして、県は、作品を「プライバシー侵害の疑いがある」と判断した。その後の裁判でも肖像権の侵害の恐れがあるなどと主張した。これは、「不敬」な作品であるということの言い換えであって、事実上、県は全面的に右翼や作品破棄派の要求を受け入れたのだ。
* * * *
この裁判では、裁判所が天皇の肖像の扱いについて判断を下した最初のものとして重要な意味を持つが、私にとっては、むしろこの裁判の過程で論じられた被告、富山県の天皇にたいする考え方によりいっそう大きな問題を感じる。
天皇の肖像権とかプライバシー権といった問題は、自治体にとってはやっかいな問題だから、裁判では余り踏み込んだ主張はしないのではないかと私は思っていたが、作品処分の理由の大きな柱であるから、そうもいかないと考えたのだろうか。富山県は、特に最終準備書面で、次のように立ち入った主張を展開した。「大日本帝国憲法下の天皇が、主権者、統治権の総攬者、国民の象徴という地位を兼ね備えていたことと対比すると(もっとも、大日本帝国憲法下では、天皇は主権者であり、統治権の総攬者であったため、象徴たる地位は表面化されなかった。)、日本国憲法下の天皇には、象徴としての地位だけが残されたことになる。」「現存人物が象徴として受け取られる場合は、長い歴史と伝統を背後に持つ君主が象徴とされることが常態であった。……『天皇は、日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴』とは、このような意味内容のもとで理解されるべきである。」「天皇は象徴であると同時に、象徴としてふさわしい存在でなけれぱらないということになる。その例として、天皇自身には品位を保ち、政治的行動を差し控えるなど、象徴にふさわしい行動を取ることが要請される。これに対する国民の側からは、天皇を象徴としてふさわしい存在として取り扱わなければならないということになろう。その結果、象徴としての天皇の肖像の使用方法が一定の制限を受けることはやむを得ないことである。この様な見地からすると、天皇の肖像の使い方として、象徴としての尊厳を傷つけるような態様で使うことは、本来、許されるべきことではない。」
このように、富山県は、天皇の象徴の機能は戦前のかれの継承であるということ、日本は立憲君主制であること、そして天皇が象徴としての品位を保つのにこたえて、国民もまた天皇の象徴としての尊厳を傷つけることは許されないということを主張した。
富山県は、「遠近を抱えて」が議会で問題化したあとで、宮内庁に説明に出向いている。また、当時の小川正隆館長は、右翼との交渉の席で、作品の非公開については宮内庁の了承も得ていると発言している。こうした経緯や日常的に皇室行事をかかえる自治体が独自の判断で上記のような天皇観を主張したとは考えにくい。推測の域は出ないが、宮内庁との何らかの協議があったかもしれない。このように考えると上記のような主張は決して奇異なものとはいえないかもしれないが、しかし、ここまで戦前の天皇制の継承関係を容認し、その尊厳の絶対性を主張するとは予想外だった。
戦後、不敬罪は刑法から削除されたが、そのかわりに、公的な権力は自己努力として、不敬罪的状況の徹底した排除を巧みに実行してきた。県は、この作品と掲載カタログを美術館で長年非公開にしただけではない。図書館でもカタログを非公開とし、教育委員会に保管されていたカタログも、当該ページを切り取り、後に廃棄された。カタログは、「遠近を抱えて」だけでなく展覧会に出品したその他二九名の作家の作品やデータも掲載されていたが、これらの作家の作品図版やデータを犠牲にしてでも天皇の尊厳を守ることを最優先にしたのだ。今回の事件は、美術館という文化施設で起きたことであり、図書館までまきこむ徹底した処置だった。この徹底性に私は戦後の象徴天皇制が隠し持っている「狂気」を見る思いがする。この半世紀、行政の天皇観は何も変わっていないといっても過言ではないのかもしれないとすら思えてくる。
裁判では、県側の象徴天皇制についての主張は事実上退けられ、「遠近を抱えて」のプライバシー侵害の疑いは完全に否定されたが、作品の買い戻しもカタログの再版も認められず、作品・カタログ処分も行政の裁量としてその違法性は認められなかった。この点を含め不服な点について私たちは控訴し、県側も控訴した。
今回の事件は、裁判だけで決着のつく問題ではない。美術館は、あいかわらず天皇をタブー視し続けるだろうし、図書館の選書に目に見えないバイアスがかかることも日常的にありうるだろう。学校教育や社会教育に関しては、言うに及ばない。こうした、行政の文化政策に込められた見えざる検閲との闘いが、裁判闘争以外に重要になっている。
『戦争論』に沸き立つ右派メディア
小山俊士●反天皇制運動連絡会
昨日、近所(千葉市)のいわゆる郊外型の書店に行ったら、そこでの催し物コーナーはアイドルの写真集と並んで小林よしのりの特集だった。『戦争論』『新ゴーマニズム宣言』『新しい歴史教科書を「つくる会」という運動がある』『戦争論争論』などが、ハードカバーなどほとんど置かれていない書店で平積みにされている。『戦争論』の反響が大きいということは聞いていたけれど、こういうところでも売れているのかと思わされた。こうした状況があって、「自由主義史観研究会」「新しい歴史教科書をつくる会」の最近の動きといえば、もっぱらこの小林を押し出すことが中心となっているようだ。『戦争論』の内容については既にほうぼうで批判がなされているので、ここではそれを取りまく言説の幾つか拾っておくようにする。
「新しい歴史教科書をつくる会」の活動は『正論』に掲載されてきているのだけれど、九八年一二月号と九九年三月号には『戦争論』をめぐるシンポジウムが収録されている。そのシンポジウムは、小林ほか、伊藤隆、西尾幹二、岡崎久彦、田久保忠衛、長谷川三千子、前田日明、藤岡信勝、濤川栄太、坂本多加雄らが参加している。全体としての論調は、東京裁判史観と左翼・共産主義者の自虐的行為への批判やら、欧米の植民地支配の暴虐非道ぶりとそこからの解放としての大東亜戦争の意義付け、東南アジアの日本への支持、戦後日本の戦争と平和観への異議といったことで、その個々の指摘の粗雑さも含めて目新しものはない。
昨年の前半ころに行われていた実際にどんな教科書を書くかをめぐってのシンポジウムでは、歴史観の齟齬が見えていたのだけれど、今回でいえば、「『戦争論』を描いているときに、個と公の関係を考える上で、大東亜戦争肯定論にもっていかざるを得なくなっ」たという小林に対して、「倫理評価は別にして、一九四五年の敗戦に向かうような、そうした政策決定をした当時の政治家たち、軍人たちの政治家としての結果責任……そういうことは十分に検討していかなければいけない問題だ」とする坂本の発言にそれは引き継がれている。これとも重なるのだけれど、同じ『正論』三月号に藤岡の「中村粲氏の『南京事件一万人虐殺説』を批判する」も掲載されている。そもそも戦後五〇年の『大東亜戦争の総括』を通して藤岡らを右派論壇へ誘った中村との間で、論争というよりは揚げ足の取り合いをしているのだが、これはようするに、虐殺は一万人以下と数を少なく見積もろうとする中村に対して、「虐殺はなかった」と藤岡が批判しているものだ。当初は「大東亜戦争肯定論」とは一線を画したとして登場した「自由主義史観」のグループが全体として「大東亜戦争」を全面肯定する立場に移行しており、それをどう整合づけるかについて、若干のズレが現れているようだ。坂本もそれ以上に細部には入らず、小林の功績をヨイショして平穏に済ませており、全体としてこの流れに落ち着いていくようだ。そして、あえて中村と藤岡の論争を仕掛けた『正論』の意図を考えれば、このグループが右派論壇の中で占めることを期待されている位置は、こうしたものであり、戦争論を媒介として、憲法・自衛隊・安保などのテーマで戦後日本のあり方を全面的に否定して、普通の国家としての軍隊をもって戦争を行うべきだという発言を始めていることには警戒をしておかねばならない。
もう一つ注目しておきたいのは、『戦争論』が「個と公の関係」を問題としているため、これまで正面から論じてこなかった天皇について、日本国家における「公」を象徴する存在として言及せざるを得なくなっていることである。特に江沢民来日はこの人たちの逆鱗にふれたようで、「私が最近非常に憤慨に耐えないのが、江沢民の来日であります。江沢民先生、なにか昔の中国の皇帝でもあるかのように大変居丈高に振る舞いまして、日本をかつての朝貢国であるかのように見下し」(伊藤)、「頭にきちゃったんですね。天皇陛下が深々と頭を下げているときになんで江沢民はそっくりかえっているのですか」(濤川)といった発言が何人もの論者に見られ、これがかつての戦争も中共の謀略だといった主張と重ねられていく。これから天皇の訪韓が政治日程に上っていけば、このグループも「謝罪外交反対」という右派の系列に近付いていくのだろうか。
これらの論者の中でもっとも積極的に天皇制を意義付ける主張をしてきた坂本が、中央公論社の『日本の近代』シリーズの一冊として書いた『明治国家の建設』も刊行された。そこでは「五箇条の御誓文」にあらわれている、「公議」を尊重した「有徳君主」による統治という政体こそが日本の「国体」であり、その伝統の発展の歴史として明治を描き、それが戦後にも続いているとする。シンポジウムで濤川は『マッカーサー回顧録』を引いて、戦争責任を一人で引き受けようとした「昭和天皇に人間の本当の品位と尊厳を見た」として、公と天皇を結び付けている。このような作り話とわかっている話を今さら持ち出してきたことには呆れさせられるが、こうした戦後日本の作ってきた天皇神話に依拠しつつ、坂本の「有徳君主」論で明治以来を一貫とした物語として描こうとしているといえる。坂本を代表執筆者として編集を進めているという「新しい歴史教科書」もこの線でまとまっていくのだろうか、そうした動きもまた注視していかねばなるまい。
歴史・思想的に、非歴史的映画『プライド』に留まってくれるな 遅ればせながら「プライド」を論議する(4)
太田昌国●ラテンアメリカ研究
映画『プライド』をめぐる論点は出尽くしたかに見える。落穂拾いをする。
『キネマ旬報』九八年六月号で、「鶴田浩司」という(あまりに出来すぎのペンネームの?)人が『プライド』論を書いている。『女囚さそり』などで反体制的立場にあった伊藤俊也監督が、東条英機を主人公にした映画を作るとは、日中・太平洋戦争での日本の立場を正当化する作品になるのかと危惧したが、ところが、東条は日本を戦争に巻き込み多くの国民を死に至らせた大悪人として描いていて安心した、と鶴田は言う。そのような悪人としての東条と、戦勝国としての横暴を恣にする米国という悪人の、プライドを賭けた戦いを描いた映画だと鶴田は言いたいらしい。映画を観ての人の思いはさまざまだが、ここまでの伊藤への思い込みによって映画そのものを見損なった評言もめずらしい。歴史的な現実としての過去の出来事をテーマとしている作品に関して鶴田のように解釈できるためには、物語があまりにも非歴史的で、抽象の虚空を彷徨ったものであるというのが、私たちの批判的な観点なのだ。
監督・伊藤俊也の作品にありきたりのイデオロギー的批判をしたくないという思いは、私もすでに書いた(本紙第一三号、九八年八月)。その後「『プライド』伊藤俊也監督に聞く」というインタビューが行われたので(『インパクション』第一一〇号、九八年一〇月)、虚心に読んだ。聞き手の天野恵一が、伊藤の従来の仕事や、『プライド』の物語の構成の仕方に即して丁寧に対話に努めている感じが出ていて、面白く読んだ。伊藤が、自らの「転向」に居直る立場にいるのではなく、『女囚さそり』シリーズを作ったり(第一作は一九七二年)、『幻の「スタジオ通信」』を書いたり(一九七八年)していた時の延長上に現在の自分の仕事があると考えているらしいこともよくわかった。それだけに、痛ましさを感じる箇所が多々あった。アジア侵略戦争の責任者としての東条の前史を捨象して、米軍による占領批判の先駆者として東条を持ち上げるだけの作劇はおかしいと問う天野に、伊藤は前者を描くのは自分の将来の課題だが、この作品のテーマに対してはないものねだりと答える。持ち出す比喩は、前半生がいかに唾棄すべき物であれ、いま癌と戦う人の懸命な戦いを見事なものとして描くことは可能だ、ということだ。比喩自体が無惨だが、たとえ「病気との戦いの中から、癌に侵されるまでのその男の生きざまも見てとれる」という伊藤の言葉に即して言ったとしても、「癌に侵されるまでの」東条の姿が、(繰り返すが)非歴史的にしか描かれていないということが『プライド』自身の問題なのだ。アジア(この場合はインド)という他者を、米国との対抗関係においてのみ利用主義的に描いている映画に、伊藤が自信を持ち続ける根拠が相変わらずよく見えない。
水垣奈津子は、東条の顔に歌舞伎の隈取りができて法廷の真ん中で能が始まると笑いがとまらなくなったと書いたが(本紙第一五号)、「死ねー!」と叫んで、護送車の前で割腹自殺を図った女の顔を法廷で思い起こしたときの東条の内面劇の描き方として、私には面白かった。往年の伊藤の脚本と映像の冴えをすら感じた。歴史・思想的に『プライド』に留まってくれるなと声をかけたい程度には、私はまだ伊藤に「期待」をもち続けることだろう。
それにしても、ためらいつつこんな一言を最後に。役者は、自分にふり当てられ、自ら選択した役柄を「演じる」だけだから、どの役者がそれぞれの作品でどんな役を演じようと、過剰な意味付与は禁物。それを知りつつ、次のことを言ってしまおう。津川雅彦は、近親者に芸達者な役者が多かったから、可愛そうにも、初期にはとりわけそのダイコン振りがよけい目立つ役者だった。その彼の演技歴を、私の記憶の中でのみ自在にたどると、大島渚の『日本の夜と霧』では、一九六〇年安保闘争ではじめて公然と登場したトロツキスト学生・太田をぎこちなく演じた。一九六八年黒木和雄監督『キューバの恋人』では、革命的高揚のさなかにあるキューバにたまたま休暇で上陸した、女たらしの日本人漁船員の役を地のごとく演じた。相変わらず下手な役者だった。それから三〇年後、津川は東条を「熱演して」、その結果現実世界において東条そのものに乗り移ってしまった。津川は、かくして、戦後左翼思想の荒廃の過程を「演じ続けてきたのだ」と? まさか!
天皇ヒロヒト「敗戦23年後の述懐」をめぐって
―「退位すると言ったことはない」んだって―
天野恵一●反天皇制運動連絡会
「……明治天皇は、大臣が辞職するのとは違って、天皇は記紀に書かれている神勅を履行しなければならないから退位できないと仰せられたとのことである。明治天皇の思召は尤もであろうと思う。
わたしの任務は祖先から受け継いだ此の国を子孫に伝えることである。……
もし退位した場合はどうであろう。何故退位したかと問われるであろうし、混乱も起るであろう。又靖国神社の宮司にまつりあげて何かしようとしている人々のうわさもあり、又摂政になると予期して、戦時中の役目から追放になる身でありながら動きを見せた皇族もあるから、退位はなさらない方がよいと言ってくれたのは松平慶民であった。……」
『朝日新聞』(一月九日)に大々的に載った、天皇ヒロヒトの一九六八年の「肉声」の一部である。見出しは「退位すると言ったことはない」。徳川義寛元侍従長の日記の付属資料の中から発見されたとある。その『朝日』には、吉田裕や田中伸尚の、ヒロヒト天皇は戦争責任感覚が欠如しており「神権主義」天皇観・「神勅天皇観」を戦後も保持していた人物である、とのコメントがある。
「敗戦23年後の述懐」がそうであることに注目しておく必要は、私たちにも確かにあるだろう。すでに敗戦直後の「肉声」は、「昭和天皇独白録」として示されており、戦後も自分を「現人神」という観念でとらえ続けていたこと、天皇ヒロヒトの責任意識は、自分の一族(祖先)へのもののみで、侵略戦争の戦場に狩り出して殺傷を強制した「国民」に対してですらまったくない事は、そこによく読めた。
ヒロヒト天皇のこういう姿勢(思想)は、一生変わらなかったのだろう。しかし、「祖先」をタテに「皇族」内部の反抗を許さないために「退位」しないという論理はどうだ。自己保身のために揺れ動いていたのだろうが、「退位せず」発言も、「祖先」のためをダシにした自己保身であることがミエミエな点が笑わせる。「戦争中の役目から追放になる身でありながら」と、その皇族を評した側近と、その言葉を、自分の口からくりかえしておかしいと思わない、この男たちの感覚はすさまじい。
「戦争中の役目から」、超A級戦犯として処刑されてもまったくおかしくなかった、あの植民地支配と侵略戦争の最高責任者が、こういうことを語っているのだ。これは、お笑いを通りこしている。「此の国」は、みんな自分たちの持ち物と考えている「神勅」天皇ヒロヒト。ずいぶんな話ではないか。
「人間天皇」ヒロヒトのもう一つの顔は「神権天皇」であった。この二重構造は、ヒロヒトの「御遺徳」をたたえて即位したアキヒト天皇にも、それなりに連続していること、このことをも私たちは確認しておかなければなるまい。
『靖国・天皇制問題情報センター通信』(262〈一月三一日〉号)で小田原紀雄は、こう論じている。
「しかし、研究者にとっての価値はともかく、こんな誰もが予想できた内容の見解を、一面に掲載する新聞社の意図については、しっかり考えておかねばなるまい」(「ホルマリン漬け男の居直り妄言」)。
確かに、歴史学者にとっては重要な資料なのかもしれないが、こんな「肉声」は、まったくアホらしいだけの内容であることは、小田原とともに確認しておかなければなるまい。
マス・メディアは、こんな発言を、何かとてつもなく重大な内容がつめこまれたもののように扱う。その扱い自体が政治操作なのである。
天皇(制)は、とてつもなく大きな存在である、だから、天皇の「肉声」は重大な歴史的意味があるのだ。
こういうメッセージが、扱い方自体の中にうめこまれているのだ。しかし、あたりまえの人間の発言として評したら、「肉声」の内容は天皇や側近たちなんてのは、笑ってしまうか、いいかげんにしろというしかないとんでもない人々であることが確認できるというしろものであるにすぎないのだ。それは、私たちが、その事を確認するためにのみ意味のある「歴史資料」である。(『反天皇制運動じゃ〜なる)
イラク空爆を〈問う〉―1・31集会を通して考える
天野恵一●反天皇制運動連絡会
1月31日、私たち(派兵チェック)も呼びかけ団体でつくられた「沖縄の反基地闘争に連帯し、新ガイドライン・有事立法に反対する実行委員会」は「米・英のイラク空爆を問う集会」を開催した。昨年十二月の米英のミサイル空爆下のイラクにいた伊藤政子(アラブの子どもとなかよくする会)のスライドを使った現地報告と、中東研究者板垣雄三のコメント(歴史的背景と問題を考える視点の説明)という組み立ての集まりであった。
伊藤のレポート(スライドを説明しながらのそれ)は、マス・メディアがつたえている「事実」が、イラクで生活している人々の日常を、ほとんどつたえていないことで成立している「事実」であることを、私たちに強く実感させるものであった。
今度の空爆については(まだ終ったといえない状態であるが)、湾岸戦争の時のように、ミサイルはまったく民間の人々の頭上には落されていないというような報道だけではなかった。例えば『毎日新聞』(1月20日)には、こうある。
「……攻撃の標的となったフセイン大統領宮殿や競技場、病院などが大きな被害を受けている。……フセイン体制の弱体化を狙った攻撃は、国連の経済制裁で疲幣した一般国民の生活をむしばんでいる。」
フセインの大量破壊兵器と指揮命令系統を攻撃しているという、米英側の主張に、非軍事施設の被害という事実をふまえ、批判的なトーンの記事がなかったわけではない。
しかし、“悪者”フセインを、こらしめるための空爆というムードが、マス・メディアをやはり支配していた。そして、空爆支持の姿勢を世界に先がけて示した日本の政府・首相の態度を、キチンと批判するトーンは、そこにはなかった。
集会の資料として配られた、伊藤の日誌(「空爆下のバグダッドにて−−1988・ 12・16〜12・22)」には、こうある。
「第2次爆撃は、17日10:00pmから18日の2:00am頃まで断続的に続きました。……この攻撃による被害は陰惨をきわめています。まず、バグダッド内のメディカルシティという国内の医療関連施設を集めた街にある、900床のベット数を誇る国内一のサダム医科大学付属病院が近くに落された爆弾のあおりで機能不全になりました。病院長や医師たちの話では、大きな3つの破片がすごい勢いで病院を直撃し、爆風のあおりで病院が一瞬宙に浮き上がり、次の瞬間ズシンと地に落ちたそうです。病院の窓ガラスふすべて割れ、電気設備も水道設備も壊滅状態で、ひしゃげたシステムが垂れ下がっています。ショックで3人の患者がその場で息を引き取ったそうです。すぐに患者たちを地下シェルターに避難させ、一晩中何の設備もないところで輸血も点滴も酸素吸入もできず過ごさせたため、患者たちの病状は悪化し、特に重症者たちの状態は深刻だとのことです。この病院には第一次攻撃による怪我人も、運びこまれていました。/夜が明けて攻撃が中断したところで駆けつけた私は、患者たちを他の病院に転送するので大わらわだった院長に『日本政府は真っ先にこの攻撃に賛成したのだ。日本人としてどう思うのか。こんなことが人道上許されるのか』と食ってかかられました。」
こういう怒りの言葉をイラクの人々は口々に自分に向けると、伊藤はここで書いている。私たちは、日本の政府(首相)が支持している空爆(戦争)が、イラクの人々に何をもたらしているのかを、具体的にキチンと見すえなければならない。
伊藤はさらに、このように続けている。
「私の毎日通っている、白血病病棟のあるマンスール小児病院は、この病院の隣に建っています。子どもたちは、激しい振動と爆撃音におびえ、一晩中泣き叫んでいたそうです。皆すっかり衰弱し、高熱を出している子どももいます。『また、爆撃が始まって怖くなったら、私のことを考えて、私はあなたたちのことを思い続けているから』とくり返し話して、彼らに笑顔が戻るまでに何時間を費やしたことでしょうか。重体の子どもたちのいた個室の前には酸素ボンベが立っているだけで、すべて空っぽでした。私は重体だった彼らの生死を確かめることなど怖くてできませんでした。/同じメディカルシティ内にある厚生省も、窓ガラスが割れ、アルミニウムの桟がひしゃげ、天井が落ちています。直撃でなくとも大病院を壊滅状態に追いこむ強力な威力の攻撃でした。/その他にも、別の地区では私立アル・リカ産婦人科病院が爆撃を受けました。バグダッド大学の語学学部も、大学近くの爆撃のあおりで機能不能です。薬学部、化学部も痛手を受けました。国立の自然歴史博物館も、またカダミーヤにある綿化の工場も爆撃を受けました。アブ・クレイブという地区では小さな個人経営の電池工場や数多くの民家や商店が爆撃を受けたと聞きました。」
アメリカのいう「誤爆もあったかもしれない」などという状態ではないことは、明らかである。操作報道が隠そうとしている事実にこそ、私たちは注目し続けなければならない。
第3次攻撃(18日夜〜19日朝)について、伊藤は、こう書いている。
「夜が明けてから確かめたところ、地方への攻撃が主だったようです。南のバラスでは、クリナ病院が爆撃を受けたそうです。……その他にバラスだけでも3カ所の病院、3カ所の小学校、中学校、幼雅園、障害児関連施設などが被害を受けたそうです。」
こんな空爆に、どんな「正義」があるというのか。多くの病院、民家、学校などを、メチャクチャに破壊しているのである。
伊藤の発言で、私が考えさせられたのは、このすさまじい空爆の実態についてのみではない。彼女は、「湾岸戦争は終っていない」という事を語り続けてきた。『市民の意見30の会・東京ニュース』(1998年8月1日〈No.
49〉号)で、こう書いている。
「イラクでの滞在中、私たちは毎日、毎日、目の前で死にゆく子どもたちをみとっていた。湾岸戦争から7年半、誰が戦争終結後のイラクでの死者数が150万人(その半数は子ども)にもなることを想像し得ただろうか。小どもたちの死亡原因の大多数は下痢や風邪である。産婦人科病院では、生まれてくる子どもたちの過半数は栄養失調や障害児で60%から80%はそのまま死んでゆく。/『私の子どもを助けて!』と幾度母親たちにすがりつかれたことだろう。国連による経済制裁のため、イラク国内には普通に使う薬さえほとんど入らない。麻酔も消毒薬もないまま交通事故の重症患者の手続をしているのに立ちあったことがある。イラク全土の近代的な病院は、まるで野戦病院のようだ」(「湾岸戦争は終っていない」)。
湾岸戦争は経済制裁というかたちで続いており、それがさらに、今度の空爆につながったのである。湾岸戦争で劣化ウラン弾という核兵器まで使われ(白血病の人が多いのは、そのためである)、破壊しつくされ、あたりまえの生活環境を失ったままのイラクの民衆は経済制裁によって、さらにいためつくされ、死に続けているのだ。食料・衣料・薬品など、日常生活に不可欠なものの、決定的な欠乏。
伊藤は『経済制裁下・イラクの現状−−湾岸戦争とは何だったのか−−』(新沖縄フォーラム刊行会議発刊のパンフレット〈聞き手 新崎盛暉〉・『けーし風』21号のインタビューの全文)で「だからイラクの人たちは、経済制裁のねらいというのは、イラク人の皆殺しだというふうな言い方をするんですけど」と語っている。
こうした、ギリギリで生き残ることを強いられている人々の頭の上に、ミサイルは大量に落とされ、落され続けているのである。
この集会で、板垣も強調していたが、民衆がどうなっているのかという視点から、問題を考えることの大切さを、私はあらためて痛感した。沖縄の反基地・反安保の闘いも、そこで生活している人々が、本当に「安全」であるかどうかを考えよと、問いかけ続けている。
民衆の命を奪い続けている国連の経済制裁が、「正義」であるなどといえるのであろうか。フセイン体制の評価(私は、もちろんそれを支持する気持などまるでないが)とは別に、それは考えられなければならないはずだ。
板垣は、日本の民衆が直接にイラクに出かけ、あちらの人々と交流し、具体的な事実を私たちにつたえる、こういった動きは、80年代にはなかったと、そこで語った。
国家の支配者たちがどうであれ、民衆が相互に、国境を越えて交流する。その交流を通して、戦争(あるいは戦争準備のための基地)被害の実態などと向きあい、支配者(国家)の論理を前提にしたコミニケーションとは別のコミニケーションを具体的に蓄積していくことの大切さを、私たちは、この集まりによってあらためて実感させられたのである。
さらに、私たちは、国連が実態的に、どういう機能を果たしている組織であるかを、この空爆との関係で、より具体的に考えてみる必要がある。伊藤は『経済制裁下・イラクの現状』で、こう語っている。
「経済制裁というのは、イラク軍がクウェートに侵攻した直後にアメリカが自分のところの議会も通さないで始めたんですね。/ちなみに、日本にもブッシュ・海部のホットラインですぐ入って、日本も議会を通さないでたった二分で経済制裁を決めた。国連が経済制裁決議を可決するのはそれより数日後なんですね。その経済制裁についての決議というのは、イラク軍がクウェートに侵攻したという理由でなされたんです。その国連決議自体が国際法違反だというふうに言われているんです。/それは二点ありまして、一点は、どんな戦争だって人道援助への物資についてはフリーに入ることになっていますが、すべてのイラクに対する出入りに対して経済制裁をかけるというのが一点。/もう一点が、イラクに入ると疑われる貿易物資について、国連の委託を受けたものが査察できるということを決めてしまったんです。/実際にどういうことが行われていたかというと、ヨルダンのアカバ港にミッドウェイだとか、インディペンデンスだとかアメリカの空母が泊まって物資を全部止めていたんですけど。ヨルダンだけじゃなくて、船も飛行機も、全部止めてたんですね。それを米軍が全部査察をして、ユニセフから送られてきたミルクも一年半止まっていたという例があります。アジア、アラブ、アフリカの小さな交易船なんか全部止められて、みんな干上がったんです。/ヨルダンやスーダンをはじめとして、あちこちの国から、対等な国々の集まりの中での自由貿易の侵略でもあるとして、国連に抗議がなされるんですけども、全部抹殺されました。で、停戦になったわけでしょう。」
この後、当事国のイラクを入れずに、仲裁の資格のない戦争当事国のアメリカとクウェートが停戦決議をつくってしまうという「国際法違反」の決議、これをイラクが完全に尊守するまで経済制裁を続けるというムチャクチャな論理がまかり通っている事態の説明が続く。
だとすれば、今度の空爆の直接の理由となった「国連大量破壊兵器廃棄特別委員会」(UNSCOM)の報告など、本当に信用できるのか、あやしいものであろう。
国連がアメリカの強盗的イラク支配の正当化のため政治的ベールとして使われているのだ。
こういう実態をふまえて、この集会で板垣のいう、アメリカのクリントン大統領の人気を支え、フセイン政権の支持をイラク国内で強化する空爆、これに象徴される奇妙なアメリカとイラクを軸にした国際的な政治構造の成立、このことの意味も考えてみなければなるまい。
(『派兵チェック』 No.77、1999.2.15号)
ゴラン高原の自衛隊
森田ケイ
1月5日、高村正彦外相がイギリス・中東諸国訪問に出発、イギリスに続いてエジプト、レバノン、シリア、ヨルダン、パレスチナ自治区、イスラエルを訪れ、13日に帰国した。
今回の目玉の一つは、日本の外相として初めてのレバノン訪問だろう。高村はレバノンでラフード大統領、ホス首相と相次いで会談、ホス首相には「レバノンで身柄拘束中の日本赤軍メンバー五人について『速やかな身柄引き渡しに前向きの対応をお願いしたい』と要請」(共同通信・1月8日付)。一方ホス首相は、「司法の問題で、これから詰めなければならない問題もあり、日本側と相談していきたい」とのみ答えたという。
さらに高村はシリアでもアサド大統領に「日本赤軍メンバーの日本への引き渡しに、同国に強い影響を持つ同大統領の協力を要請」した(朝日新聞ニュース速報・1月9日付)。同大統領は「何ができるか、考えてみたい」と述べた。
これ以外でめぼしい点としては、「パレスチナ自治区」のパレスチナ評議会で「 21世紀に向けた日本と中東との新しい架け橋」と題する演説を行い、中東和平に向けた4項目提案を打ち出したことだろう。毎日新聞ニュース速報(1月10日付)などによると、その主な内容は(1)イスラエル軍は国連安保理決議425号【注】に基づき南レバノンから無条件で撤退する、(2)撤退はパレスチナ、シリアを含む中東和平問題の包括的解決につながる、(3)関係当事者が撤退の具体的方法について前提条件なく話し合う、(4)日本を含む国際社会は、イスラエル軍撤退後、南レバノンの安定化のための支援を行う、という4項目だ。
「これまでの経済支援から一歩踏み出し、中東地域の包括和平に向けて政治的イニシアチブを発揮する意向を明確にした」(読売新聞ニュース速報・1月10日付)などといった「評価」もあるが、「無条件に撤退するが、その方法については話し合いで決める」というのは、考えてみればおかしな話だ。無条件撤退とは、条件なしに撤退するのだから、実行あるのみではないのか。条件付きの国連決議受け入れを既に表明しているイスラエルの立場に配慮した提案と言わざるを得ない。
時事通信ニュース速報(1月11日付)は、「『提案」自体は目新しい内容とはいえず、こう着しているレバノン南部問題の打開につながるようなインパクトには乏しい。外相同行筋も迫力不足の点は認めており、『4つの原則を一つのパッケージとしてまとめて出したことに意義がある』と説明している」と報じた。結局のところ、日本の公安当局の「おつかい」と「花火の打ち上げ」のための中東訪問だった、ということだろう。
この高村の訪問よりも、2月下旬から予定されている外務省・町村信孝政務次官の中東訪問の方が、よほど「中身」がありそうだ。毎日新聞ニュース速報(1月22日付)によると湾岸諸国を訪問する計画で、サウジアラビアでは「来年2月に同国との協定期限(40年)が切れるアラビア石油のカフジ油田採掘権問題についても話し合う」。ゴラン高原のUNDOF自衛隊の「激励」訪問というオマケも付いているという。
アラビア石油については前々号でも触れたが、1月30日付の日本経済新聞に記事があった。同社が29日に発表した98年12月期決算が18億円の赤字で、これは1977年以来
21年ぶりの赤字転落、というもの。原油価格の急落で売り上げ高が落ち込み、経常利益は45%減の350億円、一方で石油利権の供与を受けているサウジアラビア、クウェイト両政府への利権料・法人税などの支払いが368億円ということで、最終損益が18億円の赤字。また、原油採掘権の延長問題では「精力的に交渉中で、できるだけ早く妥結に持っていきたい」という小長啓一社長の言葉が載っていた。こうしたなかでの外務政務次官の訪問となる。来年2月に向けて継続的に注目しておく必要があると考える。
ここで新ガイドライン安保/周辺事態法との関連。このかんも「周辺事態」の範囲について国会での質疑が報じられている。例えば、「周辺地域は日本の周辺地域と限定している。中東とかインドネシアとか、まして地球の裏側は考えられない」と小渕首相が答弁し、直後に「インドネシアと答えたが間違い。インド洋と訂正する」(同日付の各ニュース速報)と述べてみたり、「周辺事態は、わが国の平和と安全に重要な影響を与える事態であり、現実の問題として地球の裏側で生起することは想定されず」(1月29日付・各ニュース速報)とした答弁などだ。
インドネシアとインド洋の「間違い」については同日付の毎日新聞ニュース速報が「『マラッカ海峡は原油輸送ルートとして日本の生命線』が政府内の認識になっているため言い直したようだが、図らずもインドネシアが『周辺事態』の対象であることを表明する結果になってしまった」と報じた。なんともズボラな政府だが、ならば湾岸戦争後の自衛隊掃海艇のペルシャ湾派遣に際しての政府答弁はどうなるのか。当時の首相・海部は、「わが国に死活的に重要で、国民生活に必要不可欠なものを運ぶ航路だということが、派遣に踏み切った大きな理由だ」と参院本会議で述べている(例えば91年4月27付・朝日新聞・朝刊)。
改めて世界地図を見ればマラッカ海峡からペルシャ湾岸までは経度で約50度。さらに日本からでも約90度(つまり東西方向に地球を約4分の1周)であり、「地球の裏側ではない」との主張も不可能ではない。「中東」を「ペルシャ湾岸」とか「産油地域」などと言い換えることができれば、上記の小渕と海部の答弁の間の矛盾は形式上なくなるだろう。「周辺」のまやかしを決して許してはならない。(2月7日 記)
【注】国連安保理決議425号:1978年3月14、15日にイスラエル軍が南部レバノンに侵攻、リタニ川以南の全域(ティールとラシャディア難民キャンプの一帯を除く)を軍事占領した。これに対して国連安保理が、イスラエルの即時停戦とレバノン領からの撤退を求め、また国連レバノン暫定軍(UNIFIL)の設置を決めた決議が425号。同年3月19日採択。
(『派兵チェック』 No.77、1999.2.15号)
《チョー右派言論を読む》
川勝平太の「常識派」風言論の行き着く先
太田昌国●ラテンアメリカ研究家
『文芸春秋』という雑誌は、小さい頃からよく〈眺め〉た。家で購読していたわけではないが、親に連れられて訪ねる家々によくおいてあった。そういう言葉遣いで理解していたかどうかは覚えていないが、常識的な中産階級の読み物のように思えた。別冊だったか、今は無き『漫画読本』のほうがどちらかというと面白かった。略称『文春』では、功なり名を遂げたらしい人びとが一堂に会して写真に写っている「同級生交歓」とかいうグラビア頁があって、なるほど「成功者の(双六で言う)上がり」とはこういうものかと思わせて、記憶に残っている。長じてからもあまり手にしたことはない。「チョー右派言論」読みに耽溺している昨今にあっても、『文春』は穏健で生温く、さほど刺激をうけないので、ふだんは本屋で見出しやいくつかの本文を立ち読みするくらいで、あまり読まない。
だが2月号には、北朝鮮から北京経由で韓国に亡命した主体思想研究所所長・黄長●の告白「私は金正日と命をかけて戦う」が載っているので買い求め、めずらしく全体を眺めた。前国連代表・小和田恆が「日本外交:私の提言」を語り、国際日本文化研究センター教授・川勝平太が「富国有徳のすすめ」を書いているのを読むという余得に与った。テーマを異にしてふたりが主張していることは、『正論』や『諸君!』に載る文章と違って、ウルトラではない。今の日本社会にあっては、きわめて「常識的な」水準の論議なのだろう。その常識的らしき言動が、他方のウルトラな言動と矛盾することなく存在しており、むしろ相互補完の関係をなしている点にこそ問題があるように思える。
川勝は言う。「明治の指導者は、百年の大計として富国強兵をかかげた。その批判を現代の観点からおこなうのはたやすい。しかし、その国是のもとに、日本は、ほかのアジアのほとんどの地域が植民地になるなかにあって、ひとり政治的独立をまもり、かつ経済発展に成功した非西洋圏で唯一の国となった。それはアジア(東洋)史における奇跡であり、世界史にのこる日本国民の偉業である」。「自由主義史観派」もよく言う、聞き慣れた解釈である。日本が「ひとり独立をまもる」過程で、アジアのほかの「地域を植民地にした」ことを知っていて、こう主張できる文明史家は恐ろしい。これは、後代の人間が歴史的過去を批判することが「たやすいか否か」という種類の問題ではない。私たちがあの時代を生きていて実践的な方針を出すわけではない以上、私たちは現在の指針を導きだすために「過去を批判的に分析・解釈」するのである。川勝は現代を「人・物・情報が大交流する時代」と呼び、異文化交流の重要性を強調するが、これほどまでに自己(=日本)中心主義的な歴史解釈をしておいて、他者との交流がどう可能なのかを考えようとしていない。
「たやすい」批判は止めろ(つまり、日本の過去の歴史を批判的にはふりかえるな)と呼びかけた後で、川勝は言う。覇権を求めて、富国強兵の道を歩んだソ連は崩壊し、米国も最大の債務国に転落した。小国の軍事国家・イラクも北朝鮮も息も絶え絶えだ。富国強兵の時代は終わった。明治維新にも先立って、富国・強兵・士道(すなわち、戦争をとめるべき心徳を研く道)の三論を国是とすることを主張した横井小楠に倣って、日本はいまや「富国有徳」の国になるべきだ、と。「文化とは、憧れられるものであり、その求心力によって中心性をもち、他に模倣されることによって普及し、普遍性を獲得する。文明とは、中心性をもち、他に模倣されて普及していく文化である。憧れられる文化、すなわち文明になることがグローバル交流時代における大国の新しい条件である」。横井の言葉の援用はともかく、次に続く言葉も、書き写すのが躊躇われるほどに恥ずかしい。「各国から憧れられ仰ぎみられる文明、それは富士山のごとき存在であろう。富士の『富』と『士』を英訳すれば
rich and civilized である。『豊かに、かつ廉直に生きること』、それこそが現代の日本人に求められているすがたであり、富国強兵になぞっていえば富国有徳になる」。
このあとで川勝は、幕末・開国期に来日した外国人が、日本の生活景観と自然景観をいかに美しいものとして捉えたかを論じて、他所にない日本独自の文化の精華に拠り所を見い出したいとするのである。「強兵」の道を反省し、あるいは諦めたかのように見せかけて語る川勝は、なぜ「大国」であることにこだわり、周辺地域に「模倣される」ことによって「中心性」を確保したいと言いつのるのか。「経済大国としての現実を直視する」という川勝の思いは、なぜ、日本という国境の内部に自足し、南北の経済格差を問う道に行かないのか。なぜ、日本は常に他者に「憧れられ、模倣される」存在でなければならないのか。
およそ「異文化交流」などと口にする者には、最初に問われる基礎的な問題で、川勝はいくつも躓いている。藤岡や小林のファナティシズムに少しは眉を顰める時もあるかもしれないこれら常「識派風」言論が、終には、前者を批判できない「論理」構造をもっていることを忘れてはならないようだ。
(『派兵チェック』 No.77、1999.2.15号)
私が右派言論を読む理由
栗原幸夫●『レヴィジオン〔再審〕』編集者
先日、遊びにきた若い友人が部屋の片隅に積み重ねた『正論』だの『諸君!』だの『発言者』だのの山をみて、「オジイサン、だいじょうぶ?」とでもいうようにまじまじと顔を見つめられたのには参った。べつに右派言論が好きなのではない。面白がっているというのだったら当たらずといえども遠からずだが、本心はもちろん敵を知り己を知れば百戦危うからず、というおしえに忠実なだけだ。己を知るという方にはあまり自信はないけどね。
とにかくいま、右派の言論は元気だ。これを、権力にバックアップされマスコミがカネ太鼓で売り出しているんだから派手に見えるだけさ、と鼻の先で笑って済ませてはならない。彼らの自信は彼らの言論が大衆を獲得し始めている、つまり確かな手応えを感じ始めているところから生まれているのだから。正しい言説が大衆に受け入れられるとはかぎらない。右派の扇情的な、正誤という点では明らかにあやまった言説が圧倒的に大衆を捉えるということは、過去にいくらもあったことだ。なぜ人びとはファシズムに魅せられたのか。戦後の社会科学研究の大きな部分が、この「なぜ」の解明にささげられたにもかかわらず、その成果はアカデミズムのなかに閉じこめられ、現実の運動や思想闘争にほとんど組み込まれていない。
そこで「今月の右派言論」だが、『正論』3月号に「新しい歴史教科書をつくる会第7回シンポジウム・小林よしのり批判はそれだけか!」が載っている。小林に伊藤隆、藤岡信勝、坂本多加雄などの面々をそろえ、「戦後民主主義の牙城といわれる京都」で2000人の聴衆を動員したと胸を張っている。そこでの小林よしのりの発言をまず引いておこう。
「『戦争論』を描いているときに、個と公の関係性を考える上で、大東亜戦争肯定論に持っていかざるを得なくなってしまい、これは総スカンか、相当非難されるか、あるいは完全に無視されるか、というふうに思っていました。ところが五十万部売れてしまって、自分としては不思議な感覚に襲われています。」「この『戦争論』が五十万人、これは熟読した数ですからね(拍手)、そうなるとかなりの変化が世の中に起こってきているんじゃないかと思うんです。ただマスコミが封殺してるから隠されてますけれどもね。多分、庶民感覚の段階では随分変わってきてるでしょう。そこに対して本当に届くような言葉を向こう側から投げかけてこないかぎり、もう向こうの方に勝ち目がないという状態が来てるんだと思いますよ。」
おいおいよく言うよ、と「向こう側」の人間としてはいちおう腹を立てるものの、あまり腹に力ははいらない。そこで敵に図星を指されたときの無念さだけがのこる。なぜわれわれの言論はかくも無力なのだろうか。その答えは私には自明であるように思える。安全だからだ。「つねに正しい」からだ。思想上の冒険もせずに「つねに正しい」という程度のところで自慰的に垂れ流される言論に、この大動乱の時代に生きている庶民のこころをとらえる力がないことは明らかではないか。
もちろん『戦争論』を受け入れた庶民が正しいわけではない。しかし50万人の読者のうち、私もそのなかの一人なのだから全部でないことは言うまでもないが、少なからぬ部分が「大東亜戦争肯定論」に共感を感じたとして、それは歴史学的な知見としてではないのだ。小林が描いた肯定論も、歴史認識としてはほとんど問題にもならない。おなじシンポジウムで、「自由主義史観」から転向した藤岡信勝の大東亜戦争肯定論は「日本には東南アジアを支配していた欧米の植民地主義者を追い出すのだという大義名分があった」という程度のものにすぎない。このレヴェルの大東亜戦争肯定論を批判するのは簡単なことだ。しかしその「つねに正しい」批判によっては、過去なんどでもくりかえされたように大東亜戦争肯定論はなくならない。なぜならそれが生き続けているのは歴史学界ではなく庶民、そして庶民と心性を共有する保守政治家のルサンチマンのなかだからだ。そしてつけくわえれば、このルサンチマンのなかに隠微に生き続けていた大東亜戦争肯定論は、いまふたたびそこから出て歴史学の領域へと流れ込み始めているのである。「そこ〔庶民〕に対して本当に届くような言葉を向こう側から投げかけてこないかぎり、もう向こうの方に勝ち目がない」という小林の忠告はありがたくうけたまわる。そのうえで、「届く」ためには何が必要かと言えば、それはラディカル(根底的)であることと「芸」を身につけることだとおもう。
さて、今月のもう一品はご存じ福田和也の新著『日本の決断』である。このなかで彼は現在の危機の原因を戦後民主主義にあるとし、こんなことを言っている。「それ〔戦後民主主義〕が、どうしようもなくなったのは、やはり昭和から平成の御代替りがあってからでしょうか。つまり、敗戦を契機にした大きな変化があったにしても、昭和天皇がいらっしゃる間は、まだまだ日本は、国家としての「核」をもっていたように思えます。〔中略〕しかし、先帝がみまかられたため、今上陛下は、日本国憲法、占領憲法のもとでご即位あそばされた。このときにこそ、わが国は百パーセントの戦後に入ったのです。つまり、百パーセント占領憲法にしたがった、「戦後民主主義」というものが、この時にはじまったのです。そして、何よりも、この百パーセントの戦後民主主義というものこそが、日本から当事者能力を払底させたのです。」
つまりアキヒト天皇は百パーセント戦後民主主義だ。そしてこの戦後民主主義=アキヒトこそ今日の日本の退廃と危機の元凶だというわけだ。面白い。止められない。
(『派兵チェック』 No.77、1999.2.15号)
《書評》
天野恵一『反戦運動の思想−−新ガイドラインを歴史的に問う』(論創社、1998年)
越田清和●アジア太平洋資料センター
これは徹底した反時流の本である。そして著者である天野恵一を断固として反時流に立たせているのは、「非武装国家」化−−非軍事社会化」という原理だ。
この本は、序章「正義の戦争」と反戦、(1)反戦・非武装の〈原理〉、(2)湾岸戦争とPKO法、(3)カンボジアPKOと「死者」、(4)憲法・国連・自衛隊、(5)沖縄闘争と「新ガイドライン安保」という構成になっている。そのうち(2)〜(5)章が「メディア時評録」として、運動状況への発言が時間順に並べられている。
1990年から98年までの発言である。
こうして時評を並べて読むと、この時期、日本がますます「派兵国家化」への動き、戦争協力体制づくりを進めてきたことがよくわかる。そして、私たちはこうした動きに対して有効に反撃できていない。もちろん沖縄の人びとのたたかいはあったが、日本(沖縄からするとヤマト)の中では、ともすると、戦争協力体制づくりへとめどもなく流されそうになっていく。非武装国家化などという原理をかかげる集団は、日本の中では少数者も少数者、「派兵チェック」の読者くらいなものかもしれない。
そして何より恐ろしいのは、マス・メディアも含めて、日本の派兵国家化・新ガイドライン安保体制を正面から批判して当然と思われる人びと(ひと昔前なら「知識人」と呼ばれるような)が、この時期に雪崩をうって時流に巻き込まれてしまったということだ。だからこそ、反時流を徹底する天野の原理と方法から学ぶべきことは大きい、と私は考えている。
天野のいう「非武装国家化−−非軍事社会化」原理は、「加害者性と被害の体験を抽象的に対立的に考えるのではなくて、戦争体験(そして、それの思想化としての戦争〈経験〉)をあらためて掘り下げることを通して、両者を統一的に考えることで見えてくる〈原理〉」(27ページ)である。そして、この原理は抽象的に考えられたものではなく、反派兵・反戦・反安保行動の中で、沖縄や広島、長崎で同じような運動を担っている人たちとの出会いのなかから生まれてきたものだ。
では、方法とは何か。東京での反戦運動は、どうしても、日本国家を撃つことに集中する。その限りでは、どうしても戦争被害の体験を実感することは少ないのではないだろうか。だから沖縄や長崎、広島をたずね、あるいは戦争体験から出発した思想家を読む。それを「方法」などというと天野は嫌がるだろうが、やはりそれは自覚的に他者に伝えるべき方法だ、と私は思う。
そのうえで、一つだけ異論がある。日本という国家を「非軍事化」という視点から変革する際に、アジア・太平洋の民衆への加害者性と被害体験を統一的に考えることを原理とすることに、私は何の異存もない。しかし、どうやって統一的に考えるかという点について、私の考えは少し異なる。
天野は平井啓之の非武装国家論を評価しつつ、そこで使われる「日本人のアイデンティティー」という語に強く反発し、次のように述べる。「『良心的派遣=派兵拒否』の主体は、歴史的にもまず自分(個人)でしかありえない。……(反派兵の動きを『非国民』という位置に押し込めようとする国家)への反撃は、まず自分(個人)のアイデンティティーを貫く努力をする人間相互の協力として運動的に表現されるべきである。……そして『国際場裡』に語りかける言葉は『日本人(民族)』を主語にはせず、『個人=自分(たち)』の言葉として……語るべき」ではないか(75ページ)。
たしかに良心的兵役(派兵)拒否の主体は個人でしかない。しかし「とりあえず日本人というカテゴリーを生きざるをえない私たち」(77ページ)が、世界に向けて反戦や反派兵の思想と行動を語る時には、嫌でも「日本人」であることを引き受けざるをえないのではないだろうか。「とりあえず」ではなく自覚的に日本人というカテゴリーを生きることが必要になっていると私は思う。そのことと朝鮮人や台湾人などの旧植民地出身者を排除する「護憲ナショナリズム」とは全く別のことがらである。
そして天野が非武装原理には必要と考える戦争体験の掘り起こしという問題も、やはり個人の体験というよりも日本人の体験と考えた方が良いのではないだろうか。そのモメントを否定すると、天野が一貫して撃ちつづけている象徴天皇制国家日本に対峙する主体の輪郭がぼやけてしまうように私は思う。
民衆の安全保障というテーマに即して天野はこう言う。「『国家の非武装化=社会の軍事化』は国家(軍)の『安全保障』を歴史的かつ現在的に批判しつつ、民衆相互の『安全保障』をつくりだしていく、具体的な交流の運動のつみあげの中に展望するしかない」(387ページ)。「民衆相互の」と言った時、私はどうしても日本国家を作り替えようとする集団を考えてしまう。その中に「日本人」という集団がいてもいいのではないだろうか。
フィリピンの思想家、レナト・コンスタンティーノは「フィリピンはなぜベトナムのように最後まで帝国主義と闘わなかったのか」と言う問題を提出している。そして形式的に独立したフィリピンが実態としては独立国ではなく、米国の保護国であり、経済的、軍事的な従属国であると分析する。このフィリピンを変革するのは、過去に原点をもたず未来にしか実現しないナショナリズム(「民族的自覚」)であるとレナト・コンスタンティーノは述べる。ナショナリズムや民族という言葉に対して徹底的に反発する天野の主張は、ひよっとしてレナト・コンスタンティーノに近いのではないだろうか。そんなことを考えさせるほど刺激的な本である。
(論創社、1998年、2500円+税)(『派兵チェック』 No.77、1999.2.15号)
超高速時代の情報・メディア攻防戦に助っ人!
インターネットの可能性とリスクの板挟みで奮闘するJCA-NET
「インターネットは市民活動のためのメディアです」をキャッチフレーズに活動を続ける人々がいる。JCA−NETだ。10台ほどのパソコンがあちらこちらに散乱している(ように見える)事務所を訪ねた。スタッフの中には、私が活動する反天皇制や、反有事・治安立法などの活動とつながりを持っている人たちもいる。JCA−NETとはそういう人たちが運営しているのであった。
彼らはインターネットの機能について、パンフレットでこのように紹介している。「情報の発信」――「市民活動の『顔』」としてのホームページと「市民活動への『入口』」として使えるメールアドレスへのリンク。それから「情報の共有・交換」――お馴染みの電子メールとメーリングリストだ。そして「情報の蓄積・共有・公開・活用」――会議室。"aala"の読者にはお馴染みのものばかりかもしれない。JCAのスタッフが文字どおり日夜奮闘しているのは、これらの機能をどうやって市民活動の道具・メディアとして機能させるかっていうところなのだ。
自分たちは十二分に活用してるゾッという人も少なくないだろう。しかし、自分たちの道具として使うのであれば、効率のみではなくリスクを含む課題だって知っておいた方がいいに違いない。そしてインターネットの現在的な問題は、効率的な使い方もさることながら、むしろこの課題の方なのかもしれないのだ。JCAではいまインターネットに関わるいくつかの課題と取り組んでいることを知った。
海外の民衆運動を繋ぐNGOのネットワーク「進歩的コミュニケーション協会」・APC(Association for Progressive
Communication)というのがあって、JCAもこれ に加盟している。25カ国の市民ネットが加盟するこのAPCでは、加盟するグループが発信した情報を全体で共有し、意見の交換も行なうのだそうだ。そして、「100カ国以上でコミュニティリーダーや活動家にネット上のサービスを提供している」という。そこでいま問題にあがっているのが「インテル社が発売予定のペンティウム。のCPUにプロセッサー・シリアル・ナンバー(製造番号)を導入する」(APC
Press Release より)ということだ。これは今問題になっている住民基本台帳のコンピュータ版で、APCは次のように批判している。
「一部の国では、社会正義、人権問題、平和問題に取り組むということは自らの命を危険にさらすことを意味する。コンピュータ・ネットワーク上で個々のコンピュータを特定するという今回の
Intel の提案は、反対運動や抗議活動に終止符を打ち、時には活動家の生死に関わるほどのものである」「世界人権宣言はすべての人に基本的人権を保障している。この権利がコンピューターネットワーク上でも保障されるよう、ユーザーは今こそ、はっきりと意見を表明しなければいけない。我々はプライバシーの尊重のために、ビジネスと利潤をプライバシーよりも重視する企業関係者と闘うべきである」
JCAも、基本的にこの APC Press Release にある「APCは、インテルが構想を撤回し、ペンティウム。からシリアル・ナンバー機能を完全に除去されるまでインテルの製品をボイコットすべきという人権団体の呼びかけに支持を表明する」と同じ方針を出していると聞いた。
各加盟団体が提起する問題を全体で検討したり、このように大きな一つの課題について、いわば共闘関係を持ったりできるAPCであるが、その内部においても課題はあるという。たとえば言語の問題だ。日本語のように文字コードにない言語は、国際的なネットでは使えない。このことをどのように考えるかということなのだ。日本語だけではない。アルファベット文字以外でコード化されていない言語は、同様に使えない。インターネットユーザーのほとんどが英語を使い、このことはあまり問題にならないという。
通常英語を使っていない者同士が英語でコミュニケーションをとることの違和。言葉は支配・被支配、侵略・非侵略の関係でもある。英語がこれほど世界共通語として通用していることを考えると、言語による世界的な表現手段が英語だけという状況が仕方ないという部分と、残る気分の悪さは常に同居している。そのことについてJCAのスタッフに聞いてみた。実は彼らは試験的に日本語のホームページを作成し、APCのメンバーに意見を聞いているところだそうだ。文字化け状態が回避できず評判はよくないという。彼らの落胆は私には痛いほどわかった。しかし、このような小さなこだわりや試行錯誤があるかどうかは、決定的に違うのだ。大きな力に抗するための表現の場であればあるだけ、そのことの意味は大きいように思う。
また、これも世界的に問題になっていることであるが、日本でもいま国会で審議待ちになっている組織的犯罪対策法の一つ、盗聴法の問題がある。JCAスタッフとネットワーカーが、国会議員や弁護士と共同で米国からゲストを呼び、反盗聴法の集会を準備している。また、ネットワーカーを中心に交流会の準備も進んでいる。そのための会議は、ネット上に会議室を開き、遠隔地のメンバーが常にコミットできるようになっている。私もこの会議室には読むだけという消極的な参加を続けていたが、そのフットワーク(?)の軽さというのか会議のテンポの速さには正直なところ驚きを隠せない。これも物理的な距離やそのために必要な時間を最小限度まで省略できるインターネットならではのワザなのだろう。また彼らは、インターネットを駆使して世界中から関連する問題のレポートや声明などを引っ張ってきては紹介しあったり、討論したりもしている。いうならばネット上で毎日会議をやっているのだ。
しかし、ここで遅れてきた少女ならぬ成人女は思うのだ。これもネットワーカーだからできることでは……。インターネットもそれが便利である人にとってのみ便利なのだ、と。パソコン青年・オヤジもいるけど、物理的によく動くがパソコンはダメという肉体派活動家もいる。圧倒的多数は昼間はまったく時間がないサラリーマン。だから夜と休日は顔を付き合わせての会議、会議、作業、行動。こんな条件下の集団で、一体インターネットはどのように便利なメディアとして活用できるのだろうか。できる奴にのみ負担はかかり、またできない奴が少数派にまわったときの内部の関係性はどのようになるのか……。実際、選択的な活用しかできていない現在においてもこの問題はないわけではない。
この辺についても聞いてみた。彼らはこのような私たちにも便利なメディアとなるような使い方を模索しているという。できるだけ作業が省略でき、そして一つのグループの情報だけではなく、関連情報が一つにまとまるようなサイトを一つ作っちゃうとか。共同のホームページを運営するとか。そのような具体的な構想が出されていたが、乞うご期待なのだ。
この超高速の時代にあって、私たちの抗する相手はそれに耐えうる力を持ちすぎるほどに持っている。このスピード競争にのっかっていいものかどうか逡巡しつつ、しかしそのスピードに負けると本当にすべて負けるという時代であるのだ。インターネットというのは、今回のインテル問題や、コンピュータ界を席巻している独占大企業マイクロソフト社の問題、あるいは盗聴法をはじめとするさまざまなリスクがつきまとっている。しかし、彼らはそれらについてはあまり悲観的ではない。むしろ、この新しいメディアを権力者の専有物にさせない方法、もっと積極的に自分たちのメディアとするための方法を探し求めていて、その可能性をも見ているように思えたのだ。
ようするにJCAとは、このメディア攻防戦に負けないための助っ人として、専門家集団が手を挙げているところなのだ。彼らは今の社会に異を唱え、企業・政府から独立した「情報活用支援サービス」――インターネットを駆使した情報活用のサポートを提唱している。インターネットにおける相談事はおそらくなんでも聞いてくれる(と思う)。関心のある方は連絡を取られることおすすめだ。会費制なのでその辺もキチンと聞いてほしい。
インターネット文化が浸透していない、というよりもそのような環境が整っていない現在の日本の活動現場で、インターネットが私たちの便利な表現の場や道具としてどのように活用され出すのか、自分のこれからも含めて楽しみなお話である。
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