alternative
autonomous lane No.15 1999.4.20 |
【無党派運動の思想・2】
「大衆」について考える(栗原幸夫)
【チョー右派言論を読む】
誰がこの空洞を埋めるのか(栗原幸夫)
クーデタの誘惑?!(伊藤公雄)
【議論と論考】
「開発」の見直しにまで踏み込む反基地運動の胎動――県内移設の焦点・浦添の現在(新崎盛暉)
【表現のBattlefield】
「『頽廃藝術』の夜明け」から13年後の表現の不自由――富山県立近代美術館問題は終わらない(桜井大子)
《無党派運動の思想・2》
「大衆」について考える
栗原幸夫●文学史を読みかえる研究会
党派の時代はまた大衆の時代でもあったので、「党」のあるところつねに「大衆」が問題になった。党と大衆団体、党員と非党員大衆、党派性と大衆性というぐあいに、これは対概念をなしていたのである。大衆はときに党によって指導されるべき愚昧な集団であり、またときに党員にとって惜しみなき献身の対象とされた。つまり党の都合によって大衆は上げたり下げたりされるわけだが、どんなときも党は大衆の「半歩前」を歩む英明な集団であった。このさい半歩前というのが重要であって、党は半歩どころか十歩も百歩も前に行くことができるのだが、そこはぐっとこらえて大衆を置き去りにしないように、半歩前にいるのが大切だとスターリンは言った。
ふざけるんじゃないよ、という声があがったのは六〇年安保闘争の渦中からである。記念碑的な論集である『民主主義の神話』(一九六〇年一〇月、現代思潮社刊)におさめられた「定形の超克」のなかで谷川雁は、反パルタイ・反イデオロギーとしてあらわれてくる大衆の自立運動を促進し、そこに行動的な世界を形成させるために、党派的契機ではなく、解党的契機によって結合する反パルタイ連合の形成を提唱した。ここでパルタイと名指されているものは、ヨヨギ共産党だけでなく党派的なものすべてを指していることは言うまでもない。そしてその先に、パルタイ的集中点として「今日のパルタイ概念とは縁もゆかりもない反パルタイ的パルタイ」がもとめられるようになるだろうと予言している。なんとなく「無党派の党派性」とかいうことばを思い出したりするね。
おなじ本の中では、これはほとんど時代の象徴的な表現とさえなった「擬制の終焉」という吉本隆明の論文が名高いが、こんにち運動論的な立場から見れば、この谷川の論文にはおおくの貴重な示唆がふくまれている。
六〇年安保闘争は党―大衆図式の崩壊のはじまりであり、それにつづく六〇年代全般の経験をとおしてわれわれが無党の運動へと転身し始めたその出発点となったできごとであった。それが転機であり出発点であった以上、まだ「反パルタイ的パルタイ」とか「真制の前衛」(吉本隆明)というような両義的な概念でしか方向は語られていないが、しかしここにはまちがいなく今日に通じる問題が提起されていたのである。
今日では、無党派であることはごくあたりまえのことのように考えられている。党派に属することの方が異常であるように受け取られている。そしてそうなったことには歴史的な根拠があると私はおもう。その歴史的な根拠とは、主として国家・支配体制の構造的な変容である。私がここでとくに強調しておきたいことは、党派ははじめからバツ、無党派ははじめからマルというように、歴史的にではなく原理的にこの問題を片づけてはならないということだ。もちろん「党」には原理的に否定されなければならない理念も含まれていることは言うまでもない。しかしそれがわれわれに明らかになったのは、膨大な犠牲者をふくむ大衆の経験によってである。その経験から私たちは十二分に学ばなければならない。なぜなら無党派の運動は、まだなにほどの実績も持っていないので、その将来において党がたどったと同じような否定的な存在にそれが転化してしまわないという保証などどこにもないのである。民主主義の問題にしても、直接民主主義というすばらしい組織原則が現実的にはひとりの指導者の独裁になってしまうという逆説がここでおこらないという保証もないのである。
ところで私がいま考えていることは、党―大衆図式が崩壊したあとで、大衆はどこに行ってしまったのかということだ。「大衆の原像」によって前衛党神話を解体した吉本隆明は、「マス・イメージ論」をへて高度成長下の大衆の全面肯定にいたった。そしてそれはバブルの崩壊で歴史的サイクルを終わった。吉本の場合、大衆は党を乗り越え自立し、自分がすべてを決定するわけだから、そこには党も運動も存在しない。あるのは大衆の欲望だけだ。それは崩れた。そして高度成長・大衆消費社会の幻影が崩れた後にはおおきな空洞が残っている。一人一人の大衆の胸にもぽっかりと空洞がある。
もちろん決定するのは大衆である。党でも活動家でもない。それを十回も確認したうえで、無党派の運動にとって大衆とは何かを考えよう。「私たちが大衆だ」という主張は謙虚のようでほんとうのところ誠実でない。われわれは少数派で十分だという考えは、責任の放棄になりかねない。(『反天皇制運動じゃ〜なる』21号、1999.4.13号)
《チョー右派言論を読む》
誰がこの空洞を埋めるのか
栗原幸夫●文学史を読みかえる研究会
思いがけずこのところ白内障が急激に進行して活字を読むのがひどく難儀になってしまった。いくら「好き」だといっても、このかぎられた読書能力のうちのわずかでもを右派言論を読むために割くほど、わたしは変人奇人ではない。それで今月は雑談でもしよう。もっともいつも雑談じゃないかといわれれば、ごもっとも、とでも言うよりないが。
このコラムでも何回かふれているが、このところわたしにとっていちばん気にかかることは、われわれの言論のスタイルだ。前回も「そこ(庶民)に対して本当に届くような言葉を向こう(つまり「こちら」)が投げかけてこないかぎり、もう向こうの方に勝ち目がないという状態が来てるんだと思いますよ」という小林よしのりの発言を引いておいたが、『戦争論』が50万部売れたかどうかとは関係なく、小林はけっこうよく見ているとおもう。たしかにこの国の状況はそんなぐあいになっているのではないだろうか。
『戦争論』の50万部にはそんなにおどろかないわたしでも、鈴木光司の『リング』 600万部にはちょっとおどろいている。『リング』に『らせん』『ループ』3部あわせてだとはいえ、それに映画とテレビドラマ化をくわえると、これはやはりひとつの社会現象と言っていい。ホラー小説オタクのわたしのことだからはやばやと読んで一定の評価はしていたが、当時はもっぱら京極夏彦一辺倒だった。それが変わったのは第3部『ループ』が出て、物語の世界の全体構造が明らかになったときだ。リアルワールドとバーチャルワールドが併存しているこの物語世界は、いまの子供たちにとってじつは自分たちが生きている日常の世界なのである。コワイ、コワイというのがこの小説の「売り」のようだが、それだけを期待しては失望する。これは、人も動物も植物も、全体がガン化して滅び始めた地球を、一人の人間が自分の身を滅して救う、救済の物語である。しかもそうやって救われる地球も人間も、じつはもうひとつのバーチャルワールドなのではないかという疑いを読者は否定できないという意味では、ニヒリズムがこの物語をささえている。
ここに描かれているのは現在の子供たち、若者たちの内面世界そのものではないだろうか。そしてその物語のなかで、世界のために自己犠牲をすすんでえらぶ若者が主人公となる。しかもこの若者はじつはバーチャルワールドからやってきた少年なのだ。ここから、たとえそれがどんなにバーチャルなものであっても、その虚構性を承知のうえでなおオオヤケのために身を捧げるという自分の物語をつむぎだす少年や少女がいても不思議ではない。おそらく『戦争論』50万の読者のなかにはそのような少年や少女が少なくないだろう。
『戦争論』がもしそのオビの惹句「戦争に行きますか? それとも日本人やめますか」という程度のものだったら、とうてい50万の読者を獲得できなかっただろう。『戦争論』の成功は、ダメな父親、ウルサイ母親(戦後民主主義の世代!)を一挙に無化して孫と祖父母という関係を押し出したところにある。文化的な継承関係は親子直伝ではなく、祖父母の世代から孫の世代へと隔世遺伝的に伝わるというのがロシア・フォルマリストの主張だったが、『戦争論』は知ってか知らずかそれをうまく使ったといえる。そしてこの仕掛けのなかに、ナイーブな感受性をもつゆえに時代の腐臭にいらだつ少年や少女たちが取り込まれていくのは、むしろ当然だといえるだろう。
もちろんわたしは、『リング』が『戦争論』に通底しているなどと言っているのではない。そんなことではまったくない。なぜ、『リング』のような現在の少年や少女の内面を構造的に表象している作品が、そのことによってその読者を、その一部分にせよ『戦争論』の方につないでしまうのか、そこにはわれわれの言論・表現がおちこんでいる無力さが端的にあらわれているのではないか、ということを言いたいのである。
なぜわれわれの言論・表現は、とくに若い世代にたいして無力なのか。難しいからか、独善的だからか、「記憶に語り、ポストポストのスタディーズ」とでも揶揄したくなるような外国の思想家の主張をなぞった優等生の作文が多いからか、――そういうこともあるだろう。しかしいちばん重要なことは、いま、この国の小林風に言えば「庶民」の胸にぽっかりと空いてしまった空洞に、われわれがあまりにも無関心だということにあるだろう。どんなに教育制度を改革しても子供たちの胸に空いたこの空洞は埋まらない。どんなに社会保障制度を改善しても老人たちの胸に空いたこの空洞は埋まらない。なぜならこの空洞は、制度の産物ではなく文化の崩壊した痕跡だからである。
崩壊したのは「私生活至上主義」「私利私欲」の追求を全面肯定する戦後文化である。戦前・戦中の「滅私奉公」という天皇制文化にかわって登場したこの文化は、いまや崩壊した。「家庭の幸福は諸悪のもと」という太宰治の警告に背を向けて、ひたすら家庭の「幸福」をおいもとめた戦後五十年の結果は、家庭の全的な崩壊でしかなかった。
この空洞をだれが埋めるのか。あちら側か、こちら側か。――いま、問題はこのように提起されている。この戦場においてわれわれは少数派に甘んじることはできない。それはいまを、もう一度の戦前にすることだからである。
[おことわり]白内障の手術のために私の担当はしばらくお休みさせていただきます。順調にいけば7月頃から復帰できる予定です。
(『派兵チェック』 No.79、1999.4.15号)
クーデタの誘惑?!
伊藤公雄●男性学
寝ながらミステリーやら超古代史ものやらを読むことを至上の喜びとしているぼくだが、ミステリー以外にも、クーデタものや政治的・軍事的クライシスものなどにもけっこう目がない。特に、クーデタものは、出るとたいてい買ってしまう。
なにしろ、今を去ること20数年前、卒業論文は「インドネシアの9月30日事件」で書こうと思ったほどだから、クーデタについての関心は年期が入っている(実際書いたのはウェーバーの知識人論だったけどネ)。ロシア革命からムッソリーニのローマ進軍まで、すべてクーデタという視点でくくって論じた『クーデタの技術』を書いたクルツィオ・マラパルテについては、けっこう長い文章を書いたこともある(拙著『光の帝国/迷宮の革命』、青弓社、所収)。
それにしても、なぜぼくは、クーデタものやそれに類した本が好きなのだろうか。たぶん、そこには軍事や警察というものへのぼくなりの直感的な思いがあるのだろうと思う。もちろん、いやでいやでたまらない現状を突破してみせるクーデタは、一種の「革命(反革命)」として、読み手にカタルシスを与えてくれるということもあるのだろう。しかし、それだけではない。「クーデタによる全体主義体制の成立」が、もの心ついて以後、ぼくにとって、日本社会がもつ可能性がある最悪のオプション(もちろん、そう簡単にクーデタが起こるとは思っていなかったが、「最悪」のケースとして想定はし続けてきた)として、頭の片隅にあったからだろうと思う。考えてみれば、ぼくの1960年代末から70年代にかけての学生運動へのコミットメントの契機は、当時の多くの人々や党派が夢見ていた「社会主義・共産主義社会」の樹立という「未来」を求めるためではなく、むしろ、当時急激に右傾化しているようにみえた日本社会に歯止めをかけたいという思い(もちろん、当時の日本社会の現状を維持するのではなく、変えたいという思いは抱いていたし、その思いは現在も抱き続けてはいるが)の方が、大きかったのだと思う。
「反動」とでもいえる動きのなかでクーデタの最悪のオプション(何度もいうが、クーデタが明日でも起こると危機アジリをするつもりはない)として考慮に入れざるをえないという理由のひとつは、政治における暴力(軍事力)をめぐるぼくなりの関心もあるのだろう。というのも、剥き出しの暴力の前には、言葉はその力を失効せざるをえないというのは、残念ながら事実だと思っているからだ。特に、軍事技術の発達によって、(警察力も含む)「民間」の暴力と軍事の専門家の暴力とは、(それこそパリコミューンやロシア革命の時代と比べて)ケタはずれに格差が生まれている。それだけではない。と同時に、警察以上に軍事の領域は、(ドゥルーズ&ガタリが明らかにしたように)、それ独自の論理で自己運動しやすい装置であるからでもある。警察や軍事の領域は、市民社会の動きとズレながら一人歩きする傾向をつねにもっているのだ。軍隊があるかぎり、クーデタの誘惑はつねに存在しているということでもある。
こんなことを書いたのも、最近、クーデタを扱う気になる本を続けて読んだからだ。ひとつは、北上秋彦『戒厳令1999』、そしてもうひとつは福田和也『日本クーデター計画』だ。前者は自衛隊の一部が小沢一郎をおもわせる政治家や彼をとりまく高級官僚とともにクーデタを計画するが、自衛隊警務隊(旧憲兵)の副隊長を中心にした反撃のまえに潰えるというフィクションであり、後者は、現状の腐敗した日本をひっくり返すためにはクーデタでもやるしかない、という立場からのシミュレーションである。同様の本として、最近だけとっても、楡周平の『クーデタ』(オウムのクーデタ計画をもとにしたこの小説は、リアルでなくてつまんなかった)とか、クーデタものではないが、麻生幾の『宣戦布告』やら五條瑛の『プラチナ・ビーズ』と、軍事クライシスものも評判になっている。「クーデタものや軍事クライシスものが好きだ」と書いたぼくだが、こう並べられるとなんだかイヤーな気分になる。と同時に、こうしたクーデタものやクライシスものがもたらす、ある種の政治的効果に対して注意をはらわざるをえないな、という気持ちにもさせられる。
なぜなら、明らかに、こうしたクーデタやクライシスを描いた作品群が、現状の反動的再編やら危機管理強化やらの動きに棹さす効果をもっていると思うからだ。特に、現状の危機(それは政治的・経済的危機であったり政治の腐敗であったり、北朝鮮問題を介した軍事的危機であったりする)を描くことを通じて、有事体制の確立や危機管理国家の重要性が、きわめて露骨に強調されているのだ(実際、かつてのクーデタものは、どちらかといえば左翼ないし左翼クズレの執筆者が多かったものだが、最近の危機ものの書き手は、明らかに保守・反動寄りになっている)。
読み物の分野まで、こううっとおしい状況になってくると、70年代に書かれた「月光仮面人民共和国」(正確なタイトルも中身も忘れたが、確か、日本で革命政府が樹立されるという話で、筑摩の『人間として』に連載された)みたいな、それこそ、明るい「革命」フィクションでも書いてやろうか、などと思ったりさせられる。誰か書きませんか。(『派兵チェック』 No.79、1999.4.15号)
《議論と論考》
「開発」の見直しにまで踏み込む反基地運動の胎動
――県内移設の焦点・浦添の現在――
新崎盛暉●一坪反戦地主会
■那覇軍港の浦添移設問題の歴史と経緯■
稲嶺県政と大田県政は、国際都市形成構想などのいわゆる振興策ではまったく一緒である。日本政府と大田が対立するのは、これ以上の県内への基地進出を認めないという点。それに対して稲嶺は、日本政府と手を結んで振興策・開発を進めていくためには、県内移設を認めざるをえないとする、そこが違っている。
ただその場合も、特に焦点となった海上基地については、市民投票などによる明確な意志表示があったし、社会的な雰囲気からしても「受け入れる」と言っては絶対選挙に勝てないという判断から、「15年期限付き軍民共用」というやつを押し出した。しかしそれは唯打ち上げてみただけの話だから、実際知事になってみてそんなことはできっこない。幾つか候補地は上がったがすぐに反発を食らって結局は、ある意味での迂回作戦をとらざるをえなくなる。
その迂回作戦の焦点として浮かび上がってきたのが、那覇軍港の浦添移設問題だ。
最近明らかになってきた資料などによると、那覇軍港の移設は、60年代末――沖縄の日本「返還」がはっきりしたころから話が進みはじめていたといわれる。
水深などの条件で大型船が入るには不便であるとか、荷揚げのためのクレーンなどの施設に欠けているなどの幾つかの問題があって、よりよい条件のところに移りたい、というのがアメリカ側の立場。
日本側としても、沖縄の玄関口であり商業港として使いたい、地元の那覇市としても返還それ自体にはまったく異論がない。それで復帰直後の74年には日米安保協議委員会で、移設条件付返還が決まる。どこかへ移設できるんだったら那覇軍港を返しましょうという合意が成立した。ただ行き先が見つかるような雰囲気がまったくなかったので、返還は合意されたものの今日まで20年以上も凍結状態が続くことになる。
そうした状態が、「合意してもどこかに受け入れないと返還されない」という面だけが強調されて、「返還が合意されても県内に行き先がないと結局、那覇軍港みたいになっちゃう」というひとつのモデルにされることにもなった。しかし実際は、アメリカが使いにくいからあまり使っていないというだけの話で、そうしたアメリカ側の事情をきちんと見極める必要がある。県道104号線の実弾砲撃演習の本土移転なども、その後の事態がはっきり示すように、射程を長くした演習や夜間演習など米軍側の問題を解決する方途として、アメリカ側の利益が交換条件のなかにきちんと組み込まれている。
那覇軍港返還問題は、95年になって今度は、いわゆる基地3事案(優先順位が高い事案として沖縄県が求めてきた3つ=(1)那覇軍港の返還、(2)読谷補助飛行場の返還、(3)県道越え実弾砲撃演習の廃止)のひとつとして浮上してくる。
間近に迫った強制使用の更新手続きをにらんでの大田知事との駆け引きも背景にしながら、村山=クリントン会談などでも踏み込んだ話し合いがされ、事務レベルでの話が進められ出てきたのが、浦添を含む那覇港の港湾整備計画のなかで浦添地区の埠頭にもっていく、というもので、読谷補助飛行場のパラシュート降下訓練の伊江島移設とあわせ前面にでてくる。それに対して、「もしこれを認めるとしたら沖縄側が初めて基地の建設を認めたことになる」という論拠での反対の声が出てきたりしていたなかで、95年の秋にぶつかる。その渦中で3事案もごちゃごちゃになりながら、大田知事がもう一歩踏み込んだのが普天間基地返還の問題だ。これは西銘知事もいっていたものだが、難しそうなので引っ込めていたものを、あの雰囲気のなかでもう一度大田知事が出していく。そして3事案と普天間返還を全部セットでSACO報告が出てくることになる。そのSACOの最大の目玉としての普天間基地返還が、海上ヘリ基地が頓挫して、もう一度もとに戻るかたちで今回の那覇軍港の問題が浮上する。
今度は日本政府と大田県政の関係の冷却化・膠着化のなかで、知事選を前にして知事選を睨みながら地元・浦添商工会議所が移設受け入れを打ち出す形になってくる。これは公明党なども含めてかなりの部分を巻き込んでいくことになる。
3事案の段階で名指しされた際には、市議会が反対決議を上げ宮城健一現市長も明確な反対を公約して当選したんだけれども、97年に大田県政が進める国際都市形成基本計画のなかで、那覇港湾をハブ港湾にする構想がでてくる。それは浦添から那覇軍港までを含む広大な地域一帯の大規模開発となる。これだけ広大になると港湾管理者も県と那覇市と浦添市と3者で共同管理を進めようというような新しい要素も進みはじめる。これが宮城健一など浦添市が打ち上げていた浦添西海岸開発構想と結びつく。
そうした状況の変化のなかで知事選挙を前に、浦添商工会議所の「受け入れていいじゃないか」という提起になった。宮城健一市長は反戦地主だし、基盤は革新として当選している。当然、軍港移設も反対。市議会も保守を含めて反対していた。商工会議所はそこをひっくり返す突破口をつくった。そこでの論理も、従来の「軍港」という強調のされかたを「軍民共用」に変えてもってくる、というものだ。
最初に話したように、稲嶺県政は開発という問題では大田県政と連続している。日本政府は「開発は基地と抱き合わせ」を求め、大田が「基地はいやだ」といったから「開発(振興策)」をストップした。だから「開発政策はたくさんあるのに大田が蛇口を閉めた。だから蛇口を開けさえすれば開発政策はいくらでも出てくる」という稲嶺側の選挙戦での主張がでてくる。「大田知事が準備したものを自ら蛇口を閉めた。今度は俺が開ける」といった話だから、当然連続したものが出てくる。
それが大田の弱点で、基地返還政策という矛盾したものとの抱き合わせであった。稲嶺の場合はその弱点が強調されて基地を後に引っ込めるかたちで整合性を確保しようという動きになっている。
那覇軍港移設が明確になってくるのは知事選以降だけれども、実は知事選の前から知事選も睨んで出てきている問題だった。それが稲嶺が当選することで加速されてきた。
■「開発」に揺れない反対運動の巻返しがはじまる■
宮城健一が革新側の市長、社民党だということもあって、浦添軍港の問題はある意味では、日本政府や稲嶺県政は敵のウイークポイントを見事に突いてきたともいえる。だから反対運動もやや立ち後れたところもあった。それでも昨年12月22日には「那覇軍港の浦添移設に反対する市民の会」が結成された。その意味は非常に大きい。彼らはかなり腰が据わっている。準備もちゃんとやってきてきちんと立ち上げている。反対の声を挙げ、それをもっと具体的にするいろいろな問題を提起しはじめた。
那覇軍港が使えないからこっちへ来ようとしているんだ、といった指摘や、西海岸を全部埋め立てて本当に使えるのか、とか、現在の港湾の荷扱い量を調査して、台湾の高雄は那覇港の100倍、香港は200倍、そこへ本当にいまから割り込めるのか、夢物語ではないか、とか具体的な問題を突き出しながら、移設容認案がつくり出した社会的雰囲気を着実に運動を積み上げて少しずつ巻き返し始めている。
しかし一方では運動に対する締め付けも始まっている。浦添軍港移設反対運動がこのまま突っ走っていくと、結局ハブ港湾構想まで否定されてしまう。そうならざるをえないと僕も思っている。けれども、いわゆる革新の内部にもなんとかして自分たち(革新県政)が打ち上げたハブ港湾を潰したくないという人たちもいる。そこからの締め付けも始まっている。
宮城市長も大田知事と同様ふらついている。そのふらついているところで宮城市長の支持基盤ははっきりとした動きかたをした。具体的な政策の分析や見方をもっていたといえる。市長選挙まで遡れば「市民の会」へ集まった人たち全部が宮城市長の支持基盤になる。社大党や社民党、共産党、自治労にしても中央はフラフラと巻き込まれかけたりもしているが、市長の支持基盤となった地元はそれを具体的な事実を基礎とした運動で引き戻しているところがある。そういう意味では彼らの運動は高く評価することができる。
彼らと市長がすこしずつとずれてきているが、市長も彼らと離れきれないところがある。離れたら浦添商工会議所や保守派に完全に乗り替えてしまうことにしかならないし、反戦地主の宮城健一がそこまでいけるかどうか。そこが綱引きでもあるし微妙なところでもある。
彼の公約は、ひとつは「軍港移設反対」、もうひとつは「西海岸開発」。これをどう両立させるか。だけども支持基盤はすでに、これは両立しないのではないか、と思い始めている。まだ断言はしないけれども。西海岸開発自身を見なおさないといけないのではないかと。プロジェクトをつくった彼ら自身が、自分たちのデータをもう一度整理しながら、この間の経緯や、台湾の高雄への視察などのデータも取込みながら、市長のやる仕事を、「市民の会」あるいは市職がやっているようなか感じもある。彼らの役割は非常に大きいし、僕はこれまでのところ非常に正確な歩み方をしていると思っている。過剰な思い入れをしているかもしれないけれども。
名護での運動の蓄積も生きていて、一坪反戦地主会も浦添ブロックを立ち上げて、規模も蓄積も少ないけれども名護市長選挙のときの北部ブロックと同じような役割を担おうという目的意識をもって活動をはじめた。
向こう側は、軍港を薄めながら開発を表に出してきている。海上基地より基地被害が見えにくいし、また浦添商工会議所は、「周辺事態法が成立すれば民間でも軍事利用されて結局一緒にされてしまうから、はじめから振興策をとって軍への一部提供でいいんじゃないか」といった結びつけ方もしている。そうすると軍港反対の方も開発まで踏み込まないと対応できない。「ハブ港湾とは何か」「その可能性はあるのか」といったことにも説得力のある追究の仕方をしないとならない。
■新たな形の反基地運動の模索■
特別措置法が改悪されていき、基地の強制使用を軸にした反戦地主におんぶする形での運動はできなくなっていくなかで、別な形の運動を作っていかなくてはいけない。そのきっかけをつくったのが名護の市民投票であって、浦添でもすぐに市民投票という声は出てきている。だが、まだまだ浦添は名護に比べて不利な状況におかれている。つまり、「名護とは違って基地の被害は少ない、かつ振興策のメリットは大きい」という形で打ち出されている。そこを崩していく過程のなかで市民投票の運動が組織されていかなければいけないと考えている。市民投票それ自体がいい、悪い、とか、それで決着をつけようという単純な話ではなくて、僕が常々いっているように、市民投票の役割は学習効果であって、学習活動はこの運動のなかでどんどん進んでいるわけで、その延長線上に住民投票が提起されるのかあるいは別の方法が取られるのか、それはそのときの状況に適応する手段を取ればいいのであって、僕はいま「浦添市民の会」がつくりだしている方向は非常に的確だし、それを準備してきたり支えている部分はかなりしっかりした見方をもっていると判断している。(談)(『派兵チェック』No.79、1999.4.15号)
「『頽廃藝術』の夜明け」から13年後の表現の不自由
富山県立近代美術館問題は終わらない
少々古い話から始めるしかない。1986年3月、富山県立近代美術館が主催で「'86富山の美術」という展覧会が開催された。そこに大浦信行さんが「遠近を抱えて」という作品を出品。そしてそのことによってある事件が起こされた。1986年に起こされたその事件は時代を遡り、苦々しい記憶や歴史を呼び起こし、そしてそれらが紛れもなく現在につながる大きな課題であることを私たち突きつけることになった。
この1986年の事件の続きのお話は、数カ月前の新聞記事で読めることになっている。
「天皇写真と裸婦画コラージュ 富山地裁判決『観覧不許可は違法』県立美術館に賠償命令」(『毎日新聞』)、「天皇肖像コラージュ 特別観覧制限できぬ
富山地裁『非公開は裁量範囲内』」(『朝日新聞』)、「コラージュ訴訟 天皇肖像権侵害認めず 富山地裁判決『象徴……制約受ける』」(『読売新聞』)、「昭和天皇の肖像権問題 知る権利を侵害と原告一部勝訴判決」(『産経新聞』)、「天皇の肖像権にも制約 人体解剖図とコラージュ 富山地裁判決『特別観覧不許可は違法』」(『東京新聞』)
いずれも富山地裁判決の翌日である1998年12月17日の各紙朝刊の記事の見出しだ。先に述べた「事件」について知らない人も、これらを一瞥するだけでこの「事件」のおおよその見当がつくにちがいない。それにしてももう少しの説明が必要かもしれないので少しだけ、私の知るところを書くことにする。
大浦さんの作品は先代の天皇ヒロヒトを様々な絵や物体や図とコラージュしたものだ。様々な絵や図とはレオナルド・ダ・ビンチや尾形光琳などの作品、女性のヌード、人体や動物の解剖図や内臓等々で、ヒロヒトがそれらにかこまれたり重なりあったりして、色も構成も美しく仕上げられている。と、見てきたように書く私であるが、実は写真や印刷物でしか見たことがない。そして、いまそれをこの眼で確かめたいと希望してもそれがかなえられない状況がつくり出された。これこそが「富山県立近代美術館問題」なのだ。
「'86富山の美術」展が終了し、同県立美術館は大浦作品「遠近を抱えて」のうち4点を購入し、残り6点を本人に寄贈依頼までして取り寄せて揃えた。その大浦作品のすべてとその図録に対して、大浦さんには何の連絡もないまま、同美術館と県立図書館は非公開、売却処分、廃棄等々と信じられないような権力行使をおこなったのだ。理由は簡単である。県議会において作品への批判が出された、天皇主義右翼による恫喝がかかったという(宮内庁の判断も影響しているのでは……といった推測も出されている)、いかにもありそうなお話なのだ。県議会での批判の大半は、「不快」や「常識からの逸脱」などという何の論理的な説明にもならない内容で、ほんの少し意味内容があるらしき批判というのが「天皇の肖像権」と「天皇の尊厳の侵犯=不敬」というやつだ。語義矛盾のようにしか思えない象徴と規定されているものに対する肖像権の主張や、時代錯誤を起こしそうな「天皇への不敬」が、批判の唯一の内容らしきものとなれば、これはやはり恐ろしくも笑ってしまうくらいの「ありがち」なお話となる。しかしそれにしても美術館やその図録を所蔵する図書館が、「はいそうですか」と行政や右翼の言いなりに表現の自由を踏みにじるというのは、「いったいいつの話?」と首を傾げたくなるようなお話で、「いかにもありそうなお話」であってはだんじて困るのに実際に起こってしまった。いってしまえば「富山県立近代美術館問題」とは、このような行政権力、最終的には国家権力の介入によって表現の自由を奪われるという、半世紀以上も前のドイツ・ナチスの焚書を、戦前の日本政府による「不敬罪」と墨塗り、戦後の占領軍による検閲を思い起こさせる事件だったのである。
この事件に対する批判は、小倉利丸さんら富山の人々によってまとめられたパンフレット「『頽廃藝術』の夜明け」pt.1,2(発行:大浦作品を鑑賞する市民の会、1988,1989)や、図書館や表現問題を中心につくられたパンフレット『富山クライデー』(1988)など、当時出された印刷物がある。また、美術館・図書館への交渉とそれに続く裁判を通して、批判の内容を深めていく作業が継続されており、それらについては『富山県立近代美術館検閲訴訟ニュース』に詳しい(発行:富山県立近代美術館検閲訴訟原告事務局、連絡先:Tel
/ Fax 0764(92)7808, e-mail :ogr@nsknet/or.jp)。
ところでこの「富山県立美術館問題」は、富山県立美術館・図書館固有の問題でも、時代錯誤的な事件でもけっしてない。天皇制というシステムの中で生きる私たちすべてに押しつけられている問題であり、天皇制固有の問題なのだ。そして私たちは常にこの問題と背中合わせにいるし、綱引き状態であるといえる。実際、天皇や天皇家を描いたり批判したりすることによって、表現の自由を奪われ、不利益を被り、それだけで済まず命まで奪われる場合もある。そしてこれは遠いむかしの話ではまったくなく、戦後象徴天皇制の時代、現在の話なのだ。
この富山美術館問題をめぐる訴訟の一審判決で原告団は、「象徴としての地位、職務からすると、天皇についてはプライバシーの権利や肖像権の保障は制約を受けることになる」(『読売新聞』)という裁判長の判断を引き出すことに成功している。これはかなり画期的なことだ。天皇の地位・権利に対する司法判断を、この裁判は迫ったのだ。また同地裁は、非公開によって観覧や閲覧の権利を奪われたとする訴えに対して「知る権利を不当に制限できない」として請求の一部を認めるという判決を出している。私たちが使える表現の自由のための法的な武器を、この裁判はつくり出してくれたのだ。
しかし一方、表現者である大浦さん自身の請求はすべて却下されている。問題の発端は天皇をモチーフとした作品へのクレームにあった。それを根拠に売却・廃棄処分にまでいきついたのだ。それにもかかわらず「作品の購入や処分は美術館の広い裁量にゆだねられており、今回の売却が裁量を逸脱しているとはいえない」(『東京新聞』)、「美術館が作品を非公開としたからといって表現の自由が侵害されたとは言えない」(『朝日新聞』)と、裁判は美術館の裁量の問題一般に歪曲し、大浦さんの訴えを退けたのだ。
しかし、作品の非公開は表現の自由の侵害である。しかも美術館は、大浦さんの「遠近を抱えて」というシリーズを揃えるために自ら買い求め、寄贈依頼をした。そして結果的には、すべてが美術館にわたったところで非公開に踏み切ったのである。そして、「非公開」を徹底するために作者の預かり知らないところに売却され、作者がそれを取り戻すこともできないのだ。しかも作品非公開の理由が「天皇主義者たちの気に召さなかった」の一点にあることは自明のことである。
私たちは表現の自由ということにおいて、とことん天皇(制)を愛するやつらに縛られているようだ。どうせ日本における「表現の自由」ってのは、国や地域や財界の権力者が「許可」といったときにはじめて成立する不自由のことをいっているのさ。しかしそれでも、不本意にもその「許可」を向こうがいわざるを得ない状況は作れるのだろうし、「不許可」のなかでも表現するしかないのだ。表現のバトルはまだまだ続くのである。